怒り
「ひとまず、親衛隊について勉強しましょう」
麻友の頭に、ないはずのハチマキが見えた。
授業を受けるよりもスパルタで、葛葉様親衛隊の掟や一日のスケジュールを叩き込まれた。
昼休みは一旦解散して、午後は授業に戻ってよいとの事だが、暗記しておくようにと言われた親衛隊の掟本は宿題として出された。
しかも、放課後は定例会だから、参加するように、と。
「定例会ってなんですか?」
困惑の真っただ中のあたしが訊くと、麻友はあきらめたように息を吐き出した。
「今日はいてくれればいいです。あとはこちらで何とかしますから」
「う、うん。わかった」
これではどちらが、隊長かわからないけれど、あたしは頷いた。
「大丈夫です。あたしがサポートしますから」
あたしの不安に気が付いただろう麻友は、あたしを安心させるように笑った。
――――――記憶喪失であることを告げて、親衛隊を抜けるという選択肢もあった。
だけど、麻友を見ていて、仕方がないと現状を受けれ入れていた。
なぜ記憶をなくしたのかはさっぱりわからないけれど、記憶をなくしたことで迷惑をかけていることは間違いないのだから。
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昼休みは売店でパンを二つ買って、校舎裏の階段に逃げ込んだ。
売店に行くときも、至る所から「隊長!お疲れ様です」と声がかかって気が気でなかった。
透明人間だったあたしが、常に人の目に晒される生活を送っていたなんて嘘みたいな話だ。
「疲れた―――」
深いため息と共に、本音がこぼれた。
「相変わらず、こんなところに逃げてきているんだね」
不意に聞き覚えのあるような、ないような声がして、ゆるゆると、顔を上げた。
立っていたのは朝、会ったばかりのお色気担当の大村葛葉。
あたしを見上げるように、階段の下に立っている。
「あっ、いや。すみませんっ! もう消えますから!」
あたしは葛葉を認識すると、慌てて昼食をまとめた。
逃げるように立ち去りたいところだったけれど、「待って」と横をすり抜ける前に捕まえられた。
グイッと強引に腕を引っ張られて、逃げ切ることはできなそうだ。
長い睫毛の奥に煌めく黒い瞳に、あたしの姿がぼんやりと映っている。
彼に長く見つめられているというのに、あたしはキュンッともドキッともしない。
7ヶ月間の記憶がないとしても、親衛隊長まで勤めているあたしが葛葉を前にこんなにも心が動かないものなんだろうか。
「すみません。すぐに立ち去りますから」
「いや、待ってよ、杏。今日の君は、何かおかしいよ?」
動揺した様子の葛葉の瞳に、逃げ出そうとしたあたしの姿が映っている。
―――今、杏って呼んだ?
みんな親衛隊長、糸崎隊長と呼んでいるのに、なぜか葛葉が〝杏〟と名前を呼び捨てにした。
「あたし、葛葉が好きだったの―――?」
心に浮かんだ率直な疑問が、つい、こぼれた。
あたしの呟きを拾った葛葉の瞳が大きく見開かれる。
一瞬の静寂があたしたちに纏わり付いて、縛り付けられた。
金縛りにあったのか、時間が止まったのか、あたしたちは一ミリ足りとも動くことがなかった。
「―――ぁよ」
低いうなり声が、腹に響いてくる。
二人しかいないとはいえ、葛葉の声なのか確信が持てず、覗き込むようにした。
目が合った葛葉は怒りの色で、染まりあがっていた。
「ふざけんなよ!」
「葛葉―――さま?」
一応、体裁上付けた〝様〟にも、再び、反応した様子の葛葉。
「いい加減にしろよ! どういうつもりだ! 馬鹿にすんじゃねぇよ」
声高に怒鳴る彼は、今まで見たことのない姿だった。
親衛隊に入る前―――あたしが記憶なくす前の見かけた程度の彼は、穏やかに笑う男だった。
色気たっぷりでファンサービスもよく、女性は丁重に扱うフェミニストなしぐさも見られた。
間違っても女性を相手に怒鳴る人には見えなかった。
彼が怒っている意味がまったく、わからず、あたしは困惑するしかない。
もしかしたら、彼は元々こういう人だったのかもしれない。
もしかしたら、彼が怒る理由に足ることをあたしがしたのかもしれない。
どちらも可能性はあり、どちらも否定も肯定もできなかった。
言葉を失って震える唇を薄く開けたまま、あたしは真っ直ぐに葛葉を見つめた。
「―――――ごめん」
しばらくして、葛葉が搾り出すように謝った。
「怒鳴って悪かったね」
「あっ、いえ」
あたしが悪いのかも知れないと思いつつ、記憶喪失になったことをどこまで話していいのかもわからなくて、曖昧な言葉しか口から出てこなかった。
「――――――杏が何を思っているのか知らないし、無理に聞くつもりもないけれど、こういうやり方はしないで欲しい」
「あ、あの」
むしろ、無理に問いただされたら、ペロッとしゃべっちゃうのに。
無駄にフェミニストな態度を取る葛葉に、あたしは言葉を繋げることができない。
「杏を怒鳴るつもりはなかった。今日は、頭を冷やすよ」
葛葉はクシャッとあたしの頭をかき混ぜると、その場を去った。
「また、明日ね」と謎の言葉を残して。