ep.22 残光
うっそうとした道を駆け抜けると、目の前が急に拓け、鏡のような泉が姿を現した。
森の奥深くで静かに佇む、広々とした泉。
周囲には平らな草地が広がり、不自然なほど澄み切った空気がその場を支配していた。
二人は言葉を失ったまま、その場から一歩も動けずに立ち尽くしていた。
その視線は、泉を隔てた先の岩窟へと吸い寄せられていた。
暗い岩肌の上で、白い影が蠢いている。
日が沈みゆく薄闇の中でさえはっきりと捉えられるほどの、圧倒的な存在感。恐ろしいまでの威圧。
ただそこにいるだけで、まるで空間そのものを支配しているようだった。
抗いようのない強者の気配が、巨大なその体躯から絶えず放たれている。
周囲の空気が一気に張り詰め、肌を刺すような緊迫感が走る。
白銀の龍が、静かに息づいていた。
ノアは咄嗟にローズの前へ腕を伸ばし、ローズを制していた。じっとりと冷たい汗がじわじわと滲んでくる。
「ローズ…………逃げろ」
低く掠れたような声。
ノアは息を殺したまま、ゆっくりと視線を滑らせていた。深い森の奥へと続く、道の先。
辺りには、濃密な血の匂いが漂っていた。
鼻腔にまとわりつくような鉄臭い臭気。吐き気を催すほど濃く、むせ返るような血の気配が周囲一帯に充満していた。
道の至る所に、人の残骸が散らばっている。
引き裂かれた腕、ねじ曲がった脚、原形を失った肉片。薄暗い地面に赤黒い血が幾筋も走り、乾ききらない血溜まりが土をぬかるませていた。
ノアの意識は、死体が散乱する道のさらに先へ向けられていた。
血塗られた地面の上に、幼い少年がひとり取り残されている。顔からはすっかり血の気が失せ、蒼白というより、もはや抜け殻めいて見える。
地面にへたり込んだまま、少年は泉の奥に佇む白銀の龍を見つめていた。恐怖で身体が硬直してしまっているのか、身動きひとつせず、ただ呆然とその姿を見つめ続けている。
───と、岩窟に身を潜めていた龍の動きが、ぴたりと止まった。
ゆるやかに、その巨躯が身を起こす。
二人の気配を察知した龍が、暗い影の中から、その鋭い眼光をゆっくりとこちらへ向ける。薄闇のなかで、その双眸だけが異様なほど鋭く浮かび上がっていた。
二人を完全に視界に捉えた瞬間、白銀の毛が一斉に逆立ち、硬質な筋肉が不気味に盛り上がった。
凄まじい殺気が周囲一帯を支配し、空気が息苦しいほど張り詰める。
言いようのない恐怖が、一気に全身を駆け巡る。
本能が、全ての細胞が、今すぐここから逃げろと訴えかけていた。
「ローズ」
呼びかけても身動きひとつしないローズに、ノアは咄嗟に視線を向けた。
ローズは目を大きく見開いたまま、龍を、その一点を食い入るように見ていた。
次の瞬間、龍が鋼のようなその顎を開き、並び立つ凶悪な牙を剥き出しにした。
地を揺るがし、大気を引き裂くほどの咆哮が爆発する。
泉を挟んだ距離があるというのに、凄まじい風圧が皮膚をひりつかせた。ただそこに存在するだけで周囲の生命を圧殺するような、圧倒的な王者の風格。暴力的なまでの威圧感に、一瞬、世界のすべてが凍りついたかのようだった。
「ローズ!! 逃げろ!!」
ノアは喉が裂けそうなほど叫んだ。
ローズが動かない。
呼吸は完全に乱れ、肺の奥からひゅう、と掠れた音が漏れ出る。飢えたように酸素を求め、肩が激しく上下していた。額からは汗が噴き出し、顎先を伝った雫が、ぽたり、と地面へ落ちていった。
視線だけが、龍のほうへ縫い留められている。
呼吸することさえ忘れたかのような、狂気を孕んだその異様な姿に、ノアはかけるべき言葉を失っていた。
「全部……全部おぼえてる」
絞り出すような、上擦った声だった。
ローズは震える手で、肩に背負っていた大剣をゆっくりと引き抜いた。
ローズが手にした途端、その剣身が確かな煌めきをもって輝き出す。
内側から溢れ出すような、静かで、それでいて圧倒的な煌めき。生命の脈動を思わせるその輝きに、ノアは目を奪われていた。
あの時の光景が、あの輝きが、目の前の現実と重なって甦る。
龍は泉を激しく蹴立て、すぐそこまで迫ってきていた。地の底から響くような龍の息遣いが、すぐ近くまで来ている。
ローズは静かに目を閉じ、まるで周囲のすべてを断ち切るような凄まじい集中力で、剣を握る手に力を込めた。
たちまち眩い光が一気に溢れ出し、あたりを鮮烈な青で照らしてゆく。
ノアは息を詰めたまま、その光景から目を離せずにいた。
揺れる瞳のまま、ただ視線だけが、光に包まれるローズの姿を捉え続けていた。
「……逃げて。ボクならやれる」
迫り来る龍の姿を真っ直ぐ見据え、ローズが静かに告げる。
ノアは息を呑み、わずかに躊躇ったのち、その震える口を開いた。
「あそこに、まだ生きてる子がいる」
ノアは焦りを押し殺すような、張り詰めた声で続ける。
「倒そうとしなくていい。少しの間だけ気を引き付けるんだ。………できるか?」
ローズは、目前に迫る龍から目を離さず頷いた。
「いいか、ヤバそうになったらすぐ逃げろよ」
龍が再び咆哮を上げ、泉を蹴り裂くように襲いかかってくるのと同時に、ノアは少年のいる方へと一気に駆け出した。
背後で、耳を聾するほどの激しい衝突音が炸裂する。凄まじい龍の暴哮。狂暴な衝撃波が周囲の木々を容赦なく薙ぎ倒していった。地を這う熱息が背を灼くように追い縋ってくる。
ノアは湧き立つすべての感情を振り切るようにぎゅっと目を閉じると、ただひたすらに目の前の道を駆け抜けた。
あたりには、蹂躙の痕跡が生々しく散らばっていた。
横倒しになった荷車が無惨に転がり、裂けた麻袋からこぼれ落ちた穀物は、血と泥にまみれて地面に散っていた。倒れ伏した死体の傍らでは割れた樽から中身がぶちまけられ、赤黒く濁った液体が周囲の草木を冷たくぬらしている。
へし折られた矢やナイフもあちこち散乱し、そこかしこに生々しい惨劇の傷痕を刻みつけていた。それは圧倒的な力に踏み荒らされ、抗う間もなく壊されていった残骸そのものだった。
その光景を横目に走るたび、ノアの心臓は警告するかのように激しく脈打っていった。どくどくと嫌なほど大きく鳴る鼓動が、焦燥と恐怖を容赦なく叩き起こす。
ノアは荒く息を吐き、少年のもとまで近づくと、すぐさま膝をついた。
地面にへたり込み、虚ろな目を浮かべたまま動けずにいる少年。
ノアがその前に身をかがめた瞬間、少年はゆっくりと顔を上げた。絶望に濡れた眼差しが、ぼんやりとノアを捉える。
「……っ、大丈夫か!? 立てるか?」
ノアを視界に入れると、少年は堰を切ったようにしゃくり上げ、大粒の涙を溢れさせた。肩を小刻みに振るわせ、弱々しく何度も首を横に振る。
地面にべったりと足をつけた少年は、膝の上で小さなナイフをぎゅっと握り締めていた。
「怖かったな、もう大丈夫だからな」
ノアはそう言うと、そっと少年の手に触れた。固く握り込まれた指をほどき、ナイフを取り上げる。震えの残る小さな手は、凍えたように冷たかった。
ノアはそのまま少年の身体を軽々抱き上げ、馬の背へと跨らせた。
「俺たちと一緒に逃げよう。早くここを離れるぞ」
だが少年は、泣きながら首を振り続ける。瞳からは、なおも涙が溢れ続けていた。
「うっ……っ……と、父さんが……」
少年は自由になった手で、次々と溢れてやまない涙を必死に拭う。
「え…?」
少年の視線が、岩窟の方へと向けられる。
その先を追うように、ノアも視線を向けた。
さっきまで龍がいた場所に、人間が一人横たわっていた。ぐったりと地面へ倒れ伏したまま、ぴくりとも動かない。
辺りは血と生々しい死臭が重く漂っている。
自分たちの周りにいくつも転がる人々の死体が、嫌に目に入る。手足を引きちぎられた者。胴を深く裂かれた者。中には、頭部を失ったまま倒れている者までいた。
この者たちと同じく、恐らく、もう──
「ダメだ、今すぐここから離れねえと、みんな死んじまう」
「っ……うっ……」
少年の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。
この状況で、生きているかどうかも分からない者を助けに向かうなど、どう考えても得策ではない。今すぐローズと共に、ここから去るべきである。
少年が、縋るような目でノアを見上げている。涙に揺れる瞳からは、言葉にならない懇願の思いが痛いほどに滲んでいた。無垢な光を宿すその眼差しは、残酷な現実のなかで、あまりにも純粋で、あまりにも切実だった。
そんな視線を正面から受け止め、ノアはきつく唾を飲み込んだ。喉の奥が、焦りつくように乾いていた。
ノアには、分からなかった。父を想う子の気持ちが。
分からない。血の繋がりという、目に見えぬ絆の重さが。それを喪う絶望が。どれだけ想像しても、生まれて間もないうちに棄てられたノアには分からない感情だった。
背後では、ローズが龍とぶつかり合う、激しい攻防の音が絶え間なく響き渡っている。
「死んでない……死んでないもん……。父さんが、死ぬわけないもん……ううっ……死んじゃいやだよ………」
目の前にいるのは、親がそばにいることを当たり前に信じて生きてきた子どもだった。
親の背を追い、その存在が世界のすべてであることを疑いもせず生きてきた、真っ直ぐな子ども。
少年が、小さな手で必死にノアの腕に縋りつく。
「いやだ、置いてくなんていやだよ……うっ……うっ…。助けてよ……お願い……お願いだから」
震え切った声が、嗚咽にまぎれて途切れ途切れに零れ落ちる。
激しい衝突音が辺りに響き、地面が大きく揺れる。龍が咆哮するたびに大気が震え、足元から衝撃が突き上げてくる。
「ああ、もう」
ノアは焦る気持ちを落ち着かせるように深く息を吸い込むと、努めて冷静な声で言った。
「……………ここで待ってろ。お前の父親も、連れてくるから」
少年の目が、見開かれる。
「その代わり、少しでもあの龍が近付いてきたら、すぐにここから逃げるんだぞ。分かったな?」
ノアは少年の手に手綱を握らせた。
少年は涙に濡れた顔のまま、震える唇をきゅっと結ぶと、ノアの目を見て小さく頷いた。




