ep.23 泣かないで
ノアは岩窟に向かって駆け出していた。
ああもう、どうして俺は、こんなふうに生まれてきたんだ。
ノアは自分自身を責め立てるように、胸の奥で吐き捨てた。
森の奥では、なおも凄惨な攻防が続いていた。ローズが大剣を振るうたび、視界の端で青白い火花がちらちらと鋭く弾け、暗闇を裂くように散っていく。龍は低く唸りながら、獲物を嬲るようにじりじりと間合いを詰めていた。
ノアは岩窟のすぐ近くまで来ていた。
間近で見る男の姿は、ひどく痛々しいものだった。むき出しになった腹部の損傷が特に深く、身体のあちこちでは裂けた皮膚を伝って赤黒い血が流れ落ちていた。顔に生気がない。
ノアは男のもとへ駆け寄ると、すぐに身を屈めた。自分より一回り大きな身体を、引きずり上げるようにして背負う。
意識のない成人の男の身体が、ずしりと容赦なく背に圧し掛かる。
気を張っていなければ重心がぐらりと崩れ、そのまま倒れ込みそうになる。
ノアはその重さに抗いながら、しかし確実に、足を前へと踏み出した。
わずかだが、かすかな息遣いがあった。
少年の待つ方へと重い足で必死に駆けるノアは、ローズのほうをしきりに気にしていた。
あたりは急速に暗さを増し、この距離では、その姿をはっきりと捉えることができない。だが明らかに、ローズが劣勢に追い込まれていることが見てとれた。
遠目にもわかるほど動きは鈍く、一撃を往なすたびに大きく体勢を崩している。ローズの限界が近いのは火を見るより明らかだった。
さらにノアの胸をざわつかせたのは、龍の、その圧倒的な大きさだった。以前遭遇した個体よりもひと回り、いやふた回りも大きい。
離れた場所からでもはっきりとその差が分かるほどに、その龍は恐るべき巨躯を誇っていた。
――姿が違う。別の個体なのか…?
駆け出す足が、焦りと共にいっそう速くなる。
ふと遠目に見えるローズの光が、不安定に揺らいでいた。強く煌めいたかと思えば、次の瞬間には今にも消え入りそうなほど弱々しくかすれる。
以前は互角にも見えたローズが、完全に龍の勢いに押されていた。
――力が、まだうまく扱えないんだ。
早く、早く逃げなければ。でなければ、みんな死んでしまう。
ノアは奥歯を噛みしめ、重い足をさらに前へ踏み出した。
少年のもとまで辿り着くと、ノアはすぐさま背負っていた男を下ろし、馬の背にどっしりと乗せた。
少年が泣きながらその体を抱き寄せる。
そのときだった。
龍の咆哮が轟き、ノアははっと顔を向けた。
龍がローズの隙を突き、猛烈な勢いでこちらへ向かってきていた。大地を蹴るたびに足音が響き、凄まじい圧迫感が迫ってくる。鋭い眼光が、真正面からノアたちを射抜いていた。
「まだ息がある。はやく、はやくここから逃げろ!」
ノアは馬の背を叩き、少年を急かした。
「でも、お兄ちゃんは」
「俺たちも隙を見て逃げるから。はやく!」
背後から迫る凄まじい殺気に、身が震えそうになる。
少年はノアの目をじっと見上げた。
不安と迷いで瞳が揺れ、堪えきれないように涙が滲んでいた。
やがて少年は唇をきつく結ぶと、震える手で手綱を握り締め、意を決したように馬へ合図を送った。
少年を乗せた馬は、道の先へ向かって一気に駆け出していく。
直後、辺りに龍の呻き声が響き渡った。
振り返ると、龍に追いせまったローズが、その尾に鋭い一撃を叩き込んでいた。
攻撃を受けた龍が、背後のローズへ鼓膜を裂くような咆哮を浴びせる。
間近で見る龍は、まさに圧巻であった。あまりにも大きく、その巨躯の内に渦巻く威圧が、周囲の空気をたちまち軋ませる。こんなものがいくつも現れては、この国の崩壊は避けられない。
ふと、ノアは龍の前脚に目を留めた。
割れた爪の間から、深く抉るように走る傷跡。古傷のようにも見えるその跡に、見覚えがあった。
それは以前、確かにローズが刻みつけた傷跡だった。
――まさか……進化を続けているのか?
ノアは息を呑んだ。あの龍に間違いないのだとすれば、龍は形態を変え、より力を増していることになる。
どこまで進化を続けるのかは分からない。だが、今この段階で倒さなければ、さらに膨大な犠牲者が出るのは明らかだった。
ノアはローズへ視線を走らせた。
ローズは明らかに限界を迎えていた。積み重なった疲労と損傷がその小さな身体を容赦なく押し潰している。呼吸はまともな形をなさず、喉の奥から痛々しい喘鳴が絶え間なく漏れていた。
身体は傷だらけで、特に左脚の負傷がひどいのか、踏み込むたびに体勢が揺れ、今にも崩れ落ちそうだった。
大剣を握り締めるたびに顔を顰め、額からひっきりなしに汗が吹き出している。
あの圧倒的な力を扱い続けること自体が、彼女の体力を容赦なく削り取っているようだった。
龍が再び襲いかかってくる寸前、ローズは大剣を振り抜いた。剣身は青い光を帯び、揺らぐような不安定な輝きを放ちながら、龍の身を切り裂く。
だが、次の瞬間。
その光は堪えきれなくなったように一気に膨れ上がると、爆ぜるような閃光を撒き散らした。
凄まじい衝撃と共に、大剣がローズの手から弾き飛ばされる。
途端に、ローズの口から苦痛に歪んだ悲鳴が漏れた。
「……っ、う"ぁ"ぁ"……あ"っ!」
ローズの手のひらは酷いやけどを負い、赤黒く爛れていた。
激しく震える指先から、ぼたぼたと真っ赤な血が滴り落ちていく。
ローズは乱れきった呼吸を繰り返していた。苦痛に歪んだ口元からは力なく唾液が垂れ、虚ろに揺れる瞳には隠しきれない消耗の色が滲んでいる。その半開きの瞳は、焦点すら定まっていない。
不意に、龍の動きが鈍った。
巨体がぐらりと揺れ、その場で固まったように動きが止まる。
ローズは弾き飛ばされた大剣の方へちらりと目を向けると、龍に背を向け、足を引きずるように駆け出した。
逃げるなら今しかない。ノアは走りながら、ローズへ声を張り上げようとした。
――そのときだった。突如、めりめりと地を裂くような異様な音が、低く這うように響いた。ハッと視線を向けたノアは、戦慄した。
龍の尾が、脈打つように蠢いている。
かと思えば、尾の表面を突き破るようにして、牙にも似た鋭利な突起が次々と姿を現した。肉を押し裂きながら現れるそれは、めきめきと不気味な音を立てながら伸びていく。
龍は喉の奥で低く呻いた。
なにか様子がおかしい。呻き声と共に、龍の気配が変容する。
瞬間、龍が、その巨大な尾を勢いよく振り払った。
尾に生え揃った太く強靭なトゲが、凄まじい速度でローズのもとへ襲いかかる。
咄嗟に、足が動いていた。
ノアは全速力で駆け抜け、そのまま身を投げ出すと、庇うようにその背を押し倒した。ふたりは勢いそのままに地面に倒れ込む。
湿った草の冷たさが頬を打つ。鼻先を掠めるのは、湿った土の匂いと、濃い血の臭気。
身を裂くような強烈な痛みが、一気に駆け上がる。背中から溢れ出した熱い血が、どろどろと服を浸食していく。
龍の放った鋭利なトゲが、ノアの背にいくつも深々と突き刺さっていた。
そのまま力を失ったように、ノアはローズの横にばたりと崩れ落ちた。
ローズは、頬を地面へつけたまま、信じられないものでも見るかのように目を見開いていた。
横たわるノアの顔から、みるみるうちに血色が奪われていく。
ノアの口から、どろりと血が溢れる。
「なん……で」
ローズは、唖然と目の前のノアを見つめていた。
瞳に涙の膜が張り、今にも崩れそうなほど揺れていた。
貫かれたノアの胸から、どくどくと真っ赤な血が流れ出す。
「ローズ……俺を置いて、はやく逃げろ」
ノアは浅い呼吸を繰り返しながら、虚ろな目で、ローズに途切れ途切れに告げた。
焼けつくような激痛が波のように全身を襲い、ノアは意識を保つだけで精一杯だった。
息を吸うたび、気道に溜まった血が喉奥でごろごろと鳴る。
足元のすぐ先では、龍が暴れ狂う音が響いていた。
次第に周囲の音が遠のき始め、視界の端はじわじわと暗く霞んでくる。
目前にいるはずのローズの姿さえ、もううまく捉えられない。
「…………ボクに見殺しにしろって、言ってるの?」
ローズの瞳に張り詰めていた涙が、ぽろぽろと溢れ出した。涙が頬を伝って流れていく。
ローズは震える唇から掠れた声を絞り出した。
「ボクはまだ戦える、まだ戦えるもん……」
「そのボロボロの身体でどうやって」
ローズは全身傷だらけだった。身体のあちこちが無数の裂傷で引き裂かれ、傷口から絶え間なく血が滲んでいた。
「今のお前じゃ、立ってるだけで精一杯なはずだ。
このままじゃ二人同時に死んじまう。ローズだけでも逃げろ……」
ローズの瞳から、堰を切ったように涙が溢れてくる。
「んな泣くなよ。少しの間一緒に居ただけだろ?
俺のことなんかすぐ忘れていいよ」
ノアは震える手をゆっくりと伸ばし、溢れ続けるローズの涙を拭おうとした。
だが途中で、手のひらにべっとりと付いた血が目に入ると、一瞬手を躊躇わせたのち、指の背で撫でるようにそっとローズの頬を拭った。
「それに……お前のその妙な力をここで途切れさせては駄目だ」
意識が朦朧として、呂律が回らなくなってきている。気を抜けば意識が吹き飛びそうなほどの猛烈な痛みが、ノアの全身を強く揺さぶっていた。
「お前がここで生き延びることが、これから沢山の命を救うことに繋がるかもしれない」
「……なんで……なんでみんな簡単に死んでいくの……」
ローズは頬へ伸ばされたノアの手を、きつく握り締めた。
悲痛に顔を歪めながら、ローズは声を震わせる。
「ボクが……ボクが弱いから?」
「違う。お前のせいじゃない」
龍の低い唸り声が、肌を刺すように近づいてくる。大気が震え、重く張り詰める。
「ローズ、はやく」
ローズは涙に濡れた顔のまま、嫌だと言うように何度も首を横に振った。
「ローズ」
八の字に歪めた眉の下で、涙をいっぱいに溜めたローズの瞳が、痛いほど揺れていた。
「………っ、ちゃんと俺の言うこと聞くっつったろ」
赤く潤んだローズの瞳から、どっと涙が溢れた。頬にとめどなく涙が伝っていく。
「……っ、はやく。早く逃げろ!!」
ノアは痛みに支配された身体に鞭を打ち、ローズの肩を突き放すように押した。もう力が入らず、ほとんど触れるだけのひどく弱々しい力だった。
ローズは泣き腫らした目をぎゅっと閉じた。ぼろぼろと涙が押し流され、震える頬を伝って落ちていく。
龍の気配が、すぐそこまで迫っていた。
ローズは震える唇をきつく噛み締めると、それから、躊躇いを無理やり断ち切るように立ち上がった。
乱暴に涙を拭い、左足を引きずるように走りだす。
ローズの足音が、だんだんと遠ざかっていく。
ノアは強ばっていた全身の力をようやく弛め、はあ、と大きく息を吐き出した。安堵と諦め、そして痛みを紛らわせるような、深く長い息だった。
もうほとんど力が残っていない。まばたきすら億劫で、そのまま地面に沈み込むようにぐったりと横たわっていた。
遠ざかっていく足音に耳を傾けながら、重いまぶたのまま天を見上げる。
そこには、すべてを呑み込んでしまいそうな深い漆黒の夜空が、どこまでも広がっていた。




