ep.17
ep.17
走れば走るほどに、人の気配が薄れていく。
逃げ遅れ、やっとの思いで広場から脱しようとする者たちは、ノアとすれ違うと皆、正気を疑うような眼差しを向けた。
それもそのはず、人の力では到底及ばぬ圧倒的な存在を前に立ち向かうなど、あまりに馬鹿げている。
ノアは焦りと緊迫感と恐怖心で頭がどうにかなりそうだった。
破れそうなほどに鳴る心臓の鼓動を抑えようにも一向に抑えられない。ともすれば、足がもつれて転びそうになる。
呼吸が乱れ、まともに息ができない。
ノアは龍のもとへと近づくほどに、焦っていた。
上を見上げながら走っていた。
そこには、ローズの姿がなかった。
「ああもう!くそ、何やってんだ!!」
抑えきれぬ苛立ちを吐き出すように叫ぶ。
遠目で見ていた時とは比でない轟音が、あたりに響いている。
ノアは少年が指した家のすぐ近くまで来ていた。
二階部分が抉り取られ、崩壊寸前の建物。
隣に続く広い路地の奥からは、凄まじい音と振動がひっきりなしに響いている。
龍が暴れる度に足元が激しく揺れ、気を抜くと立っていられなくなる。
ノアは家の前までたどり着くと、勢いよくドアを開けた。
目に飛び込んで来たのは、あらゆるものが床に散らばり、荒れ果てた室内。
割れた食器や木片が無残に散乱し、その上に瓦礫と砂が降り積もっていた。
人の気配がない。
急いで二階に続く階段を駆け上がる。
上へ上がると、冷たい風が吹き込んでいた。
屋根は崩れ落ち、ぽっかりと開いた穴から鈍い光が差し込んでいた。
瓦礫や本が散乱する部屋の隅、辛うじて被害を免れていたベッドの上に、彼女はいた。溢れそうな涙を必死にこらえ、悲鳴を押し殺すように口元を強く抑えてガタガタと震えていた。
ノアの姿を目に、溜め込んでいた涙が溢れ出す。
「…っ…どう…して……」
龍の咆哮が家全体を揺らし、立っていられなくなるほどの振動が続く。頭上からは砕けた瓦礫が容赦なくばらばらと落ちてくる。いつ崩壊してもおかしくない限界の状態だった。
ノアは急いで女性のもとへ駆け寄ると、すかさずその肩と脚に手を回した。
「はやく俺に掴まって!!!いいから!!!」
女性は涙を浮かべながら必死に頭を振る。
「早くしねえと、ここもじき崩れ落ちる!!はやく!!!」
「…っ、いいの!!私のことはいいから、早くここから逃げて!!!大人抱えて逃げようなんて、そんなの」
「何言ってんだ、子どもが待ってんだろ!!!
いいから早く俺に掴まれよ!!!!!」
その言葉に、女性の表情が崩れる。目からとめどなく涙が溢れ落ちていく。
女性は嗚咽を押し殺したまま、観念したようにノアの首へと腕を回した。
ノアはすぐさまその身体を抱え上げると、階段向かって思いきり駆け出した。すぐ近くで龍が暴れ回っている。踏みしめる床は頼りなく軋み、頭上では今にも崩れ落ちそうな天井が不気味に揺れている。じわじわと額に汗が滲んでいく。
その時だった。
凄まじい衝撃音がして、背筋が凍りついた。ノアは思わず振り返っていた。
何かがとてつもない勢いで家の壁を突き破り、部屋の中へと突っ込んできたのだった。壁は粉砕され、瞬く間に瓦礫の山へと成り果てていた。
ノアは、絶句していた。
舞い上がる砂煙の向こう。徐々に影が浮かび上がってくる。
呼吸するのも忘れるくらいに、ただ呆然と立ち尽くしていた。
砂埃が収まると、その姿がたちまち見え始める。
その衝撃の正体はローズだった。
砂と血にまみれ、全身に傷を負ったローズが、瓦礫の中に埋まっている。
かと思うと、ローズは大剣を瓦礫に突き立て、すぐさま身体を起こすと、そのまま殺気立った瞳で穴の空いた壁へと向かって猛然と駆けていった。
一体何が目的で、何をするつもりなのか。
崩れた壁の向こう、すぐ真下には、龍の不気味な地鳴りのような息遣いがはっきりと響いてくる。
「おい、やめろ!!!ローズ!!!!!俺の言うことを聞け!!!馬鹿なことしてんじゃねえよ!!」
ローズはノアの忠告なぞ聞く耳をもたずに、振り下ろした剣の勢いのまま、躊躇いもなく二階から飛び降りた。
ノアの首にしがみつく女性の震える腕に力がこもる。
飛び降りていったローズと、腕の中で恐怖に怯える女性。そのあいだで、ノアの視線が揺れ動く。
だが、迷いを強引に振り払うように頭を振ると、女性を抱き抱えたまま階段を駆け下りた。
「ああもうくそッ、あの馬鹿……!!!」
外にでると、路地のほうから地鳴りのような轟音が響いていた。
「何なんだよ、なにやってんだよ!!あいつ」
龍の暴威が音となって背後から追いすがってくる。
ノアは歯を食いしばるようにして女性を抱き抱えたまま、全速力で広場を突っ切っていく。女性のすすり泣く声が耳元で聞こえる。
広場の中央まで走り抜けていると、血相を変えた男がノアの元まで駆け寄ってきた。
「あなた……!!!」
抱えていた女性が、男に向かって泣きながら叫ぶ。
「何がどうなって……君が助けてくれたのかい!?なんと礼を言っていいか……」
「この人を頼む、あんたらはこっから早く逃げて!!!」
ノアは女性を男に引き渡すと、すぐさま家の方へと引き返した。
「ああ、ちょっと、君……!!!」
ノアは全速力でローズのもとへ向かっていた。居ても経ってもいられず駆け出していた。
警告するかのように心臓の鼓動が鳴り止まない。
恐怖と焦燥心と苛立ちとあらゆる感情の渦に飲み込まれそうで、息がうまく吸い込めないでいた。呼吸の仕方さえ分からなくなるほどに、頭が混乱していた。
意味がわからなかった。なぜ、あんな化け物に執拗に執着するのか。なぜ、立ち向かう。なぜ逃げようとしない。ローズが、その意図が、全くもって分からなかった。
ボロボロになりながら飛び降り、立ち向かっていったローズ。勝算なんてあるわけないのに、何をしようというのか。ほとんど自殺行為とも言える行動に、頭が錯乱状態だった。
早くあの場から引き剥がして、逃げなければ。
でも止めたとして、その先は?
あんな化け物相手に、まともに逃げられる訳がない。ここで死ぬのか?俺も、ローズも?
とめどなく溢れる不安に支配され、嫌な予感だけが頭の中を執拗に巡り続ける。
あんな化け物に、人間一人で勝てるはずがないのに。
ノアの脳裏に、あの日の光景がちらつく。
手のひらにべっとりと付いた、あの鮮やかな赤い血。
今もなお頭にこびりついて離れない、生々しい血の感触。
どうしてこうも、こんな出来事が立て続けに起こるのか。
暴れる龍が建物を粉砕する度、地鳴りのような衝撃を響かせる。衝撃が、足元から突き上げてくる。
そのたびに恐怖で心臓が締め上げられ、気を抜くとまともに立っていられなくなる。
鼓膜を引き裂くような轟音に、耳の奥が焼けつくように痛む。
龍の重く低い息遣いが聞こえるほどまで、距離が近づいていた。
路地に出ると、全貌が見えてきた。
近くで目にする龍は、圧倒的であった。
白銀の毛並みが美しくも禍々しい光を湛え、冷たい威圧となって場を満たしていた。
鋼のように研ぎ澄まされた爪は重く輝き、触れたものすべてを断ち切る気配を帯びている。
鋭く冷徹な双眸は、ひとたび捉えられればそれだけで死を悟るほどの、凍りつくような眼光を放っていた。
そしてその体躯を越えてしなやかに伸びる、白銀の重き尾。
ノアは戦慄して、息をするのを忘れたまま見上げていた。
足が震え、思わず後ずさりしていた。
そこにあったのは、信じ難い光景。
「なん…で……だって……そんな………」
思考は完全に停止し、目の前の状況を受け入れるのを拒絶していた。
指先から急速に血の気が引いていく。
血が高騰するかのように湧き上がる。
心臓がうるさいくらいに脈打っていく。
迫り上がる動悸が喉を締め上げ、声にならない呻きが喉元に張り付いた。
目の前の現実を受け入れられない。
引きつった声が漏れ出る。
ローズの手から大剣が滑り落ち、落下していく。
耳障りな金属音を立てて転がった剣身が、血に濡れていく。
そこにあったのは、一面に広がる血溜まり。
胸を貫かれたローズが、全身の力を失ったまま、力なく項垂れていた。




