ep.20 高台に立つ男
森の小道を、ノアはひとり歩いていた。
深い森を抜けていく細い山道には、木々の青臭さと土の湿った匂いを含んだ冷たい空気がゆるやかに流れている。
踏みしめるたび、柔い土と落ち葉が靴の底で鈍い音を立てた。頭上では枝葉が風に揺れ、時折乾いた葉がひらりと肩先へ落ちてくる。
村を出てからというもの、想定外の出来事ばかりが立て続けに起きていた。
気づけばこうしてひとりで静かに歩く時間すら、随分久しぶりな気がしてくる。
ノアは、自分の足が一歩、また一歩と地面を踏みしめる様子をぼんやりと見つめていた。
その一方で、頭の片隅では、あの時の光景が何度も蘇ってはノアの意識を支配していた。
バジルや町の住人たちとも散々同じ会話を繰り返したが、まさか龍が目の前に現れるなぞ信じられなかった。未だに夢でも見ていたんじゃないかとさえ思っていた。
そしてあの、ローズの不思議な能力。あれは一体、自分は一体、なにを見たのだろう。現実離れしているはずなのに、妙に鮮烈で、生々しくて、まるで夢と現実の狭間にいるかのような……
しかしこうも疑われると、段々自信がなくなってくる。やはり、悪い夢でも見ていたのだろうか。あれは確かにこの目で見たのだと、自分にさえ胸を張って言える自信がなくなってきている。夢の中の出来事だったのなら、まだ受け入れられたかもしれない。
龍の出現。ローズの奇妙な力。初めて光った塔と、それに反応するように光った指輪。そして、村を襲った不可解な現象───。
この短期間で色々なことが起こり過ぎて、頭がくらくらとしてくる。ただでさえ、平穏で何も無い村で人生の大半を過ごしてきたノアにとって、それらはあまりに許容の範疇を超えていた。これらに何か繋がりはあるのだろうか。
だとするならば、この指輪は一体─────
と、平和ボケした頭に鞭打つように、うんうんと一人考え込んでいた、そのときだった。
ガサガサガサ…────
ふいに草が擦れる音がして、ノアは思わず肩をビクつかせた。
いや、まさか────
落ち着け。龍が逃げていった方面とは真逆だから……
ノアは心臓が飛び出そうになるのを必死に押し殺しながら、息を飲んで恐る恐る振り返った────
………………
……………………
…………………………………
ガサササッ
密集する草木の中から飛び出してきたのは────毛まみれの、白いかたまり。
軽々と飛び跳ねる、ちいさな野兎だった。
兎はきゅるんとした大きな黒目で、首を傾げながらノアを見上げていた。口元が、ずっとヒクヒクとしている。一緒にひげがもさもさと揺れていた。
ノアは拍子抜けして、思わず長い息を吐き出していた。
「……っはあああ…ビビった………
思ってる以上にビビってる。いや、うん…」
ドクドクと鳴り止まぬ心臓の鼓動に、ノアは自分でも笑いそうになりながら胸元を押さえた。
龍を目の当たりにしたあの日から、自分の小心ぶりをこれでもかと思い知らされている。
平穏で何も起こらない。村での事件といえば、害獣の被害だとか住人同士の小競り合いだとか、そんな取るに足らないことばかりだった。そんな日常が、どれほど平和だったかを今さらながら痛感する。
平常心でいれたのは、何も起こらなかったからなのだ。もっと外の世界を知れ、と言ったウィリアムの偉そうな言葉がやけに頭に響く。
情けなく額に滲んだ冷や汗を拭い、ノアが再び足を踏み出そうとした──そのときだった。
「……………わっ!!!!!!!!!!」
「うわああああああっ!?!!??!」
真後ろからいきなり声がして、ノアは驚きのあまりその場に尻もちをついていた。
近くにいた野兎も驚いたのか、その場で垂直に飛び跳ねると、脱兎のごとく森の奥深くへと消えていった。
頭上から、けたけたと笑い声が降ってくる。
逆光の中、暗い肩口からさらりとこぼれ落ちる髪を、ノアは信じられないものを見るような思いで見上げていた。
「あはは、驚きすぎだよー!」
その人物は、憎たらしいくらい満面の笑みを浮かべると、わざとらしく首を傾げてみせた。
「…………なんでローズがここに居んだよ!!!!!!」
静寂に包まれていた森の真ん中で、ノアは思わず立ち上がり、声を荒げていた。
ノアの声に反応してか、木々の合間から一斉に鳥たちが飛び立ち、激しい羽音が周囲に騒がしく響きわたっていった。
「ボクがいないと寂しいかなと思って。一人で森を越えるなんて心細いでしょ」
「いや、お前家に帰るっていったじゃん」
「言ってないよ? ノアが勝手に決めただけ」
「おま…………」
「また龍が来たら、ボクがこれで倒してあげる」
大剣を雑に振り回すローズを唖然と眺めながら、ノアは重たい溜息をこぼした。
ローズがなぜここに、だとか、そもそもあの場で納得して頷いていただろ、といった疑問は山ほどあったが、今さら問いただしたところで、である。ローズの突飛な行動には、もう驚きを通り越して諦めに近い感情すら抱いていた。
ローズの性格上、自分が納得しない限り絶対に動かないのである。何を言っても聞き流し、どう言い聞かせても飲み込まない。そういう妙に頑固なところがある。
気を抜けば白目を剥いて倒れそうなのを必死にこらえ、ノアは脱力したように肩を落とした。呆れて言葉も出てこない。何をどう言ったところで、言葉が言葉の意味を成さない。
「はーーもう良いよ……勝手にしろ。
何をどうしたところでお前を納得させる言葉が出る気がしねえ。
その代わり、次勝手な真似したらまじでお前が寝てる隙に置いてくからな」
「わかってるよー、ちゃんと言うこと聞くってば」
歩き出したノアのとなりに、ローズが悪びれた様子ひとつなく並ぶ。
「はあ、もう、一体どこまで着いてくる気だよ、全く。お前が何考えてるかは知らんが、言っとくけど、俺は一度も着いてきて良いなんて許可した覚えはないからな」
「はいはい」
「そんで家の連中にも連絡くらいしてやれよ、心配してるだろ」
「はいはい」
締まりのない返事に、先が思いやられる。
あの件以降、どこかしおらしかったローズだったが、すっかりいつもの調子を取り戻していたようだった。
「ボクさあ、塔のそばまで行ってみたいんだよね」
唐突に零された言葉に、ノアは思わずローズの顔を見ていた。
「お前………意外と人に影響されやすいんだな」
半ば呆れたような目を向けながら、ノアは呟いた。
「……え?」
ローズの視線がノアに向けられる。
「だって、バジルの話聞いてたら興味出てきたんだろ? 意外とお前も普通の人間っぽいとこあんじゃん」
「…全然違うけど」
「じゃあなんだって言うんだよ」
「うーん、どうって言われても説明難しいけど……でも」
「でも?」
「目が覚めたあの日から、ずっと塔のことが気になるんだぁ。なんだか、塔に呼ばれてるみたい」
「はあ……」
ローズの意味不明な言動は、今に始まったことではない。
そう言えば、前もこんな話してたっけ――
だが、それを思い返すことすら億劫で、ノアはそれらをずいと頭の隅へ追いやると、いくぶんか重くなった足で森の地面を踏み締めた。
影が伸びていく。二人分の影が、ながく伸びていく。
◇
荒れ果てた町の惨状を、町はずれの高台から見下ろす男がいた。
濃紺の軍服に身を包み、胸元にはいくつもの勲章が連なっている。
鍛え抜かれた体躯。乱れなく後ろへ流された艶のある黒髪。冷徹なまでに端正な顔立ち。
崩れた町並みの中、男だけがまるで別の場所から切り取られてきたかのように異質な存在としてそこにあった。
「これで三件目……か」
男はまるで、景色の感想でも漏らすかのようにひとり呟いた。
「レオンハルト大佐」
背後から現れた女が、毅然と伸びた立ち姿で鋭く敬礼した。凛とした眼差しで、まっすぐ男を見上げている。
男の鋭い双眸が、じろりと女を捉えた。
「現時点で判明している被害状況、ならびに現地住民への聴取結果についてご報告いたします」
女は手帳を取り出すと、目線を落とし淡々と述べていく。
「まず龍の出現時刻ですが、二十七日の十四時頃と推定されております。目撃証言は複数取れており、いずれも西の山脈方面から現れたとのことで一致しています」
女は抑揚のない声で続ける。
「被害状況につきましては、死者はおらず、負傷者四十二名。うち重傷者は四名で、現在も予断を許さない状態が続いています。家屋の損壊は町全体の三割強。特に広場通りと西区画への被害が甚大で、復旧には相当の時日を要する見込みです」
女の頁を捲る音が、ひらけた景色に静かに響く。
「続いて、龍の形態的特徴ですが……」
男は無言のまま、ただ次の言葉を待つようにじっと彼女を見据えていた。
「目撃者それぞれの証言を照合した結果、全身を白銀色の毛並みに覆われた個体であったとのことです。全長はおおむね十メートル前後、全高は四メートル半ほど。目視による推定のため誤差は否めませんが、証言の一致度は高いと判断しております。また尾部は非常に長く、しなるように伸びていたとの証言も複数確認されております。
前回および前々回の個体と照らし合わせても、外見の特徴や体格、ともに一致は見られません。現時点では別個体との見方が有力です」
「……また別の種か」
男は眼下に広がる町並みへ視線を移すと、吐き出すように言葉を漏らした。
「はい。その可能性が高いかと」
「………厄介だな。
こんなもんがあと何体出てくるんだ。これだけ次々現れては、我々だけでは対処し切れんぞ」
風が吹き抜ける。
高台の上は、町の中よりもいくらか冷えていた。
男が再び口を開く。
「外的特徴から被害の規模まで、まるで共通性がない。
三度の襲撃はいずれも暴れ回った末、そのまま去っていく。人を喰らうわけでも、食料を求めているわけでもない。縄張りを主張しているようにも見えん。……これでは対策の立てようがない」
「……現在、当たれるだけの文献を当たっています。ただ、この国では龍はあくまで伝承上の生き物でしたので……実在を前提とした生態記録は、ほぼ残されていないかと。
現状、前回までの痕跡の採取・記録はすでに完了しており、生物学者ならびに当該分野の識者への照会を手配済みです。結果が得られ次第、すみやかにご報告いたします」
女はそう言い終えると、手元の手帳に目線を落とした。紙の上には、びっしりと文字が書き込まれていた。
短い沈黙。躊躇うような目の揺らぎ。彼女の意識は手帳の外の、別のところへ向いていた。
そうして、女は意を決したように小さく息を吸い込むと、再び顔を上げた。
「あのそれから……もう一点。お伝えすべきか迷ったのですが、ご報告があります」
「なんだ」
男の眉間に皺が寄る。
普段なら淀みなく言葉を並べる彼女が、珍しく迷いを見せている。その違和感に、男は鋭い視線を向けた。
「今回の聞き込み調査を進める中で、証言の中に少々……異質なものが混ざっておりました」
「…なんだ、言ってみろ」
女は手帳を繰り、新たな頁を開いた。
「龍が町へ降りたあと、住民の多くは逃げるか身を隠しておりました。しかし、いくつかの証言によると──龍に対し、正面から立ち向かった人間がいたとのことです」
「………はっ、丸腰で挑むなど、馬鹿としか言いようがないな。…で、その命知らずはどんなツラしてやがったんだ」
男は鼻で笑うと、急かすように続きを促した。
「少女です。年の頃は十代半ばほど。屋根伝いに龍の方へと駆けていき、その体格には不釣り合いな大剣を携えていたとの証言が、複数上がっております。最初は錯乱して飛び出したのだと思った者もいたようです。ただ、別途確認された内容では──」
女は一瞬逡巡したのち、口を開く。
「その少女は龍と対峙すると、全身に青い炎のような光を纏って大剣を振るい、龍を退けたとのことです」
「……………………………………」
「……………………………………」
「………………はぁ……」
十分な沈黙のあと、男はわざとらしくため息を漏らした。呆れたように、指先でこめかみを押さえる。
「……イレーネ、お前の仕事ぶりについては俺はそれなりに信を置いている。………だがな」
男は日頃の疲弊を乗せるように、重い息を吐き出した。
「そんな馬鹿げた証言、俺のところへ持ってくるなよ」
「……しかし、証言者の口ぶりからは、どうも虚偽を述べているようには見受けられず……」
「ならばその少女をここに連れて来い」
「それが……どうやらこの町の住民ではないようです。聞き込みを続けておりますが、名前も素性も、現時点では判明しておりません」
「……お前なぁ……身元も足取りも分からん奴の存在を、どう信じろと」
「……………………はい」
女は小さく息を飲み込んだ。表情は崩さぬまま、わずかに目が伏せられる。長いまつ毛が、顔に影を落としていた。
「……おっしゃる通りです、出過ぎた判断でした。
以後、こちらの聞き込み調査については打ち切ります。情報の精査が不十分でした。誠に申し訳ございません」
謝罪の礼を取ったまま、女は己の行動が軽率であったことを悔いるように、揺れる瞳を足元へ落とした。
重い沈黙が、場を満たす。
男は、そんな女の姿をしばらく黙って見つめていた。
だがやがて呆れとも疲労ともつかない息をひとつ吐くと、胸の前で組んでいた腕を解いた。
「…………お前の目には追究すべき価値があると、そう映ったんだな?」
「……はい」
女は顔を伏せたまま、低い声で答えた。
「………まあ、信憑性は限りなく低い。捜査を撹乱するための冷やかしと見ても、不自然ではない」
男の視線が、再びブリューケルの町へと向けられた。
「…だが、そもそも龍が出現したという事自体、常識では説明のつかん状況だ。今さら己の常識の範疇で判断していては、掴めるものも掴めん。我々はそれを、この数日で嫌という程思い知らされている」
女がおずおずと顔をあげる。
「今はどんな些細な情報でも欲しい。誤情報であれば私が責任を取る。引き続き、その少女とやらの動向を追ってくれ」
女の目が、わずかに見開かれた。
「はっ!」
女は勢いよく姿勢を正すと、鋭く敬礼した。安堵と高揚、そして覚悟が入り混じった声だった。
女は踵を返し、迷いのない足取りでその場を後にする。足音が遠ざかり、周囲の自然に溶けて消えていく。
風が吹き抜ける高台で、男はただ一人、眼下に広がる町を見渡していた。
「はっ、馬鹿馬鹿しい。こんな時代に龍が出たなど……」
男は口の端を歪ませ、自嘲気味に吐き捨てた。
──龍……大剣を持った少女……不可思議な証言………まるで御伽話の中にでもいるようだ。
男は無意識に奥歯を噛み締めていた。
少女が青い炎を纏い、龍を退けた──。あまりに荒唐無稽な目撃報告。だが今はそれにすら希望を見い出し、縋るより他に手立てはない。
日が経つほどに、じわじわと未知の脅威が形を成していく。
[中央統制軍:特殊戦略任務執行局]
第Ⅱ特務部隊 大佐 / ノエル・レオンハルトは、崩れた町並みの輪郭をそっと視線でなぞっていた。
次の季節を呼び起こすような、つんとした空気が頬を掠めては去っていった。




