ep.31 余燼
「あんまり……言ってなかった? あの力のこと」
すっかりと麓から遠ざかった道中で、ノアはおもむろに切り出した。
ローズは目を合わさず地面の先をじっと見ている。
「だって………見せろって言われても嫌だし」
そうぽつりとこぼれた声は、冷たい風に紛れてしまいそうなほど、か細くて弱々しい。
「それに、もう使いたくないんだ。あれはもう、使っちゃ駄目なやつだから」
ローズは胸元の服をぎゅっと握り締めていた。
指先がわずかに震えている。
そんなローズを、ノアは心配そうに横目で見る。
「そっか。………うん、そうだな。もうあんなのが現れないことを願うしかないな」
ノアは、はるか遠くに見える塔を見上げていた。
「俺、ローズ居なかったらとっくに死んでた」
ローズがばっとノアのほうへ顔を向けた。
「お前のおかげで助かった」
ノアはそう言って笑った。ローズは、なんとも言えない表情をしていた。
「……それよりお前…………怪我、ほんとにちゃんと治ってんの?」
眉を寄せ、怪訝そうな顔でノアが尋ねる。
「うんなんか……
ちっちゃい頃、目つぶりながら全力で走ってたら木に激突して出来た、古い傷も……なんか治ってる」
「なにやってんの? 昔から」
ローズは、ほら、と言わんばかりに前髪を上げてみせた。
ノアは呆れた顔でそれを見る。
「うん、でもまあ……、取り敢えず、良かったわ。
安心した」
ノアはほっとしたように、朗らかな笑みを浮かべた。
そんなノアを、ローズは無言でじーっと見つめていた。
「………………え、なんだよ急に」
視線に気づいたノアは、気恥ずかしそうに手の甲で口元を隠した。
ローズはふっと口元を緩める。
「…………べつにー、なんでもない」
「んだよそれ!」
ローズはくすりと笑うと、そのまま先へ駆けていく。
そのあとを、ノアは慌てて追いかけた。
◇
森の中は、明るい木漏れ日がたっぷりと降り注いでいた。
崖下を流れる川の水面は、柔らかな日差しを受けて眩しく輝いている。流れ続ける穏やかな水音は、いつもと変わらぬ朝を思わせた。
通報を受け現地へ急行したノエル・レオンハルトは、川辺へ足を踏み入れた途端、思わず立ち止まった。
「………まさか、本当に……」
レオンハルトは言葉を失っていた。
浅瀬に横たわっていたのは、伝承の中にしか存在しないはずの、本物の龍の死骸だった。
酷く腐敗が進み、辺り一帯は鼻を突くような酷い悪臭が立ち込めている。ハンカチで鼻をきつく抑えながら、レオンハルトは慎重にその近くへと歩みを進めた。
朝光に照らされた白銀の毛並みが、死してなお美しく輝いていた。
血泥にまみれても、その姿にはどこか神々しさが残っている。
そして何よりレオンハルトの目を釘付けにさせたのは、その大きさだった。聞いていた報告よりも一回り、いや二回りも大きい。目算でも、十五メートルは優に超えているだろう。
現場にはすでに数人の人影があった。研究所から派遣された生物学者たちだ。
彼らは立ち込める悪臭をものともせず、泥に足を取られながらも興奮を隠しきれない様子で辺りを駆け回り、思い思いに声を上げていた。
そのうちの一人、初老の男が、部下を引き連れたレオンハルトに気付くやいなや、興奮気味に駆け寄ってきた。
「大佐でいらっしゃいますか。研究所のクロイツナーです」
「レオンハルトだ。………想像以上だな。今、分かっていることは」
「まだ調査の途中ですが」
クロイツナーは息を弾ませながらも、努めて声を抑えるように言った。
「ご覧の通り、腐敗がかなり進んでいます。組織の状態から見て、死後少なくとも数日は経っているかと。
外傷から推察するに、おそらく崖上から落下し、そのまま川に流されここへ辿り着いたのでしょう。特に背面にかけて、落下の衝撃と見られる損傷や、岩に擦れた痕が相当数ある」
澄んだ水辺の匂いと入り混じる、ひどくむせ返るような死臭。
クロイツナーはその只中で、龍の頸部へと回り込むと、動かなくなった巨躯に手を掛け、ずっしりと重い皮膚を持ち上げた。
「この傷を見てください」
レオンハルトは息を呑んだ。
そこには、明らかに異質な傷跡があった。白銀の毛並みに覆われた分厚い皮膚を断ち切るように走る、まっすぐで鋭い切り口。落下や水流によって生じた傷とは、明らかに毛色が違っていた。
「死因は、おそらく落下によるものです。
……しかしこの傷は、自然に生じたものとは考えにくい。何者かによって意図的につけられた可能性があります」
「……………人の、手によるものだと?
野生の獣や、……あるいは他の龍に襲われた可能性はないのか」
レオンハルトの頭に、あの目撃証言がよぎっていた。
「ええ。爪や牙による損傷であれば、これほど深く直線的には入りません。それに傷口の幅、深さ共にほぼ一定です。おそらく何らかの鋭利な刃物で……明確な意図をもって斬り裂かれた痕と考えるのが自然でしょう」
「………誰かが、これに立ち向かった……と」
レオンハルトは、横たわる龍の体をまじまじと見渡した。
目の前に立つだけで圧倒されるほどの巨体。人間の体など、その足元にいれば、そのまますっぽりと影に呑まれてしまうだろう。
「……そんな事をやってのける人間がこの世にいるとは到底思えんが」
「ええ。私も概ね、大佐の意見に同意します」
クロイツナーは傷口から目を離さずに答えた。
「少なくとも、人間一人の腕力でつけられる傷とは考えにくい。この厚い皮膚と強固な甲殻をここまで深く断ち切るには、尋常ではない力が必要です」
そこで一度言葉を切ると、クロイツナーはひときわ異彩を放つ、爛れた傷口へ視線を移した。
「……ましてや、こちらの痕跡まで含めるとなると」
「まだ何かあるのか」
「いえ、これから分析を行う段階ですので、あくまで現時点での私の仮説にすぎませんが……」
そう前置きすると、クロイツナーは続けた。
「この傷口の周囲には、酷く焼け焦げた痕があります。もし私の見立てが正しいのだとすれば……この龍を断ち切った者は、尋常ならざる力───おそらくは、炎を伴う何かと共に、これを斬り裂いたのだと考えられます」
日が昇り、木々の隙間から差し込む光が、龍の死をより鮮明に照らし出していた。
周囲で飛び交う声が、まるで水底から聞いているかのように、次第に遠のいていく。
青い炎を纏い、龍の肉を断つ存在───荒唐無稽な話と切り捨てたはずの、あの例の目撃証言が、確かな輪郭をもってレオンハルトの脳内を埋めつくしていた。




