第1話 曹操1
「どうした? 孟徳。何を黙しておる? 逃げて来られたのだ。良かったではないか」
そう語りかけるは駒を並べる夏侯惇。曹操のいとこである。生き残った兵は夏侯淵と曹仁に委ね、ゆっくり帰ってくれば良いとし、代わりに己は夏侯惇と護衛十四騎とともに、急ぎ洛陽へと向かうのであった。無論、今回の戦の結果を帝(零帝)に報告するためである。
「いや、まさに己を逃がした者のことを考えておったのよ」
自陣に戻るを得た翌昼のことであった。捕らえられたときに引きずり降ろされ強打した足の痛みはまだ残るも、若いということもあり、休養の必要はなかった。帝は早くに結果を知りたく想っておられよう。それくらいの気づかいをできる愛嬌はこの男にもあった。
「それは分かるが、どうしてそんな不機嫌な顔をしておるのだ? 当然、感謝しておるのだろう」
「ここらでは見かけぬ黒ずくめの格好をした女でな。無論、そんなことに文句がある訳ではない。ただ、何かと気に食わんことを言う奴でな」
「ほう。何が気に食わん?」
「いや、もし逃がして我がまた攻めて来たら、どうするのだと聞いてみたのだ」
「相変わらずそなたも変わっておるのう。それで、相手が気が変わって逃がさぬとなったら、どうするつもりだったのだ」
「そのときは、そなたらが助けに来てくれる。それまで待てば良いだけだ」
「まったく。いい気なものだ。こちらが、孟徳の心配をしてやきもきしておったのを知らぬのか。それで相手は何と言うたのだ」
「そなたにその気があっても、兵は付いて来るまい。何せ我らには黄天様が付いておられる。それを目の当たりにしたは、つい数日前のこと」
「ほう。なるほど。ぐうの音も出ぬほどにやり込められたというところか」
「そればかりか、こんなことを言って来おった。我らはここを捨てて落ちのびる。そなたは帝に勝ったと報告すれば良い」
「はは。分かったぞ。孟徳は、今、まさにその者の言う通りにしておる。それが気に食わぬのだろう」黙り込む相手に対し、追い打ちをかける如くに、のたまう「どうだ迎え入れてみては?」
曹操はとんでもないことを言われたとばかり、その切れ長の眼を精一杯見開いて夏侯惇を見る。
「はは。何を勘違いしておるのだ。嫁としてではない。軍師としてだ。初見の相手をかようにいいように動かす。しかもそれが才人の誉れ高き孟徳殿と来てはのう」
どうやら、冗談だったらしく、夏侯惇はここで呵々大笑する。
他方、曹操はといえば、
「誘えば来てくれるだろうか?」と独りごち、まんざらでもない顔つきとなった。




