ep.27 秋暮れ
色づいた葉が、乾いた風に攫われ舞っていた。
窓縁で切り取られた外の景色は、ますます冬に近付きつつある。
窓辺の小さな丸テーブルに片肘をついて、ローズは窓の外をぼうっと眺めていた。
秋の陽射しに照らされて、色素の薄い髪が絹糸のように淡く透き通っている。
だがその眼差しはどこか空虚で、景色を映しながらも何ひとつ捉えてはいないようだった。
「おねえちゃん、これ、お花。新しいのに交換して」
ふと、部屋の外から声がかかる。
水がなみなみ入ったガラス瓶を両手に、幼い少年が慎重な足取りで部屋に入ってくる。
「ああ、うん」
ローズは椅子から立ち上がると、部屋の入り口で待つ少年の手からそれを受け取った。
花瓶と言えるほどのものでもない、ただの空き瓶に水を入れただけの簡素な代物。
細い口には、小ぶりの花がいくつも挿してある。どれも少し外を出ればすぐにでも見付けられるような、よくある可憐な野花であった。
少年はローズに花の瓶を受け渡すと、またバタバタと忙しなく部屋の外へと飛び出ていった。
再び部屋がしんと静まり返る。微かな寝息だけが、静寂を縫うように漂っていた。
ローズはベッドの傍らへ歩み寄り、サイドテーブルに飾られた花へ視線を落とした。
色褪せた花が、瓶の縁にもたれ掛かるように垂れている。
命が尽きて、枯れ果てた花。水はまだ残っているというのに、吸い上げる力を失い、朽ちていった花。
虚しく萎れたその命は、役目を終え、残骸としてこの世にとどまっていた。
ローズは白い包帯で覆われた手で、そっと手元の瓶と交換した。
卓上が、新しい色に生まれ変わる。
途端に、周囲の空気がぱっと華やいだ。
つい先刻まで野に咲いていた花々の、その瑞々しい生命力が部屋の隅々にまで満ちていく。
花には、幾多の想いが託される。
祝福。友愛。敬愛。恋情。時に誰かの門出を祝い、時に亡き人へと捧げられる。
この花は、祈りのようなものだった。
古い花の瓶を手に、ローズは、かすかに寝息の聞こえる方へ意識を向けた。
浅い呼吸を繰り返すノアが、ベッドに横たわっている。日中の光を浴びてもなお、起きる気配はない。
深い眠りの底へ沈んだまま、もう五日も目を覚まさない。
身体のどこにも傷は無いというのに、意識だけが戻らないままでいた。
明日には同じ姿、同じ表情で、呼吸だけを失っていたら──そんな不安が日に日に募っていく。
そんな胸中など知る由もなく、ノアは降り注ぐ陽光を浴びながら、穏やかに寝息を立てて眠り続けていた。
じわじわと押し寄せる不安から逃げるように、ローズは背を向け、部屋を出ようとした。
そこでふと、背後で、わずかに布の擦れる音がするのに気づく。
ローズは足を止めて、おずおずと振り返った。
ながく閉ざされていたノアの目が、今まさに、ゆっくりと開かれていた。五日ぶりに、その碧い瞳に光が映る。
窓から差し込む光に顔をしかめながら、ノアがゆるゆるとその身を起こす。
長く眠っていたせいか、後ろ髪は酷い寝癖であちこち跳ね上がっていた。
ローズの手から、瓶が滑り落ちる。
ガシャン、と乾いた音が部屋に響く。
色の抜けた花がぺしゃりと床に潰れる。水が飛び散って、あたりをガラスの破片とともに濡らしていった。
ローズは前のめりでベッドに手をつき、ノアの顔を覗き込んだ。驚きのあまり、うまく言葉を発せていない。
寝起きのぼやけた視界いっぱいに、いきなりローズの顔が迫ってきたので、ノアは状況を呑み込めず、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
「……あれ、おれ………」
声を発した途端、ノアの動きがぴたりと固まる。まるで喉を潰したような、自分のものとは思えない酷い声だったからだ。
「………、み、みず……」
今にも消え入りそうな、しゃがれた声でノアが訴えかける。
ローズはサイドテーブルのグラスをひったくるように掴むと、そのまま勢いよくノアの口元へ押しつけた。
勢い余って傾けたせいで、水の半分以上は口に入りきらず、ぼたぼたと口元から零れ落ちていた。
「……ごふッ……っ、ちょ、ま、おぼれる、っ、溺れ死ぬわ!!!!」
ノアは思わず声を荒らげる。
ローズは目にいっぱいの涙を溜めたまま、ノアの顔をじっと見つめていた。唇は痛いほど強く噛み締められている。
「…………っ、もう二度とボクの前であんな事しないで……!!」
ノアの肩をきつく掴んだローズが涙声で訴える。
あまりの剣幕に、ノアは気圧されるがまま、こくりと頷くほかなかった。
「…お、おう……」
「おねえちゃん! いますごい音したけど大丈……夫……」
勢いよく部屋へ飛び込んできた少年は、ベッドの上のノアを目にした途端、言葉を失った。
「ええ!! お、起きてる……!!??」
少年は目を丸くしたまま、転がるような勢いでノアのもとへ駆け寄る。
「あはは、お、おはよう……?
俺そんなに寝てた……? かな……」
「お兄ちゃん、五日も起きなかったんだよ……!!!」
「え、そんな!?!!」
しゃがれた声で、思わずノアは声を張り上げていた。
「もう、このまま、し、死んじゃうかと……っ、思った……っ……」
「いや、通りで……」
ノアは自身の身体に意識を向けた。
全身が鉛のように重く、普段の寝起きとは比べものにならない倦怠感が全身にまとわりついている。このままベッドの底へ深く沈み込んでしまいそうな、そんな錯覚さえ覚えるほどだった。
しだいに意識が鮮明になるにつれ、あの暗い森で見た最後の光景が、脳裏へ浮かび上がってきた。
ひとつ思い出したのを皮切りに、途切れていた記憶が雪崩を打つように、一気に頭の中に流れ込んでくる。記憶は痛みを伴って、容赦なく頭を殴りつけてくる。
ノアは血相を変え、咄嗟に腹部を押さえた。
確かにこの目で見たはずの、自らの身体が断たれているあの光景。
血の海に沈む体。生温かい血溜まりの感触。
服の上から、おずおずと腹を撫でる。裂かれたはずの腹が、何事も無かったかのように繋がっていた。
「……え………おれ……なんで生きてんの……」
ノアは、喉の奥から絞り出すような声で呟いた。
「お兄ちゃん、どこも怪我してないよ。なのに、死んじゃったみたいに起きなかったんだ」
少年の声を聞きながら、ノアはじっと手のひらを見つめていた。
確かに残る、剣を握り締めたあの感覚。
身体の奥底から力が湧き上がるような、あの不思議な体験。
不意に、きらりと光る小さな輝きが視界に映り込んだ。
ノアは反射的にその光のもとへ目を向けた。
窓から差し込む陽光を受けて、指輪が輝いていた。
光に導かれるように、ノアは手を返し、指に嵌められた指輪へ目を凝らした。
中央に据えられた碧い石。
表面には、細かな亀裂がいくつも走っていた。
──あれ、こんな傷あったっけ。
と、口にしかけた、そのときだった。
部屋の外から、どたどたと荒々しい足音が響いた。床を踏み鳴らす音は瞬く間に近づき、勢いよく扉が開いた。
「お前ら、ここに居たのか!」
怒涛の勢いで飛び込んできたのは、あの岩窟で血を流して倒れていた男だった。
痛々しい包帯姿とは裏腹に、有り余る活力が身体から溢れ出しているかのような元気ぶりだった。
「あ!? お前、意識を取り戻したのか……!
いやあ、よかった、よかった! もう駄目かと思ったぞ!」
男は嬉しそうに声を上げると、ずかずかとノアのもとへ歩み寄ってきた。
「見ろ、俺はすっかり元気だ! お前が助けてくれたおかげでな!」
そう言うなり、男は包帯だらけの腹をばんばんと叩く。
「ほら、この通り! ………っ、いっでェ!」
傷口に響いたのか、男は途端に顔をしかめ腹を押さえていた。
「げ、元気そうで何より……」
ノアは引きつった笑みを浮かべながら言葉を返した。
「お前が目ぇ覚ましてくれて良かったわ。罪悪感で死ぬとこだったぜ」
ベッドのすぐ傍では、少年が涙の滲む目でノアを見つめていた。
「………、ありがとう。ありがとう、お兄ちゃん」
ノアは重い腕をゆっくりと持ち上げ、少年の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「あはは、お前の父ちゃん、助かって良かったな」
少年が小さな身体を押しつけるようにぎゅっとノアに抱きつく。
服越しに伝わる高い体温と、胸元にじわりと広がる涙の感触に、ノアはふっと口元を緩めながら胸の中の小さな頭を撫で続けていた。
「このお嬢ちゃんが、剣であの龍を崖から叩き落としたんだとよ」
男がすぐ傍に立つローズを親指で指し示した。
ローズは無言でノアへ向けてピースサインを掲げている。
「…………………まじ?」
静かな部屋に、呆然とした声だけが落ちた。




