第3話 曹操もまたやらかし君だった件1(曹操3)
そもそも、曹操については気にかかっておることが二つあった。なので、史料を漁るときは、自ずとそれの答えを求めてとなるのだが。
一つは曹操の人となりである。『三国志』は曹操の伝として武帝紀を立てるので、潤沢とは言わないが、記事がまったく無い訳ではない。ただ、各々の記事がてんでバラバラで――最も有名なものはかの『治世の能臣、乱世の姦雄』であろうが――作者の中でうまく一人の人物像に収斂しない。
もう一つは曹操の軍事力である。しかも、最初期のそれである。現代に住んでいると、スポーツ選手などを見て、何となく抜きんでた才能さえあればと想えるかもしれない。
ただ、歴史時代である。例え、曹操にまれにみる軍才があったとして、それだけでスタートラインに立てる訳ではない。ちなみに、曹操は孫子に注釈を付けており、軍略オタクであったことは間違いない。群雄割拠のサバイバル・レースに割り込めるための最低限の軍事力を持っていなければ、そもそもお話にならないのである。曹操の場合、それが0とは言わないが、乏しかったのではないかと考えられるのである。劉備並みに乏しいと。劉備は序盤、満足な軍勢を率いることができずに、苦労している。
そもそもある程度の自前の軍勢――制度上では漢朝の軍であれ、一たび、漢朝の権威が失墜すれば、己がものにできる、そのような軍勢も含めて――を持っていたと考えられる代表例は二つ。一つは袁紹・袁術。もう一つは孫堅。前者については仲違いしても、なお相応の軍勢を持ち得ていることから明らか。後者は孫堅・孫策と短期間に二人の主を失って零落しなかった。よほどにこれを支える軍事的・経済的基盤がしっかりしておったのであろう。封地が洛陽から遠いことも重要である。そのおかげで、漢朝に警戒されることなく、軍閥化を進めることができたのであろう。(ついでにいえば、燕を拠点とした公孫氏なども、やはり都から遠いことを利して、軍閥化をなしえたと考えられる)
そこで曹操である。祖父は宦官のトップである大長秋、父は三公の一つたる太尉まで登り詰めるとはいえ、いずれも中央の官職であり、軍閥の礎とはなり得ない。軍閥化に際しては、位は低くても州の刺使(や郡の太守)を代々受け継いだ方が有利である。曹操には何にも無い、というのは、言い過ぎだとしても。
そこで私が考えたのが霊帝の寵である。つまり、それに後押しされてのし上がっていったのではないかと。それで、先話を投稿したあとも史料を漁っていたのであるが、これはというものを見つけた。曹操が相に任命された済南国についての記事である。ということで、以降は次話となります。お楽しみに。




