ep.19 爪痕
窓辺に光がふんだんに溢れている。
バジルが手馴れた動作で窓を開け放つと、たちまち澄んだ空気が部屋のなかを満たしていった。冬の訪れを予感させる、ひんやりとした冷気が頬を撫でていく。
窓の近くのベッドのうえ、白い毛布に包まれて、ローズが静かに眠りに落ちていた。形の良い唇から、かすかに規則正しい呼吸音が聞こえてくる。
そんな、長く閉ざされていたローズの瞼。その瞼がわずかに震えた。
微睡みのなか、朝の眩い光を受けて、ローズはうっそうと重い瞼を開けようとする。
「…ん…ぅ……ん…………」
霞みがかった意識を手繰り寄せるように、ローズは鈍く目を瞬かせた。光が差し込む窓辺を、気だるげに見上げる。
そんなローズの様子を、バジルはひどく驚いた表情で見つめていた。口をぽかんと開けて、見開かれた目はこぼれ落ちそうなほどに丸くなっていた。
「ローズちゃん……!!!」
駆け寄るバジルによって光が遮られ、ローズのもとに影が落ちる。
バジルが勢いよくベッドの端に手をついた拍子に、ベッドの軋む音がギシリと鳴った。まるで彼の驚きっぷりを表しているかのような音だった。
「────ノア君…!!ローズちゃんが……!!!」
ドタドタドタ、とバジルの慌ただしい足音が部屋の奥へ吸い込まれ、遠ざかっていく。
少しして、とてつもない勢いで部屋の扉が開け放たれた。
ひどく焦った様子のノアが勢いよく部屋に押し入ると、ローズのもとへ駆け寄った。
「ローズ…!!…大丈夫か!?」
「良かった……どこか痛む所はない……?!」
ローズは腕を気だるげに持ち上げ、ごしごしと目を擦っていた。徐々に意識がはっきりしてきたのか、薄ぼんやりとしていた瞳の中に光が帯びてくる。
「…………あれ………ボク………なんで……」
目をぎゅっと瞑ると、掴みどころのない、漠然とした感覚だけがうっすらと蘇ってくる。
何かを思い出せそうで、思い出せない。
嫌な夢でも見たかのような、重くざらついた後味だけが頭の奥に残っている。そんな不思議な心地だった。
ローズは記憶の断片を辿ろうと、寝起きの頭を懸命に働かせた。だが思い出そうとすると、たちまちこめかみの奥に鈍い痛みが走る。
ずき、ずき、と一定の間隔で脈打つその痛みが、思考を押し戻すように広がっていく。
ローズはぎゅっと目を閉じた。
一瞬、碧いなにかが脳裏を過ぎった気がした。
すると途端に、断片的な映像が、感情が、瞬間的に脳内に流れ込んでくる。
はるか昔に追いやったはずの幼い日の記憶。
崩れ落ちる建物。響きわたる人々の悲鳴。
自分の身体から流れ出る血。血だまり。血の匂い。
そして、あの──
龍が襲いかかってくる…………………圧倒的な迫力。
ローズはハッとしたように、勢いよく体を起こした。
と、途端にガコン! という強い衝突音を立てて、心配そうに覗き込んでいたノアと額がかち合った。
「いっ…………っ……!」
ノアは両手で頭を抑えながらベットの側でうずくまっていた。
「………………はぁ……もう……相変わらず元気そうで何よりだよ」
ノアは赤くなった額をさすりつつ、そう言ってローズと目を合わせた。
ノアは、どこか探るような目でローズを見つめていた。
「……ローズお前……自分が何したか覚えてる?」
ローズは、ともすれば遠のきそうになる記憶を引き留めようと、額をぎゅっと強く押さえた。
思い出そうとすればするほど、頭がズキズキと刺すように痛んでいく。たちまち眉間の皺が深くなる。
なんだかずっと夢の中にでも居たような、不思議な心地。不思議な浮遊感。
必死で、無我夢中で、急き立てられるようにただひたすら走っていた。この世のものとは思えない、あの龍のあとを必死になって追いかけていた。
剣を握り締める手のひらの感覚。徐々に熱を帯び迫り上がっていく呼吸。耳奥に残る龍の咆哮──。
しかし、記憶はそこで途切れてしまっている。
何か熱い、何かが身体中を渦巻いていた感覚だけは鮮やかに残っているのに、それが何だったのかが思い出せない。
掴みかけては、すり抜ける。
あと少しで形になりそうなのに、指先に触れた瞬間、霧のようにほどけてしまう。
「………ううん…………あんまり…」
「……どこまで覚えてる」
「……うぅ…………確か……龍に襲われそうになって……それで…………」
ローズは咄嗟にシャツの上から胸を抑えていた。
あの、胸を貫かれたときの衝撃がくっきりとした現実のようにまざまざと蘇って来る。
しかし、そこからの記憶が削げ落ちたようにすっぽりと抜けてしまっているのだった。
「おまえがあの龍に殺されたあと、周りが一面火の海になって、そんでそっからお前が奇妙な力で龍をぶった斬って、あの龍を追い返したんだよ」
「なに言ってるの」
「あはは! いや、そうだよね。ノア君あれから色んな人にずっとこの話してて。みんな夢でも見てたんじゃないかって疑ってるんだけど」
バジルも二人の会話に割って入る。
「いや、だから夢じゃないんだって。ほんとに俺はこの目で確かに見たんだって」
「だからローズちゃんが目が覚めたら確かめようと思ったんだけど、どうやらローズちゃんにも身に覚えがないみたいだね」
「………そんなの覚えてない。知らない」
「はああぁ……これで俺ん事信じてくれる奴はひとりも居なくなった」
ノアの頭がベッドの端に沈み込んでいく。
「まあ何はともかく、良かったよ! まさかあんな化物を前にして生き残れるなんて、奇跡みたいなものだ」
「だから、その傷が塞がったのもその妙な力のせいなんだって」
「もう、だから、そんな事あるはずないだろう。みんな言ってるけれど、きっと二人とも気を失って、そのタイミングで奇跡的に龍が町から逃げ出したんだよ。じゃなきゃ説明がつかない。
まあ、あんな龍が出たこと事態が、未だに信じられない夢の出来事のようだけど」
「だって、ローズが血まみれになって」
「それも龍の血なんだろう? あれだけ暴れ回ってたんだ、どこか負傷したのが原因で、逃げていったのかもしれないね」
「あーーもう、くそっ、ローズさえ…っ……ローズさえ覚えてれば……………」
ノアは長く重いため息をつくと、ぼすんと腕の中に顔を伏せた。
たちまち顔を上げれば、ローズと視線がかち合う。
顔を上げたノアは、眉間に皺を寄せたまま、何か言いたげな様子でローズを見ていた。
忌々しい記憶を無理やり凝視させられているかのような、苦痛に満ちた表情。
目の前で息つくローズに、ノアはあの血溜まりの中で横たわるローズの姿を重ねていた。
「……二度とあんな勝手な真似、するんじゃねえぞ」
重く吐き出すような声。
ノアはローズの瞳を覗き込むようにじっと見やった。有無を言わせぬ強い眼差し。額には、まだ赤い跡が残っていた。
ローズはその視線の圧に押されるように、大人しくこくり、と首を振った。
ノアはそんなローズの姿を見届けると、ふっと立ち上がり、ローズの頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。
「ともかく無事で良かったよ」
ローズは乱れた髪にそっと手をやりながら、ぼんやりとノアを見上げていた。
まだ意識が現実に追いついていないのか、どこか夢の中にいるような、微睡みを引きずった表情。感情の読み取りにくい、ふわふわとした顔のまま、ただ黙ってノアの顔を見上げていた。
「さ、飯だ飯! 一日寝込んでたんだ、めちゃくちゃ腹空いてんだろ」
「ノア君、ローズちゃんが心配で食欲なくて全然食べてなかったもんね」
「うるせえ! ほら、バジル、行くぞ」
「あ、うん! ローズちゃんはそこで休んでて。今ご飯沢山持ってくるからね」
二人はたちまち部屋から出ていく。
ふたりが出ると、部屋が一気に静まり返る。
ローズはぼんやりと窓辺に視線を向けた。
初めてこの町を訪れた時とはまるで違うその景色を、ローズはまだ現実を掴みきれていない不思議な心地のまま、ただ静かに見つめていた。
◇
龍が去ったあとのブリューケルは、重く伸し掛る暗澹とした空気に包まれていた。
立ち並んでいた民家は無残にも崩壊し、町の至る所で負傷者が続出していた。手のつけようのない被害を前に、人々の間には先行きの見えない不安とやるせなさが滲んでいた。
それでも、これほどの甚大な被害に見舞われながらも死者が出なかったことだけは不幸中の幸いだった。
だが生きている限り、生活は続いていく。
龍の襲来というあまりに非現実的な惨禍を前にしても、時は無情に過ぎ、人々は否応なしに突きつけられた現実を飲み込んでいくほかない。
町には、気力を失ったものたちの静かな絶望が満ちていた。誰もが重い圧力に押し潰されそうな表情を浮かべている。
唐突に日常を破壊された重苦しい空気だけが、瓦礫の山に沿うようにして町全体をじわじわと飲み込んでいた。
そんな、昼下がりの午後。
バジルの家の前に、ひとりの男が訪れていた。
男は来て早々、「そこのお嬢ちゃん、これであの龍に立ち向かおうとしたんだって?」と笑って言うと、まるで獲物を見せびらかすかのように、鞘に収まった剣を頭上に掲げてみせた。
「……誰だ? このおっさん」
ノアはこっそりバジルに耳打ちしていた。
「金物屋の店主だよ。ほら、大剣が飾ってあった」
「ああ、あのローズが勝手に持ち出した……」
とノアは言いかけて、思わず頭を抱えた。
未曾有の事態だったとはいえ、ケースを叩き割り無断で持ち出すなど、持ち主からすればほとんど犯罪行為である。
どさくさに紛れて盗みを働いたと疑われているのだろうか。いや、実際言い訳も出来ぬほど字面通りではあるのだが。
目の前の大剣を見つめながら、ノアは口を引き攣らせた。
と、ノアが代わりに謝罪の言葉を口にするより先に、男の豪快な笑い声が響いた。
「ガハハハハ、普通の女の子って聞いちゃいたが、見かけによらずとんでもねえ子だな」
男はそう言うと、ローズの視線を遮るようにその剣をかざした。
「度胸だけは認めてやる。あんな化け物を前に生き残れるなんぞ運のいい子だよ、まったく。
記念に持ってけ、ほら。ちょうどこっちも処分に困ってたんだ」
予想を裏切る男の言動に、ノアは思わず「えっ」と口にしていた。
「んだよその顔は」
困惑を隠せないノアに、男はぶっきらぼうに言い放つ。
「いやだって、勝手に持ち出したコイツに怒って殴り込んできたのかと……」
ノアは肩越しに後ろのローズを見た。
「ハハハ、んなことで怒りゃしねえよ。高価なもんでもねえし。
わざわざ俺が出向いてやったんだ。気前よく受け取れよ、ほら」
男は腹の底から響くような声でひとしきり笑うと、再びローズの前に大剣を差し出した。
「え、いらない」
ローズは微塵も興味がなさそうな顔で、抑揚のない声を返していた。
「おま、勝手に取ってったくせになんでそんな偉そうなんだよ」
ノアは呆れて背後のローズを見る。
「ガハハ、ずいぶん生意気な嬢ちゃんだな。
ほら、俺が持ってけっつってんだ! 持ってけよ」
「いらないよこんなの邪魔だし……」
男はローズの反応なぞ構いもせず、ぐいぐいと大剣を押し付けていた。
「いいから」
「ええ……」
ローズは露骨に嫌そうな顔を浮かべながらも、男の勢いに押される形でしぶしぶその剣を受け取った。
「こっちもどうも古くさくて気味悪かったんだわ。押し付けられる奴がいて助かったわ! そんじゃな」
男はそう言うと、背を向けどこかへ行ってしまった。
……何はともあれ、叱責は免れたようだった。
しかし、ローズは嫌そうな顔を隠そうともせず、自分の身の丈ほどもある大剣を、持て余した様子で抱え持っている。
ノアはそんなローズの姿に、あのときの光景を重ねていた。
青い炎が渦巻く中、煌めく大剣を握りしめ、あの巨大な龍へと斬りかかっていったローズ。
今となっては夢の出来事のようでもあるが、あれは確かに自分の目で目撃した紛れもない現実であったと、記憶が訴えかけている。
しかし、それらは誰にどれだけ説明しても誰一人として信じてもらえず、挙げ句の果てに、そのせいで町の面々から白い目を向けられているのだが…
「……お前さ、それ…………」
ノアは少し言い淀んでから口を開いた。
「……大事にしておけよ」
「欲しかったらあげるけど」
いつもの調子を取り戻したローズが、なんのへったくれもない冷たい口調で告げる。
「俺はいらねえよ!」
ノアは思わず声を上げていた。
ローズはその重量をものともせずに、素振りでもするかのようにぶんぶんと大剣を振っている。
「……お前さあ、なんであの時、そんなもん持ち出して、龍の方向かってったわけ?」
ノアはここぞとばかりにローズに問いかけていた。ずっと疑問に思っていたことだった。
と、無邪気に剣を振り回していたローズが一転、動きを鈍らせた。
「…………だって」
「……だって?」
ローズが考え込むように俯く。肩から色素の薄い髪がぱらぱらと流れ落ちていった。
「…………っ、そんなの、ノアには関係ないじゃん」
「おい、人がどんだけ心配したと思って……」
ローズは足元を見つめながら、ぎゅっと口を結んで瞳を揺らめかせていた。
そんなローズの様子に、ノアは言葉を飲み込んだ。
以前ならばもっと遠慮なく言葉をぶつけていたノアも、あの惨劇を目撃して以降、どうにもローズに対して強く出られなくなっていた。
血溜まりの中に倒れていたあの姿が、今も脳裏に焼きついて離れない。
「…ノア君、ローズちゃんが龍のほうへ向かっていってから、ずっと必死になってローズちゃんのあとを追いかけてたんだよ。ローズちゃんに何かあったらダメだからって」
二人を宥めるようにバジルが口を開く。
「………………」
ローズは俯いたまま、黙り込んでいた。
「人混みのなか、自分の身を顧みず必死にローズちゃんを追いかけていたノア君の気持ちも分かってあげて欲しいよ。
あんな状況で命をかけて追いかけてくれる人、そうそう居やしないよ」
「………………それは……ごめん」
ローズは顔を逸らしながら、消え入るような声で呟いた。
「………はあー……もういいよ。二度としないって約束すんなら。別に深く聞くつもりはねえが、もうあんな馬鹿な真似、二度とすんじゃねえぞ」
ノアはローズの額を指先で軽く小突いた。
ローズはおずおずと顔をあげると、か細い声で、「うん」とひとつ頷いた。
なんだか素直になったローズに、バジルは微笑む。
「ふふ、それにしても寂しくなるなあ。ノア君、もう明日にはここを出るんだろう?」
「ああ」
バジルのその言葉に、ローズは思わずノアの顔を二度見していた。
「あぁ、ローズには言ってなかったな。俺明日にはここを出るよ。ローズも目を覚ましたことだし、この状況でずっと居ても迷惑だし。そんでローズはもう家に帰れ」
ノアはローズの肩を掴んだ。
「えっ」
「なんだよその不服そうな顔は」
「だって………」
「あのなあ、お前、死にかけたんだぞ? 分かってる? いま生きてんのも奇跡みたいなもんだよ。
それに、家の連中も心配してるだろ。もうこれ以上心配かけてやるなよ。危ないから連絡して迎えに来てもらえ」
「でも………」
「それにお前といると心臓がいくつあっても足りねえんだわ。だからもうこれ以上着いてくるな」
ローズの目がたじろぐように揺れ動く。
それから、ローズは観念したように、こくり、とまた重く頷いたのだった。
◇
龍が去り二日後の朝。
皮肉なほどに澄み渡った秋空の下、どこか空虚な静けさが、冷ややかな風に吹かれて町に漂っていた。
「こんな大変な時に迎えてくれてありがとな。おかげで助かったよ」
ノアは家先まで出迎えたバジルとローズのふたりに手を振った。
口にした通り、こんな時に長く滞在するのは気が引けたというのもあったが、だがそれ以上に、町に漂うあの重たい空気がなんだか村のあの惨状を思い起こし、肩をずしりと重くさせるのであった。
瓦礫の匂いを嗅ぐたび、人々がため息をこぼす度、恐怖と不安が滲む顔を目にする度、胸の奥に沈めていた記憶がゆっくりと浮かび上がってくる。あの時と同じ空気の中に身を置いていると、まるで悪夢の続きを見せられているようで、どうにも落ち着かなかった。
ノアはふたりを一瞥してから、改めてローズに目を向けた。
「ローズも、あんま甘えすぎるなよ。ちゃんと休んだらはやく家にもどれ」
小言を告げるノアに、ローズは不満げな様子で口を歪ませる。
「じゃあな」
「うん、ノア君も気をつけて」
バジルが明るい口調で、しかしどこか寂しげに笑う。
小さく振り返すその手の節々には、絵具の跡が薄く染みついていた。
「ああ、そうだ」
ノアは町をあとにしようと背を向けかけ、不意に何かを思い出したように足を止めた。振り返り、バジルを見る。
「バジル、この前俺のこと、初めて出来た友達って言ってたけどさ、……よく考えたら俺もそうだったわ! 村に年近い奴なんか居なかったし」
ノアはからっと笑って見せた。
「だから、俺もバジルが初めて出来た友達」
バジルの目が、じわじわと見開かれていく。
「じゃあな! そんだけ!」
今度こそ、ノアの足が町の外へと向かっていく。
背後から届く「じゃあね」というバジルの声を背中で受けながら、ノアは町の外へと歩き出していった。
町を吹き抜ける風が、そっとノアの背を押していく。
みるみる遠ざかっていくその背中を見送りながら、バジルは胸の内がじんわりと熱を帯びていくのを感じていた。くすぐったいような、嬉しいような、ほっこりとした心地のまま、バジルはいつまでも手を振り続ける。
──と、ノアの姿がほとんど見えなくなったところで、バジルははたと手を止めた。
「…………あれ? ローズちゃんは?」




