ep.18 碧
何度も同じ夢を見る。
知らない男にパパが襲われている夢。
血がだらだらと溢れて止まらない夢。
ただ見ることしか出来なかった弱い自分の夢。
弱い自分が嫌い。
弱いとすべてを奪われるから。
どうして身体が動かないの。どうして見てるだけなの。
奪わないでよ。
何も知らないくせに。
どうしてみんな奪っていくの。
突然現れて、勝手にすべてを奪っていかないでよ。
失いゆく意識の中で、ローズは幼き日の記憶を見ていた。はるか遠い過去の記憶が、まざまざと蘇ってくる。息の詰まるような重い空気、頬を撫でる冷気の冷たさ、肌にまとわりつく不快な汗までもがはっきりと思い出せるほどの、鮮烈な記憶。
「ローズちゃん、逃げろ……」
レイモンドが目の前で仰向けに倒れている。
見知らぬ男が、馬乗りになりながらレイモンドの腹に何度もナイフを突き刺している。血が溢れ、見る見るうちに血溜まりが床に広がっていく。
レイモンドのうめき声が、血が流れる音が、男の半笑いの荒い息遣いが、肉を裂く鋭い音が、耳の中に、頭の中に、なだれ込んでくる。
「…は……っ……はぁ…っ……は……………」
全身の血液が逆流するかのような激しい動悸に襲われ、みるみるうちに指先が痺れていく。全身から力が抜け落ちていく。
足が地に根を張ったかのように動かない。身体はその場に縫い留められたまま、逃げることも、目を逸らすこともできないでいた。
ただ、目の前の光景を見つめ続けていた。
いやだ、奪われるのはいやだ。
奪われたら、奪い返すくらいの強い人間に、いつか、必ず────
ローズの身体が凄まじい衝撃とともに壁へと打ち付けられる。
龍がその尾を容赦なく引き抜くと、支えを失った彼女の身体は、まるで糸の切れた人形のようにぺしゃりと地に堕ちていった。
空虚な落下音を立てて落ちたその肢体が、生物としての尊厳を奪われたかのように無残に折れ曲がる。
ローズの脚は踏みにじられた花のようにあらぬ方向へとひしゃげ、ひび割れた石畳には、彼女の生を削り取った鮮血がどろりと飛び散った。
ノアは膝から崩れ落ちるようにその場にへたり込んでいた。足が震え、立ち上がることすらままならない。
広がり続ける鮮血の海。
その中央で、ローズは力なく横たわっていた。血溜まりに沈んだ顔からは生気が失われ、空虚な瞳が、虚ろに宙を見据えていた。あれだけ自由気ままに、闊達に生きて、太陽のように眩しく笑っていた彼女はもうピクリとも動かない。
目を背けたくなるほど無惨に抉り取られたローズの肉体は、空洞となって胸にぽっかりと口を開けていた。
傷口から鮮烈な赤い血がとめどなく溢れ出し、冷たい石畳を侵食していく。
「………っ……は…………っ……」
ノアは、目の前の光景を受け入れきれずにいた。
胸の奥から迫り上がる激しい嗚咽で、喉元が焼け切るように熱い。
呼吸が喉の奥で引っかかり、か細く浅い息が途切れ途切れに漏れ出ていく。
ノアは血の気の引いた表情で、動かぬローズをただ見つめることしか出来なかった。
ギラりと鋭く、龍の双眼がノアを射抜く。
鋭い眼光に捉えられ、心臓が握り潰されたかのような恐怖がノアのもとに襲いかかる。
腰が抜けきって、うまく立ち上がれない。
ノアは大きく震える手で冷たい石畳の上を掻き、必死に逃げようともがいた。
龍が、圧倒的な暴威を纏って近づいてくる。
生物としての格が違う。
龍が地を踏み抜くたび大気は悲鳴を上げ、地を這う震動が、まるで終焉を告げるかのようにノアの耳元に響いていく。
「……っ………は………」
声にならない呻きが漏れる。
死が、実態を伴って迫ってくる。
目前まで迫った龍から、暴力的なまでの凄まじい咆哮が放たれる。
万物を震え上がらせるその叫びは、まるで全細胞が蹂躙されるような衝撃だった。
内臓もろともまとめて引き裂かれるような錯覚に襲われながら、ノアはただ虚ろな眼差しで見上げていた。
龍が牙を剥く。
死の刃が向けられる。
殺される──────
奪うな
奪うな奪うな奪うな奪うな奪うな奪うな奪うな奪うな
ぶっ殺してやる
ぶっ殺してやる
ぶっ殺してやる
お前を
あの日の あの時の 自分を
ノアは、信じられないものを見ていた。
ローズの血溜まりが、一面、青い炎で燃えている。
胸を貫かれ、死んだはずのローズが、青い炎を纏って立ち上がっていた。
血溜まりの中の大剣が、たしかな輝きを持って煌めいている。
ローズが右手を掲げると、大剣は意志を持ったかのように手元におさまってゆく。
龍が、ノアに襲いかかる───その刹那、ノアの目の前を一筋の碧い閃光がほとばしった。
瞬時に間を詰めたローズが、大剣を振りかざし、龍の足元へ鋭い一撃を叩き込んだのだった。
碧い火花と赤い血飛沫が入り交じり飛散する。
煌めきを宿した大剣が、刃が、皮膚を切り裂いていく。硬い足から血が噴き出していく。
龍は低く忌々しげな呻きを漏らすと、たまらず後ろへ大きく飛び退き、ローズとの間に距離を取った。
ローズはそのまま力強く地を蹴り、迷いなく龍のもとへ突き抜ける。
龍が呻き声を上げながら、巨大な爪をローズへ振り下ろす。しかし、ローズはそれを大剣の切先で力強く弾き飛ばすと、そのまま流れるような動作で爪もろとも肉を削ぎ落とした。
目の前で繰り広げられる苛烈な攻防、そして目にも止まらぬ速さで展開される追撃の連鎖を、ノアはただただ呆然と見上げていた。息をすることさえ忘れたかのように、その光景を瞳に焼き付けていた。
龍がその巨躯を揺らし、怒りに任せ反撃を試みるも、ローズの剣筋に一切の迷いはない。狙い澄まされた一振りが足元を深くえぐり、ついに龍はその身を支えきれずに体勢を崩した。
龍の喉元から地響きのような呻きが漏れ、辺りを激しく揺らす。
龍は大きくその身をしならせると、砕けた石畳を蹴り上げ、近くの屋根へと跳び上がった。
着地の衝撃で瓦が弾け飛ぶ。
その巨躯はわずかに揺らいだものの、すぐに踏みとどまると、傷を負った前脚を引きずりながら力任せに屋根の上を駆け出した。
踏みしめるたびに瓦が砕け、鈍い音を響かせながら破片がそこかしこに降り注ぐ。
逃れるように、しかし勢いは衰えぬままに、龍は次々と跳躍を繰り返していく。
その背は、みるみるうちに遠ざかる。
やがて白銀の龍は、町を囲む深い山々に溶け込むように、消えていったのだった。
極限まで張り詰めていた空気が一気に弛緩し、
町に、いつぶりかの静寂が訪れる。
舞い上がっていた砂煙がゆっくりと沈み、厄災のあとの虚脱感だけが辺りを満たしていた。
ローズはまるで見えない糸がぷつりと切れたかのように、ふっと力が抜け落ちると、そのまま血に濡れた石畳の上にばたりと倒れ込んだ。
大剣が重い音を立てて地を転がる。叩きつけられたような金属音が、静まり返った町に冷たく響いた。
死んだはずのローズ。青い炎を宿し、龍に立ち向かっていったローズ。現実とは思えぬ不思議な力。奇妙な能力。
ノアは震える足を奮い立たせ、ローズのそばに駆け寄った。
服は全身血まみれで、酷い有様だった。
ノアは大きく震える右手で、瞼を閉ざしたローズの頬を包み込んだ。わずかな温もり。そして、微かな命の気配。
ノアは震えながら首に手を押し当てた。
とくとくとく、と、たしかな鼓動が伝わる。
ノアは、鼻をすすりながら涙を落としていた。
血に濡れ、ぼろぼろになった服へ目を向けると、無惨に引き裂かれたその隙間から白い肌が覗いていた。
傷ひとつない、滑らかな白い肌だった。
「傷が……塞がって……」
ノアは、どこか夢の中にでもいるかのような心地で、誰にともなく呟いていた。
目を閉じ静かに横たわるローズを前にしても、未だ信じきれぬまま、ただその姿を見つめていたのだった。




