ep.24 還る光
龍の息づかいが、頭上から降ってくる。
静まり返った森のなか、引き攣ったように繰り返すノアの浅い呼吸がやけに鮮明に響いていた。
いくつも貫かれた傷口の疼きが、苦痛となってきつく喉元を圧迫する。
死んだほうがマシだと思うほどの激悦な痛みが身体を乗っ取り、指先ひとつ動くことすらままならない。
徐々に意識が遠のき、あらゆる感覚が鈍くなっていく。
地を揺らす足音が、すぐ間近に迫っていた。
禍々しい気を纏う龍は、虫の息で横たわるノアを静かに見下ろしている。
月明かりに照らされて、透き通るように白銀の毛並みが輝いていた。地を踏みしめるたび、周囲の木々が気圧されたようにざわめく。
このまま、そこら中に転がっている死体の一部となるのだ。
死は容赦なく喉元へ刃を突き立ててくる。
じわじわと体を蝕むように、命が尽きていく。
じき訪れる死を受け入れているはずなのに、浅い呼吸から、必死に空気を取り込もうと肩が大きく上下していた。
この状況でも身体は必死に命を繋ぎ止めようとしているかのようだった。
ノアは暗い森の地面をぼんやりと見つめながら、あの小さな家に広がる庭の景色を思い出していた。
満開に咲く花を嬉しそうに見て、朗らかに笑うエリゼ。庭の片隅でいつも気持ちよさそうに眠り呆けていたウィリアム。
ふたりは自分の死を知らされて、何を思うだろう。
ノアは力を失ったように、そっと目を閉じた。それだけが気がかりだった。
失った庭を見つめるエリゼの横顔が何度も頭を過ぎる。
ノアは小さく瞼を震わせた。また悲しい思いを味あわせてしまう。
かすかに残る涙の気配に誘われるように、泣きじゃくるローズの姿もまた、意識の端でよみがえった。
顔をくしゃくしゃにして、枯れ果てるほどの涙を流していたローズ。
ノアは静かに息を吐いた。
死んだら泣いて悲しむ人がいる。それだけで、何の変哲もない、取るに足らない人生が、不思議となんだか意味のあるものに思えた。
身体からみるみる力が抜け落ちていく。
龍の重々しい足音が地面を這い上がり、鼓膜に響いてくる。
ノアはぐったりと龍を睨むように見上げた。最期の景色を目に焼き付けるように。
龍もこちらを鋭い眼光で射抜いている。
龍がゆっくりと近づいてくる。巨大な影が、月明かりを遮るように襲いかかる。
迫り来る死を前に、ノアは覚悟を決めたようにぎゅっと目を閉じた。
血と臓物の臭いを孕んだ生暖かい息が、無防備に晒されたノアの首筋に吹きかかる。龍がその気になれば一瞬で首筋を噛み砕き、命を貪り尽くせる距離だった。
喉の奥から漏れ出る低い唸り声が、すぐ目の前で不気味に響く。
殺される。その絶対的な暴威に、肌が粟立ち、全身の血が凍りつくような恐怖がノアの身体を支配した。
龍は力なく横たわるノアの姿をじっと見つめている。冷徹な双眸が、地に伏した獲物を値踏みするようになぞる。
──だが、予想していた衝撃はいくら待っても襲ってこない。
と突然、龍のその眼からふっと熱が消え失せた。
龍は張り詰めた沈黙を引き裂くように鼻を鳴らすと、興味を失ったように冷淡に顔を背けた。
世界を押し潰さんばかりに満ちていた凄まじい殺気が、嘘のように、急速に引いていく。
助かった、と思う暇はなかった。
地響きを立てながら、龍の身体がその向きを変える。踏み出すその足は、ローズが逃げていった道の先を向いていた。強靭な四肢が地面を深く抉り、今にも走り出そうと重く息を吐いている。
龍が、ローズの後を追って駆け出そうとしていた。
まずい。いくらあのローズでも怪我を負った状態で逃げ切るなど不可能だ。
ノアは戦慄し、全身の血が沸騰したかのような激しい衝動に駆られた。
使い物にならないはずの腕を地面に突き、奥歯を噛み砕く勢いで食いしばる。ノアは無理矢理にその身体を立ち上がらせた。首筋に血管が激しく浮き上がる。震える身体を執念だけでねじ伏せる。
「………っ、いかせねぇ……」
ノアは全身の力を振り絞り、よろけながら地面に散らばっていたナイフを拾い上げると、目の前にある龍の前脚に向け、ありったけの力で突き刺した。そのまま、崩れるように龍の足元へと倒れ込む。
「……はぁっ、はぁ、はぁっ……」
ひどい出血で、呼吸の音さえ遠く感じられるほど意識が薄れ始めていた。指先から急速に感覚が引いていく。全身が冷たくなっていく。
龍は冷徹な眼でノアを睨んでいた。荒い息遣いが、肌に直に伝わってくる。
龍は這いつくばるノアを見下ろすと、白銀の尾をしならせた。
硬い甲殻に覆われた太い尾が、容赦なくノアの首元に巻き付く。そのまま蛇のごとく締め上げられ、ノアの身体は龍の眼の高さまで一気に持ち上げられた。
気道を潰され、絶望的な苦痛がノアを襲う。
ノアはわずかに残った力を振り絞り、苦しさを紛らわすように何度も足を蹴り上げた。しかしその抵抗も虚しく、足は無意味に空を切るだけだった。
「……っか……っ、……は……」
必死に空気を求めるように、喉の奥からかすれた声が漏れ出る。すぐ目の前には、命の灯火が消えゆく様を冷酷に見つめる、龍の巨大な眼があった。
高く持ち上げられた視界の端に、森の奥へと続く道の先が映り込んだ。そこには、遠ざかっていくローズの姿があった。足を引きずり、体勢を崩しながらも必死に駆けていく後ろ姿だった。
苦しくて、息が出来ない。激しい濁流のような苦痛のなかで、ノアはその小さくなっていく背を必死に目で追いかけていた。
───はやく、はやく。もっと、もっと遠くに。
さらに尋常ならざる強さで締め上げられ、悲鳴を上げるように骨がきりきりと軋む。首の骨が耐え難い音を立てていた。
ノアの両手は何度も必死に尾を引き剥がそうともがく。だが尾を覆う強固な甲殻はびくともしない。それどころか、狂ったように何度も爪を立てたせいで、指先の皮膚がボロボロに引き裂け、血で爛れていた。到底抗うことのできない、圧倒的な力の差。どうすることもできずに、ただただその強大な力に呑まれてゆく。
至近距離から、重い唸り声が響く。龍は獰猛に顎を開き、月光に濡れる鋭い牙を剥き出しにした。
ノアははじめ、ローズの背に気を取られ、気づけなかった。気付いた時にはすでに落ちていく瞬間だった。
地に落ちていく。
視界が猛烈な勢いで急降下する。容赦なく地面に打ち付けられる。凄まじい衝撃とともに、視界いっぱいに赤い血が広がった。
ノアの目が最後に捉えたのは、血溜まりの中にある、真っ二つに切り裂かれた胴体。腰から下の身体が、完全に切り離されていた。それは紛れもなく、自分自身の身体だった。血まみれの断面が、目の前に落ちていた。
龍の強靭な爪により、ノアの胴体は両断されていたのだった。
それすら理解する間もなく、ノアの意識はそこで、ぶつりと完全に途絶えた。
死の間際、何を思うでもなく、あっけなくすべてが消え失せた。
深い森の奥底に、またひとつ、無情に死が降り積もる。
ぬくい血の上で、冷たく沈み込んでいく。




