怒り
「ひとまず、親衛隊について勉強しましょう」
「…………」
麻友の頭に。
あるはずのない鉢巻きが見えた気がした。
そこからは。
授業なんかより。
よっぽど。
スパルタだった。
「親衛隊の基本理念からいきます」
「はい」
「返事!」
「はいっ!」
「次、三十六か条!」
「えっ、全部!?」
「当然です!」
「…………」
葛葉様親衛隊の掟。
一日の活動スケジュール。
隊員への指示の出し方。
定例会。
見回り。
何だかよくわからない役職まで。
次から次へと。
頭に叩き込まれた。
「…………」
――普通の授業より疲れる。
昼休みになって、ようやく一旦解放された。
午後からは普通に授業へ戻っていいらしい。
ただし。
「これ」
「…………」
どさっ。
麻友から一冊の冊子を渡された。
「何、これ」
「親衛隊規約です」
「…………」
「今日中に暗記してください」
「今日中!?」
「最低限です」
「…………」
宿題まで出た。
「それから」
「まだあるの?」
「放課後は定例会です」
「…………」
「必ず出席してください」
「あのさ」
「はい」
「定例会って、何?」
「…………」
麻友が。
長い。
長いため息をついた。
「今日は」
一拍。
「いてくれるだけでいいです」
「え?」
「進行はこちらで何とかしますから」
「う、うん」
「余計なことは言わなくて大丈夫です」
「……わかった」
――どっちが隊長なんだろう。
疑問に思ったけれど。
もちろん。
口には出さない。
「大丈夫です」
「?」
麻友が、少しだけ表情を緩めた。
「あたしがサポートしますから」
「…………」
その言葉に。
ほんの少し。
肩の力が抜けた。
記憶喪失だとみんなに打ち明けて。
親衛隊を辞める。
そんな選択肢だって。
もちろん。
あった。
「…………」
でも。
麻友を見ていると。
そんな簡単に投げ出していいものでもないような気がしてきた。
なぜ。
七か月の記憶を失ったのか。
それは。
さっぱりわからない。
けれど。
記憶をなくしたせいで。
昨日まで関わっていた人たちに。
迷惑をかけている。
それだけは。
間違いなかった。
――仕方ない。
とりあえず。
できるところまでは。
やってみよう。
***********************
昼休み。
あたしは売店でパンを二つ買うと。
逃げるように校舎裏へ向かった。
「…………」
ようやく。
人のいない階段を見つける。
そこへ腰を下ろした。
「疲れたぁ……」
深い。
深い。
ため息。
売店へ行くだけなのに。
『隊長! お疲れ様です!』
『糸崎隊長、こんにちは!』
『午後もよろしくお願いします!』
いたるところから声をかけられた。
「…………」
――無理。
透明人間だったあたしが。
七か月後には。
歩いているだけで人から注目される生活をしている。
そんなこと。
誰が想像できるんだ。
「…………」
パンの袋を開けようとした、そのとき。
「相変わらず」
「――?」
不意に。
声がした。
「こんなところに逃げてきてるんだね」
「…………」
聞き覚えが。
あるような。
ないような。
顔を上げる。
「――!」
階段の下に立っていたのは。
朝会ったばかりの。
学校のお色気担当。
大村葛葉だった。
「…………」
――何でいるの。
「あっ、すみません!」
「え?」
「すぐ消えますから!」
「ちょっと待って」
慌ててパンをまとめ。
立ち上がる。
その横を。
すり抜けようとしたところで。
腕をつかまれた。
「待ってって」
「――」
逃げられない。
仕方なく顔を上げる。
「…………」
長い睫毛。
その奥の。
黒い瞳。
近くで見ると。
やっぱり。
ものすごく整った顔をしている。
その瞳の中に。
あたしの姿が。
ぼんやり映っていた。
「…………」
なのに。
不思議だった。
こんな美形に。
こんな近くで。
じっと見つめられているのに。
キュン。
とも。
ドキッ。
とも。
しない。
「…………」
――おかしくない?
だって。
七か月後のあたしは。
葛葉の親衛隊長だ。
部屋中に。
葛葉の写真とポスターまで飾っている。
それなのに。
本人を目の前にして。
こんなにも。
何も感じないものなんだろうか。
「すみません」
「…………」
「すぐ立ち去りますから」
「いや」
葛葉の眉が。
わずかに寄った。
「待ってよ、杏」
「――」
杏。
今。
確かに。
そう呼んだ。
「…………」
みんな。
『隊長』
『糸崎隊長』
そう呼ぶのに。
葛葉だけは。
あたしを。
『杏』
と。
当たり前のように呼んだ。
「…………」
その瞬間。
頭に浮かんだ疑問が。
そのまま。
口からこぼれた。
「あたし」
一拍。
「葛葉のこと、好きだったの?」
「――」
葛葉の瞳が。
大きく見開かれた。
「…………」
しまった。
そう思ったときには。
もう遅かった。
「…………」
静寂。
ほんの数秒だったはずなのに。
ひどく長く感じる。
あたしたちは。
金縛りにでもあったみたいに。
動かなかった。
「……ざけんなよ」
「え?」
低い声。
腹の底へ響くような。
聞いたことのない声だった。
「葛葉……?」
恐る恐る。
顔を覗き込む。
「――」
目が合った。
そこにいた葛葉は。
怒っていた。
はっきりと。
怒っていた。
「ふざけんなよ!」
「――!」
肩が跳ねた。
「葛葉……様?」
「いい加減にしろよ!」
『様』
その呼び方にも。
葛葉の表情が。
さらに険しくなる。
「どういうつもりだよ」
「…………」
「馬鹿にすんな」
「…………」
わからない。
何で。
そんなに怒っているのか。
あたしの記憶にある葛葉は。
いつだって。
穏やかに笑っていた。
遠くから見ていただけだけど。
色気たっぷりで。
ファンサービスもよくて。
女の子には優しい。
そんな人だった。
少なくとも。
女の子相手に。
声を荒らげるような人には。
見えなかった。
「…………」
もしかしたら。
本当は。
こういう人なのかもしれない。
それとも。
あたしが。
怒らせるだけのことをしたのかもしれない。
でも。
七か月の記憶がないあたしには。
どちらなのか。
判断することさえできない。
「…………」
何も言えず。
ただ。
葛葉を見る。
「…………」
しばらくして。
葛葉が。
ふっと。
目を伏せた。
「……ごめん」
「え?」
「怒鳴って悪かった」
絞り出すような声だった。
「あ……いえ」
「…………」
あたしが悪いのかもしれない。
でも。
何が悪かったのか。
わからない。
そして。
記憶喪失のことを。
葛葉に話していいのかも。
わからない。
「…………」
だから。
曖昧な返事しかできなかった。
「杏が」
葛葉が。
ゆっくり口を開く。
「何を考えてるのか」
「…………」
「俺にはわからない」
「…………」
「無理に聞き出すつもりもないけど」
一拍。
「こういうやり方は、やめてほしい」
「…………」
――こういうやり方って。
どういうやり方?
むしろ。
無理に聞いて。
『どうしたんだ』
って。
問い詰めてくれれば。
今なら。
たぶん。
全部。
ぺろっと。
喋るのに。
「……あの」
「いい」
「でも」
「今日は」
葛葉が。
困ったように。
ほんの少し笑った。
「俺も頭冷やすよ」
「…………」
「杏を怒鳴るつもりなんてなかったから」
そして。
ぽん。
あたしの頭に。
手を置いた。
「――」
くしゃ。
髪を。
軽くかき混ぜる。
「…………」
あたしは。
何も言えなかった。
「じゃあ」
葛葉が。
背を向ける。
数歩進んで。
少しだけ振り返った。
「また明日ね」
「…………」
それだけ残して。
葛葉は。
去っていった。
「…………」
あたしは。
一人。
校舎裏の階段に取り残された。
「……また明日?」
明日。
何があるんだろう。
いや。
そもそも。
今日の。
『相変わらず』
って。
何だったんだろう。
「…………」
――七か月のあたし。
葛葉と。
いったい。
どんな関係だったの?
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