ep.32 ない
金がない。金がないのである。
麓をあとにした二人は、山から遠く離れた町までたどり着いていた。
このあたりでは最も栄えている町のようで、大通りには多くの人が行き交い、軒を連ねる店々も活気に満ちていた。
しかしそんな賑わいを楽しむ余裕など、いまのノアには微塵も残されていなかった。
町の活気とは裏腹に、その顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
なにしろ、金がないのである。
いくら龍との死線をくぐり抜けたからといって、それで懐が暖まるわけでもない。
だんだんと軽くなっていく財布に、足取りはますます重くなるばかり。
そもそも村を出た時、ひとり分の資金しか受け取っていないのである。往復分とはいえ、贅沢出来るほどの額でもない。ローズの分の宿代やら何やらまで払っていては、底をつくのも時間の問題だった。というか尽きかけている。
そのうえ、ローズは馬鹿みたいによく食べる。
おかげで手元の金はみるみるうちに減っていく。
このままでは野垂れ死ぬか、どうにかして金を稼ぐしかない。
少なくとも今の手持ちでは、帰ることも先へ進むこともできないのは確かだった。
二人は町へ着いて早々、まず宿にあの剣と荷物を置くと、身軽な格好で町へと繰り出していた。あの剣を背負いながらうろつくのは流石に気が引けたからだ。
しかしながら身体が妙に重い。
本来しなくて良いはずの苦労が、肩にずしりと重く伸しかかっている。
気もそぞろに通りを歩いていたノアは、ふと、店先の壁へ目を向けた。
ノアの目に、一枚の貼り紙が留まった。
ノアは思わず立ち止まり、ずいずいと先をゆくローズの服を掴んでいた。
不意に服を引っ張られたローズは、ぴたりと足を止めて振り返る。
「……おい」
ノアはその紙に向かっておずおずと指をさした。
「………ここで働くぞ」
指の先を追うように、ローズも自然と目を向ける。
そこには、『急募! 店内スタッフ募集!!』と書かれた紙が貼り出されていた。
◇
店内は、外から見るよりもいくらか華やかな雰囲気に包まれていた。
壁はくすんだ黄緑色で彩られ、淡い黄色や白の小花と葉をあしらった模様が一面に広がっている。
天井から吊り下がった丸みを帯びた照明が、壁や床を柔らかく照らしていた。
内装に特別派手な装飾が施されているわけではない。だが、古びた鏡や飾り額、曲線を描く家具などが控えめに配され、どこか古めかしく、それでいて洒落た空気を醸し出していた。
そして何より目を引くのは、壁際を埋めている色彩豊かな服の数々。
ブラウスやスカート、コートにドレスなど大小様々な衣服がハンガーに掛けられ、所狭しと並んでいる。
さまざまな色や柄の布地が隣り合っており、それらは店内を幾分にも華やかに見せていた。
加えて中央の台にも、帽子や装飾品といった小物がずらりと並んでいる。
あれこれと品が置かれているのに不思議と雑然さはなく、色や形の違いさえもひとつのまとまりとして店内に馴染んでいた。
客たちはまるで宝ものでも探すように、気になった品を手に取っては、一緒に来た相手と顔を寄せ、楽しげに言葉を交わしている。鏡の前では服を身体に当てながら、あれこれと思い悩んでいる人の姿もあった。
店員も忙しそうにあちこちを行き交っている。穏やかな話し声に混じって、ハンガーの当たる音や慌ただしい足音が絶えず響いていた。
田舎町の服飾店としてはなかなかの広さで、一階だけでも相当な数の品が揃っている。さらに奥には上階へ続く螺旋階段があり、その先にも売り場が続いていた。
三階まである店内には、普段着から少し洒落た外出着まで、町で暮らす人々が求めるものがひと通り揃っているようだった。
この近辺で服を買おうと思えば、まず名前が挙がる店なのだろう。
客の出入りが途切れる様子はなく、店の中は常にほどよい賑わいを見せていた。
そして今。
通りに面した店先で求人の貼り紙を見つけた二人は、早速店を訪れると、店長と名乗る女に連れられて店の奥へと案内されていた。
女の唇には、ひときわ目を引く真っ赤な口紅が引かれている。その鮮やかな色が、彼女の気の強そうな雰囲気をいっそう際立たせていた。
女は一枚の紙を手に、二人の姿と見比べながらひとしきり悩んでいたようだったが、やがてその赤い唇を開くと、
ローズの顔を指して「合格」
ノアを指して「……………ギリ合格」と告げた。
「なにをもって!?!!」
狼狽えるノアをよそに、女は続けて口を開く。
「明日、開店の一時間前───午前九時に来て頂戴。遅刻は問答無用でクビよ。わかった?」
「……は、はあ……」
なんだか強気で、有無を言わさず話を押し進める強引な女に、ノアは不安げに返答するのだった。




