ep.25 威光
足を引きずるように駆けていく。
足元がおぼつかず、何度も体勢を崩しかける。
左足の傷口から絶え間なく血が流れ、肌を伝って靴の中へと染み込んでいく。踏み出すたび、足元にぬるい感触が広がった。
涙で視界がぐしゃりと歪む。ローズは乱暴に袖で拭い、ただひたすらに前を見据えて走った。
少しでも振り返れば、足が止まってしまう。
ノアは死んだ。もう助からない。
喉元まで込み上げる絶望を押し殺すように、ローズは拳を強く握りしめた。
爛れて剥き出しになった皮膚が悲鳴を上げる。
ローズはさらに指へ力を込めた。堪えきれない自責と後悔を、傷口に刻みつけるみたいに。
両親が死んだ時。
レイモンドの腹に何度もナイフが突き刺さっているとき。
燃え盛って焼け落ちる家。
広がる血溜まり。
何もできず、ただ立ち尽くすだけだった。
ローズの胸の奥では、いまも幼い彼女が泣きじゃくっていた。
涙で滲んだ視線の先に、塔が見えた。
森の奥深くだというのに、木々の合間から立派に聳え立つ巨大な塔。
天高く伸びるその姿は、この世界のどこにいても目に入る。月光を浴びながら、爛々と輝いている。
いつもと変わらない塔。どこまでも美しく、どこまでも不気味な塔。
すべての顛末を、人々の営みを、見届けるように、ただそこに存在している。
どれだけ心が沈もうとも、どれだけの悲劇に見舞われようとも、悲しみに暮れて心が押し潰されたときだって、塔を見るとき、人は自然と顔を上げる。
そうやって、人々と共に生きてきた。人々の心に深く根ざした塔。
こんな時だというのに、塔はなにも変わらない。ただ滑稽そうに、静かに世界を見下ろしている。
どうして何もしてくれないの。
どうして誰も助けてくれないの。
ローズは縋るような眼差しを向けた。
また守れなかった。また失った。
力があったって、強くなければ意味が無い。
涙がとめどなく溢れてくる。
力を使い果たした身体は、今にも崩れ落ちそうだった。
どこまでも続く暗闇が、行く手を阻むように迫り来る。
ほとんど意地だけで、暗い森のなかを走り続けていた。身体はとっくに悲鳴を上げていた。
足元が激しくふらついて、視界も定まらなくなってくる。
やがて体力が底をつき、ふっと今にも倒れそうなときだった。
ローズの足が、ぴたりと止まった。
目の前から、何もかもが、唐突に消え失せたからだ。
世界からすべてが消えている。
あるのはただ、どこまでも広がる真っ暗な世界。
すべての音が、すべての気配が、世界を形作るあらゆるものが、一瞬にして消え失せていた。
この世界で、たった一人。
ローズは、天を見上げていた。
真っ暗な闇の中で、塔だけが光り輝いている。
眩いばかりの光を、解き放っている。
ローズは信じられないものを見るように、目を瞬かせた。
また目を開いたとき。
塔は間近に現れた。
塔が、すぐ目の前に存在している。
遠くから眺めるだけだった塔が、いま、手の届きそうな場所にある。
ローズは息を呑んだまま立ち尽くしていた。
間近で仰ぎ見る塔は、ただ圧倒されるというほかなかった。
この世のものとは到底思えぬ崇高な威容が、そこに聳え立っている。
人智を超えた至高の美。畏怖を抱かせるほど気高く、魂を震わせるほどに神聖。
まさに、天上の創り出す神秘と荘厳の極致。すべてを凌駕し君臨するその姿は、この世の理を突き破って顕現したかのようだった。
一切の穢れなき澄明たる光が、世界をあまねく照らしている。まるで、聖域から光が滲み出ているかのように。
絢爛たる輝きに、ただ目を奪われる――
ローズは、奇妙な光景を目の当たりにしていた。
無数の手が、塔から伸びてくる。
死人のように真っ白で、不気味に透き通った、おどろおどろしいほどの手。手。手。それらが白い奔流のように、どっと押し寄せてくる。
白い肉に、無数の「碧い目」が狂い咲いていた。一つの手にいくつもいくつも、びっしりと。世界のすべてを監視するかのように、ぎょろぎょろと不気味に虚空を見渡し、蠢いていた。
手の群れは互いの肉を貪り合うように絡み合い、巨大な一つの大蛇のような塊となって、うねり、前へ前へと向かっていく。
立ち尽くすローズの視界が、一瞬にして白に埋め尽くされた。
無数の手が、すぐ傍らを凄まじい勢いで流れ抜けていく。
ローズは圧倒されるまま、ゆっくりとその手が向かう先へと振り返った。
光があった。
全てを包み込むような陽だまりのような光。
手の群れは光を求めるように伸びてゆく。蠢いて、押し寄せていく。




