ep.29 残影
切り立つ山肌が目の前にそびえ立っている。
ごつごつとした剥き出しの断面は、そこはかとない圧迫感と冷徹さを感じさせる。
圧倒的な存在感で立ちはだかる崖壁を前に、ノアは手にした剣をじっと見つめていた。
剣を握ると思い出してくる。
暗い森で目にした、あの血なまぐさい光景。
血に染まった森。そこかしこに転がる死体。むせかえるほどの死臭。そして──そこで確かに死んだはずの、己の身体。
思い出すほどに、その生々しい死の感覚がよみがえり、息が詰まるような苦しさに襲われる。
そんな凄惨な記憶のなかで、ひとつだけ、異様なほど鮮明に感じ取っていたものがあった。
死の冷たさとは対極にある、あの熱い、手のひらの感覚。
剣を握る手に、力を込める。
激しい力が身体の中心で渦巻いて、何かに突き動かされるように、勝手に身体が動きだしていた───あの感覚。
あれが確かなものだったと、すぐに証明したい。
記憶が薄れてしまう前に、もう一度、あの力を引きずり出したい。そんな焦燥に駆られていた。
「確か、あのとき………」
ノアは目を閉じ、あの不思議な感覚を思い出そうとした。
記憶をなぞるように、すべての意識を手のひらへ集中させる。
───すると、握り締めた剣が、ほんのりと熱を帯び始めた。
同時に、手のひらから淡い光がこぼれ出す。
指の隙間から溢れた光が、握りしめた剣へと静かに流れ込んでいく。
剣が、淡く煌めきはじめる。
刀身に刻まれた緻密な模様が、光を受けて、淡く輝いていた。
流れるような曲線を描くその模様は、まるで光のなかで浮かび上がっているかのようだった。
背後で、男と少年の息を飲む気配が伝わってくる。
と、剣に光が宿ったその瞬間、全身に張っていた力が、がくんと抜け落ちた。
剣を握る手から、ありとあらゆる力が吸い取られるようだった。額から一斉に汗が噴き出てくる。身体の内側を血液が一気に駆け巡るのが分かる。
まるで見えない何かに身体の主導権を奪われ、そのまま支配されていくような、そんな抗い難い感覚に襲われる。
ノアは、思わず息を止めていた。
周囲のすべてが、異様なほど鮮明になっている。
肌を撫でる柔らかい風の流れが、あたかも自分の一部であるかのように感じ取れる。遥か遠くで落ちる葉の、ほんの微かな音さえも、耳元で囁かれたかのように鮮明に聞こえてくる。
まるで世界の輪郭が、急激に研ぎ澄まされていくようだった。
───思い出せ、思い出すんだ、あの時の……
ノアは逸る心を鎮めながら、薄れゆく記憶を懸命に手繰り寄せた。
どれだけ曖昧でも、あのとき感じたものだけは確かにこの身体が覚えている。記憶ではなく、もっと深いところに刻み込まれた感覚として───
龍に立ち向かう、あの瞬間。
迫り来る死。凍てつくような恐怖。全身の細胞が、生に縋りつくように叫んでいた。血に飢えた獣のような本能が、死を前にして、必死に抗おうとしていた。
そして、恐怖を突き抜けて湧き上がってきた、凄烈な衝動。心の底から突き上げてくる、明確な殺意。
龍への畏怖。
生への渇望。
死に抗う意志。
あの、湧き上がる、闘志────!!!!!
「────呈式、黎落の宣…………月滅斬煌」
ふっと、口にしたその瞬間、まるで剣そのものが意志を持ったかのように、目の前を振り抜いた。
凄まじい眩さをもった光の刃が放たれる。
それはまるで、光そのものが地上へ墜落してきたかのようだった。
光は大地を駆け、凄まじい衝撃を伴って眼前の巨大な断崖へと激突した。
空を揺るがす轟音。激しく舞い上がる土煙。
やがて風が土煙を押し流すと、その姿があらわになった。
そこにあったのは、強固な岩肌を深々と穿たれた崖壁。
まるで抉り取ったかのような、あまりにも巨大な傷痕が刻まれていた。
ノアの指からすっと力が抜け、手のひらから剣が滑り落ちる。
乾いた金属音が地面に響く。
「ああ、ちょっと。おい!」
男が咄嗟に背後から駆け寄った。
気を失ったノアが、青ざめた顔でその場で倒れていた。




