ep.26 爛漫
濃密な死の気配が場を満たしていた。
ごっそりと生気の抜け落ちた顔が血に沈み、冷たく横たわっている。大量に流れ出た血が、地面を赤く染め上げるように広がっていた。
閉ざされたノアの瞳は、もう二度と光を映すことはない。命の尽き果てた肉体は、ただただ空虚に満ちていた。
深い森の闇に溶け込むように、静かに地に還ろうとするかのように、血溜まりの中に落ちている。
死んだノアの周りを、光が包み込んでいた。
塔から伸びる無数の手が、つぎつぎと光に触れていく。触れて、光のなかに溶け込んでいく。
その刹那、ノアの人差し指に嵌められた指輪の石が、碧く瞬きだした。
血まみれの碧い石が、脈打つような輝きを宿す。
ぴきり、と繊細な亀裂が石の表面を走った。
亀裂は枝葉のように線を広げていく。
ひび割れた裂け目から、碧い光がひそやかに滲み出る。
光を煮詰めてドロドロに溶かしたようなエメラルドの滴が、涙のように流れ落ち、指を伝って血溜まりに混ざりあう。
血と碧が、互いを喰らい合うように絡み合っていく。
煌めきが走る。ひとすじの光。
光と溶け合った鮮血が、静かにその形を変えていく。
やがてそれは、眩いばかりの光を纏って現れた。
見る者の息を奪うほど美しく、それでいて底知れぬ禍々しさを秘めた一振り。
塔の威厳と神聖さをそのまま映し取ったような、格調高く美しい白銀の剣が、光の中から顕在したのだった。
静寂を踏み破るように、龍の足音が重く響いていた。
命の尽きた亡骸にはもはや一片の興味もないのだろう。龍はゆるやかに巨体を翻すと、次なる獲物を探すように視線を巡らせた。
そしてその場をあとにしようとした──その時だった。
何かの気配を察知したのか、龍の動きがぴたりと止まった。
暗闇の中で、白銀の剣が光を宿していた。
光の粒子が煌めいて、パチパチと弾けている。夜空から星々が零れ落ちてきたかのように、儚く爆ぜ、輝いていた。
「────呈式、黎落の宣………月滅斬煌〈げつめつざんこう〉」
それは、凄まじい閃光だった。
月の光よりも気高く、鮮烈で、圧倒的な光が奔る。
闇夜を斬り裂くように光の刃が解き放たれ、容赦なく龍の体を抉り抜いた。
轟音が森を揺るがす。一瞬にして、周囲の木々が一気に薙ぎ倒される。闇が押し流され、すべてが光の衝撃に呑まれていた。
龍は、突如として食らった一撃に反応が遅れていた。
それもそのはず、死んだはずの少年が、凄まじい殺気を纏って目の前に斬りかかってきたからだ。
ぱっくりと大きく裂けた龍の傷口から、ぼたぼたと臓物がこぼれ落ちる。
舞い散る血飛沫越しに見える少年の肉体は、まるで何事もなかったかのように無傷だった。
激しく血に染まる衣服を纏い、完全に再生を果たした身体で、ノアはたしかにそこに立ち上がっていた。
目に宿る闘志。一瞬の隙も逃さぬ鋭い眼差し。研ぎ澄まされた殺意。
そこにあったのは紛れもなく、生血の通う、ひとりの人間だった。
すかさずノアは次の一手を繰り出そうと、足を踏み込もうとした。
──だが意思とは反対に、身体は思うように動かない。
剣を振り切った姿勢のまま、ゆっくりと身体が地面へ吸い寄せられていく。
力を放ったと同時に、肉体から、力という力が一瞬にして抜け落ちていたのだった。
ぐらりと視界が傾き、急速に意識が遠のき始める。限界を超えた反動が一気に身体中に押し寄せてきていた。
龍も身を両断されんばかりの深手を負い、普通であれば一歩も動けぬほどの致命傷を受けているはずだった。
だがしかしその瞳には衰えるどころか、さらに凶悪な輝きが宿っていた。
底知れない生命力を燃え上がらせ、強靭な牙を閃かせながらノアに襲いかかる。そこにあったのは、剥き出しの殺意だった。
──まだ死んでない、動け、動け、動け
身体を動かそうにも、まるで自分の身体でないように言うことを聞かない。指先すら動くこともままならず、そのまま意識が闇のなかに包み込まれていく。剣が、手の中からすり落ちていく。
鋭い双眸が、目前でノアを捉えていた。
ノアの首元へ、龍が獰猛な顎を開いて迫る。
ああ、間に合わな────
「────呈式、烈華の宣……焔咲〈ほむらざき〉!!!!」
ノアが気を失って地面に倒れる瞬間、消えゆく意識のなかで、青い炎が揺らめいていた。まるで青薔薇が咲き乱れているような、凛とした鮮やかな炎。
その光景を最後に、ノアの意識はぷつりと途絶えたのだった。
すべてを燃え尽くすかのように、青い炎が燃え盛っていた。
ローズは青く燃える剣を手に、龍の顔面めがけ勢い良く斬りかかった。
肉を裂いて深く食い込んだ刃先が、龍の血に触れる。その瞬間、炎が血肉を喰い尽くすように燃え広がり、青い爆炎となって炸裂した。
森を揺るがすほどの衝撃が辺りを包み込む。
激しく血が飛び散り、焼き切れた肉片が四方へ弾け飛んだ。飛び散った熱い鮮血が、ローズの頬を赤く染めていく。
龍は血を吐き散らし、狂ったように咆哮する。だが龍の攻撃よりも速く、ローズは剣を振り抜いた。青炎が爆ぜ、灼けつくような衝撃が龍に襲いかかる。
爆炎と灼気が荒れ狂うなか、ただ一心不乱にローズは斬撃を浴びせ続けていた。
青炎の攻撃をまともに食らった龍は、怒号を放ちながらその巨体を背後へ大きく飛び退かせた。
顔面は焼き崩れるように半壊し、砕けた顎から大量の血と唾液が垂れている。深々と抉られた傷口からは焼け爛れた肉が覗く。
片目を完全に潰された龍はローズに激しく咆哮すると、体を大きく翻し、地を揺らしながら一気に駆け出した。
ローズは力の反動で一瞬にして吹き飛びそうになる意識を、歯を食いしばって必死に繋ぎ止める。
左足を強く踏み込むと、深い傷口から血が溢れ出てくる。剣を握り締める爛れた手から、血がダラダラと流れてくる。だが構わず、逃げる龍の背だけを見据え、真っ暗な森の奥へと追い続けた。
それから僅かな力を振り絞り、どれだけ走ったことだろう。
龍は致命傷を負いながらも、猛烈な勢いで森を駆け抜けていた。龍が踏み荒らした地面には、夥しい血の痕が絶え間なく続いていた。
そうしてローズは今にも気を失いそうになっていた、そのときだった。
暗い視界が一気に開ける。
深い森の気配がふっと途切れ、目の前に果てしない夜空が広がっていた。
そこは、森の奥深くで断ち切られた、逃げ場のない断崖だった。
背後に迫るローズの足音に反応し、龍は素早く身をひるがえした。脆い足元が砕け、欠けた砂の層がぼろぼろと崖の底へ落ちていった。
龍は牙を剥きながら後ずさる。じりじりと、崖際へと押しやられていく。
ローズは荒い呼吸を押さえつけるように深く息を落とした。
震える手で剣の柄をきつく握りしめる。
すでに青い炎は消え去り、大剣は本来の姿を取り戻していた。
それでも尽きかけた力を振り絞り、剣を握る手に力を込める。すると、刀身にほんのわずかな光が走った。静かで淡い煌めきだった。
途端に、まるで剣に力をすべて吸い取られるかのように、握り締めた手がガタガタと激しく震え出す。額から大量の汗が吹き出てくる。
すでに立っているだけで限界の状態だった。
ローズは、ぎらりと光る龍の目をまっすぐ見据えた。
ここで外せば、もう二度と機会はない。
ローズは崖際へ躊躇なく踏み込んだ。
崖下へ落下するのさえ厭わぬ勢いで、渾身の力をもって龍に斬りかかる。
龍もまた咆哮を轟かせ、ローズを切り裂こうと鋭い鉤爪で襲いかかってくる。
龍が鉤爪を振り被った、その瞬間。龍の重心が流れ、後脚がざらりと地を滑った。巨体がわずかに揺らぐ。
ほんの一瞬、龍の胸部が、完全に無防備になった。ローズはすぐさま重心を深く落とした。全体重を乗せるように強く足を踏み込み、身体の奥底から力を引きずり出す。握り締めた大剣へ、ありったけの力を込めた。
「──ぅああああああッ!!!!」
露わになった胸部めがけ、ローズは大剣を振り抜いた。
凄まじい衝撃とともに、龍は支えを失ったように大きくよろめく。
直後、崖の縁から不気味な軋みが響いた。地に稲妻のような亀裂が走る。踏み止まろうとした龍の足元で、ついに崖は耐えきれず、脆く崩れていたのだった。
足場を失ったその巨体が、崖の断片とともに遥か真下へ落ちていく。
重力に引かれるがままに落下し、龍はやがて、底を流れる川の水面へと凄まじい勢いで叩きつけられた。
幾拍もしてから、ドォンッ!! と轟音が遅れて届く。
ローズは足先ギリギリで断ち切られた地面から、弱い足取りで後ずさった。龍のすがたを見届けることなく、力を失ったようにその場に倒れ込む。あと半歩踏み込んでいれば、同じように落ちていただろう。
だがそんな安堵に浸る間もないほどの反動が、ローズの身に激しく襲いかかってきていた。
「かっ、は……っ」
呼吸できないほどの苦痛が身体の内側を蹂躙する。鋭い耳鳴りが、頭の奥でけたたましく響く。意識がじわじわと霞んでいく。
心臓を握り潰されるかのような苦しみに、ローズは胸元の服を鷲掴んで必死に掻き乱した。
ごほごほと激しく咳き込むと、唾液と入り混じった血が、力なく開いた口元から地面へと垂れていく。
「はあ、はあ、は、は」
過呼吸に陥ったまま、やがて力尽きるようにローズは意識を手放した。
静寂が辺りを包み込む。
まるで何事もなかったかのように、森は重く、静まり返っていた。
夜の澄み切った空気が、森の傷痕を撫でるように静かに吹き抜けていく。
天には、光が爆ぜる瞬間を永遠に閉じ込めたような満天の星々が、まるで迫り来るかのように爛々と散りばめられていた。




