第49話 マルデクとトウカ
レンは、どこまでも白い空間にいた。
床も壁もなく、周囲には目印になるようなものが何一つ存在しない。見渡す限り、あらゆる方向に果てしない白い光が広がっていた。
目の前に立つ白い服の男が、片手を差し出す。
「君の質問に答えていこうと思う」
レンは思わず唾を飲み込んだ。
実際に呼吸しているわけではないと分かっていても、身体はまるで現実の出来事であるかのように反応してしまう。
彼は目の前の男を見つめた。
マルデク。
なぜか自分とつながっているという、ダイモンだった。
「ここは君の潜在意識の中だ」
マルデクの説明を聞き、レンは数秒間、黙り込んだ。
「で、でも……」
「レン。私は君がこの世界に来る少し前から、ずっと君とつながっている」
背筋にぞくりとしたものが走った。
「そ、それを聞こうと思ってたんだよ! どうやって俺に取り憑いたんだ? それに、あのときの……」
マルデクが片手を上げ、レンの言葉を遮った。
レンはすぐに口を閉じる。
「君が何を考えているのかは分かっている。疑問も、不安もね。すべてを理解できるよう、私が手助けしよう」
(本当に、俺の考えが読めるのか……?)
マルデクは微笑んだ。
「そうだよ。君の思考は私たちの頭上に現れ、しばらくの間、漂っているんだ」
レンは顔を上げ、白い空間をきょろきょろと見回した。
「どこだよ!? 何も見えないぞ!」
マルデクはくすりと笑った。
「今の君には、あのような形では見えないんだよ。まだまだ訓練が必要だね」
「訓練……?」
マルデクの表情が真剣なものに変わった。
「手短に説明しよう。私たちがこうして接触するのは今回が初めてだ。だから、いつ君との接続が途切れてもおかしくない。それに、ここに長く留まりすぎると、学んだことの半分も忘れてしまう可能性がある」
レンの表情が強張った。
彼が質問するより先に、マルデクが口を開いた。
「まず、君に知っておいてほしいことがある。君がこの世界の魔法を使えないのは、私がここにいるからだ」
レンはマルデクを見つめたまま、固まった。
しばらくして、ようやく口を開く。
「……別に驚かないのかい?」
「まあ……魔法が使えないのは、ずっとおかしいと思ってたからな。それに、あの異常な力も……あんたのせいなのか?」
レンは自分の両手に目を落とした。
「大部分はそうだね。ただし、私が君に力を与えているわけではない。君自身が持つ力を、私が引き出しているだけだ」
レンは口を半開きにしたまま、言葉を失った。
再び、自分の手を見つめる。
(あの力は……もともと俺のものだったってことか?)
マルデクはレンの周囲をゆっくりと歩き始めた。
「松田レン。君はダイモン・リゲルを倒すため、この世界にやって来た。すべては私とリサ、それから君が生まれた星――地球のダイモンが協力して進めている計画の一環なんだ」
レンは歩き回るマルデクを目で追った。
「地球のダイモンも!? そもそも、あんたたちは一体何なんだよ? か、神様なのか?」
マルデクはどこか嬉しそうに微笑んだ。
「おやおや……神様とは、ずいぶん光栄な呼び方をしてくれるね。だが、失敗作である私には、そんな大層な肩書きはふさわしくないよ」
彼は立ち止まり、改めてレンに向き直った。
「宇宙に存在する惑星には、それぞれダイモンがいる。私たちは、その星に住む生命と惑星そのものが進化していくよう、導く役目を担っているんだ」
レンの表情から笑みが消えた。
あまりにも突拍子もない話だった。
それでも、この世界に来てから経験した数々の出来事を思い返せば、簡単に否定することもできなかった。
「はは……普通なら笑い飛ばすところだけど……なぜか、あんたが冗談を言ってるとは思えないんだよな」
「さっきも言っただろう? 私は失敗作なんだ」
マルデクの笑みがわずかに薄れた。
「私が管理していた惑星の名は、マルデク。私は、その星の住民たちを正しく導くことができなかった。上位のダイモンに助けを求めることもせず、すべてを自分一人で解決しようとしたんだ」
レンは首を傾げた。
「それで……追放されたのか?」
マルデクは大声で笑った。
「はははは! そうだったら、どれだけ簡単だったことか!」
彼の笑い声が、果てしない白い空間に響き渡る。
しかし、笑い終えたマルデクの表情には、どこか無理をしているようなぎこちなさが残っていた。
彼は一瞬、目を伏せた。
「私の惑星の文明は、科学技術の面では途方もない進歩を遂げていた。私はそれを誇りに思っていたよ。だが、精神的な成長はあまりにも乏しかった。心の平穏を本当に求めていた者は、ほんの一握りしかいなかったんだ」
レンは、マルデクが自分の腕を抱くようにしていることに気づいた。
まるで、そこには存在しない寒さに耐えているかのようだった。
マルデクは続けた。
「やがて、私の星では住民同士の戦争が絶えなくなった。次から次へと争いが起こり、爆発が繰り返され、街が破壊されていった。彼らは驚くほど高度な知識を持っていたのに、自分たちの欲望すら抑えられなかったんだ」
マルデクの声からは、先ほどまでの軽やかさが失われていた。
「そして最後には……私が管理していた惑星そのものが、粉々に砕け散ってしまった」
レンは言葉を失った。
話を聞いているうちに、彼の脳裏に見知らぬ光景が浮かび始めた。
それは、自分のものではない記憶の断片だった。
巨大な都市。金属で造られた建造物。空を染め上げる爆発。そして、自らの手で滅びへと向かう高度な文明。
レンは頭を押さえた。
「な、何だよ、この映像……! あんたの記憶なのか!?」
マルデクは穏やかに頷いた。
「一時的な同調が起きているんだよ、レン。私が許可しなくても、君が私の思考に触れてしまうことがある。心配する必要はない」
レンは浮かび上がる映像に意識を集中させた。
すると、そのうちの一つが、より鮮明になった。
無数の小惑星が、暗い宇宙空間を漂っている。
レンの目が大きく見開かれた。
マルデクは彼の反応を見て、静かに言った。
「そういうことだ。私の惑星は無数の破片となり、今では太陽に近い内側の惑星たちの周辺を漂っている」
レンは愕然とした表情で彼を見た。
「う、嘘だろ!? じゃあ……あの小惑星って、地球の近くにあるのか!? いろんな映像が一度に頭に流れ込んできて……もう、何が何だか……!」
「そうだ。私の惑星は、君がいた太陽系に存在していたんだよ」
レンは数秒間、黙り込んだ。
自分が生まれるよりもはるか昔、一つの惑星が滅び、無数の破片となった。
そして、その文明を導くはずだった存在が、今、自分の目の前にいる。
「で、でも……それって、どれくらい昔の話なんだ?」
マルデクは顎に手を当て、考え込むように上を向いた。
「うーん……正確には分からないね。数百万年前くらいかな? 君たち人間と私たちとでは、時間の感じ方そのものが大きく違うからね」
レンはゆっくりと拳を握り締めた。
「数百万年も……ずっと一人だったのか?」
マルデクは意外そうに瞬きをした。
それから、小さく笑った。
「いや、正確にはそうでもないよ。私たちダイモンは、定期的に集まることがあるからね」
そして、再び真剣な表情に戻った。
「ただ、まずは私自身のことを君に知ってほしかったんだ。本当に大切な話をするのは、それからだと思ってね」
レンは少しためらった。
「あ……そ、そうか」
マルデクは頷き、説明を再開した。
「数年前、地球のダイモンから連絡があったんだ。この状況を解決するために、私の力を貸してほしいと言われてね。そうして私は、リゲルのダイモンが支配するこの世界で、君の中に宿ることになった」
レンの目が見開かれた。
「リ、リゲルのダイモン? そいつは誰なんだ?」
「君たちがルミナリアと呼んでいる女神のことだよ」
レンは愕然とした。
「そ、そんな……!」
「まだまだ聞きたいことは山ほどあるだろう。だが、答えはこれから少しずつ教えていく。だから、焦らずにいてほしい。人間の脳は、私たちほど一度に大量の情報を処理できないからね」
レンは眉をひそめた。
「でも、どうしてそんなことが分かるんだ?」
マルデクは首を傾げた。
「何がだい?」
「どうして、どこで説明を切り上げるべきか分かるんだ? それに……あんたの話が本当だって、どうして俺には分かるんだよ?」
「ああ、そのことか!」
マルデクは微笑んだ。
「君は私の意図を感じ取ることができるんだ。ここでは、互いの内面が透明になる。嘘をつこうとしても、その意図を隠すことはできない。君のオリスが安定しているからこそ、そこまで明確に感じ取れるんだよ」
「オリス……」
マルデクは頷いた。
「私は君を助け、ルミナリアの企みを終わらせるために来たんだ。彼女の背後には、本当に……闇の深い存在たちがいる。地球のダイモンも、そのことについては冗談を言っていたわけじゃない」
レンの胸が締めつけられた。
「闇の深い存在」という言葉が、頭の中で何度も反響する。
すでに、想像もしなかったような出来事を経験してきた。それでも、マルデクの口ぶりからは、まだ自分の知らない巨大な何かが動いていることが伝わってきた。
「じゃ、じゃあ……俺はどうやって鍛えればいいんだ? ルミナリアを倒さなきゃいけないのか? 俺がこの世界に来た目的は何なんだよ?」
レンは一歩前に出た。
「それに……あんたたちが、俺をこの世界に連れてくるためにトラックの事故を起こしたのか!?」
その瞬間、周囲の白い光が赤みを帯び始めた。
マルデクはすぐに異変に気づき、レンを落ち着かせるように片手を上げた。
「落ち着くんだ、レン。事故は、ただの事故だよ」
彼はレンの目を真っすぐに見つめた。
「少なくとも、君が思っているような特別な存在ではない。ただ、今回の状況にとって都合のいい条件をいくつか満たしていただけだ。その理由はいずれ分かる」
レンはますます混乱した。
「み、未来になれば分かるって……!? 一体、何が起こるんだよ!?」
「今は心配しなくていい。まずはオリスの型を練習しよう。最初は基本となる『身体の型・第一式』からだ。これは最も簡単な型で……」
「**説明しろよ!!**」
再び、周囲の光が赤く染まった。
マルデクは目を閉じ、深いため息をついた。
「レン。君とこうして話し続けることはできるが、君はまだ、私と周波数を同調させる方法を知らない。だから、まずはちょっとしたコツを教えておこう」
レンは苛立ちを隠さず、彼を睨んだ。
「どうして、それが俺に害を及ぼさないって言い切れるんだ!? そ、それに、数日前に俺が変な化け物みたいな姿になったのも、あんたの仕業なのか!? どうして俺は本当に魔法が使えないんだよ!?」
マルデクは赤く染まった周囲を見回し、不安そうに言った。
「レン、落ち着きなさい……。このままでは接続が切れてしまう」
レンは歯を食いしばった。
知りたいことが山ほどあった。
今すぐ、そのすべてに答えてほしかった。
それでも彼は、何度も深呼吸を繰り返し、どうにか気持ちを落ち着かせようとした。
周囲の光が少しずつ赤みを失い始めたのを確認すると、マルデクはようやく口を開いた。
「よし。君があのとき変身した姿は、オリスの身体の型・第十式――『白馬』の最終段階だ」
レンは、あのとき自分があの状態に陥ったことをぼんやりと思い出した。
記憶は曖昧で、断片的な映像しか浮かんでこない。
ただ、信じられないほどの力を感じたことだけは覚えていた。
その力をどう扱っていたのかは、まったく思い出せなかった。
マルデクは続けた。
「しかし、君はそこに至るまでの段階を一つも習得していなかった。つまり、君は自分の身体を制御できないまま、無理やりあの姿へと導かれたんだ」
彼は短い間を置いた。
「いや……正確には、誰かに身体を操られていたんだよ」
レンの目が大きく見開かれた。
「なっ……!? じゃあ、あれは何だったんだよ!? あんたじゃないなら、一体誰が俺を操っていたんだ!?」
「非常に賢く、強大な力を持つダイモンだった。私が感じ取れた限りでは、存在するダイモンの中でも最強クラスの一人だろう。残念ながら、正体までは突き止められなかった」
レンは眉をひそめた。
「はぁ!? そこまで分かってるのに、正体は分からないのかよ!?」
マルデクは気にした様子もなく答えた。
「そのダイモンは、自分の気配を隠すことに長けていた。おそらく……『古代のダイモン』の一人だろう」
「古代のダイモン?」
「宇宙で最初に誕生したダイモンたちのことだ。私の知る限り、彼らはかつてブラックホールの監視を担っていたが、その後、それぞれ異なる領域を任されるようになった」
レンは口をあんぐりと開けた。
「く、黒い穴……ブラックホールを監視するダイモンって……」
マルデクは片眉を上げた。
「何だい、レン? 宇宙で起きることは、すべて偶然だとでも思っていたのかい?」
「そ、そりゃそうだろ! 世の中には、意味が分からないことがいくらでもあるんだから!」
「君に理解できないのは、君の視野がまだ狭く、未熟だからだよ」
レンは少し不機嫌そうにマルデクを睨んだ。
(未熟って……あんたにだけは言われたくないんだけど……)
それでも、マルデクの表情が真剣であることは分かった。
ダイモンは説明を続けた。
「オリスの型を学ぶために、最初に必要なのは柔軟な心だ、レン。自分のオリスが流れるのを受け入れるんだ」
レンは腕を組んだ。
「で、そのオリスってのは結局何なんだよ?」
「オリスとは、すべての生命が持つ生命エネルギーだ。肉体的な側面にも、物質を超えた側面にも存在している。そして、私たちの存在の本質は、その中に宿っているんだよ」
マルデクが両手の間に、小さな炎を生み出した。
炎は指先の間で揺らめき、白い空間をかすかに照らした。
「もちろん、私たちダイモンは、すべての型を習得している。だから、君を指導するのもずっと簡単なんだ。もし君が一人ですべてを学ぼうとしたら……おそらく、三回くらい転生して、毎日修行しなければならないだろうね!」
マルデクは大笑いした。
一方、レンは冷や汗を流していた。
(さ、三回も転生……!? な、何がそんなに面白いんだよ!? 今の、冗談なのか……?)
レンの反応を気にすることなく、マルデクは両手のひらを十センチほど離して向かい合わせた。
「さあ、レン。私と同じようにしてごらん」
レンも同じように両手を構えた。
「次に、手のひらを少し離してから、ゆっくりと近づける。これを何度か繰り返してみなさい」
レンは疑わしそうな顔をしながらも、言われたとおりに手を動かした。
「で、でも……何のために?」
「自分のオリスを、自然に感じ取れるようになる必要があるんだ」
レンは手のひらを近づけたり、離したりし続けた。
最初は何も感じなかった。
眉をひそめ、もう一度試す。
一回。
二回。
三回。
そのときだった。
両手のひらの間に、奇妙な抵抗を感じた。
目には見えない何かが、互いの手を押し返しているような感覚だった。
レンの目が大きく見開かれた。
「ちょ、ちょっと待て……! 何だ、これ!?」
マルデクは微笑んだ。
「何か、いつもと違う感覚があるかい?」
レンは感覚を確かめるように、ゆっくりと手を動かした。
「お、俺……何ていうか……ゼリーみたいなものを感じるんだけど……」
「おめでとう。君は自分のオリスを感じ取ることができたんだ」
レンは、自分の手を見つめ続けた。
不思議で仕方がなかった。
マルデクは説明を続ける。
「今の君のオリスは緑色で、比較的安定している。再び私とつながりたくなったら、同じ動作をして、この部屋のことを強く思い浮かべればいい」
レンはゆっくりと顔を上げた。
「……緑色?」
「そう。緑色だ。ただし、君が自分の目でそれを認識できるようになるのは、何年も先のことだけどね」
レンはマルデクを見つめた。
そして、信じられないという顔で声を上げた。
「ちょっと待てよ! 本気で言ってるのか!? これを何年もかけて修行しなきゃいけないのか!? そもそも、何のために!?」
マルデクはため息をついた。
「さっきも説明しただろう? 君がこの世界の魔法を使えないのは、私がここにいるからだ。魔法は、君たちが女神ルミナリアと呼ぶ存在……ダイモン・リゲルによって作られたものだからね」
彼は少し間を置いてから、続けた。
「だが、それだけが理由ではない」
レンは真剣な表情になった。
「俺は、あんたが魔法を封じてるんだと思ってた」
マルデクの顔から笑みが消えた。
「女神ルミナリア……いや、ダイモン・リゲルは、ある特別な理由から、君のオリスをもとに、この世界で君を再構築することができなかったんだ」
レンは唾を飲み込んだ。
マルデクの声には、先ほどまでとは違う重みがあった。
彼はしばらくレンの目を見つめてから、静かに口を開いた。
「君は、ただ魂だけでさまよっている存在ではない。今もなお、地球のダイモンの管轄下にある。つまり……」
マルデクは短い間を置いた。
「君は、まだ生きているんだよ」
レンの目が見開かれた。
一瞬、彼は言われた言葉を理解できなかった。
やがて、呼吸が不規則になっていく。
「お、俺は……」
言葉を発しようとしたが、声が出なかった。
マルデクはレンの様子を見て、静かに言った。
「本当は、もっと多くのことを説明してから伝えたかったんだ。心の準備ができるようにね。だが、もう時間がない。それに……」
そこで彼は言葉を止めた。
レンが、その場に膝をついたからだ。
マルデクは慌てて駆け寄り、彼を支えようとした。
レンは激しく息をしながら、まるで胸を強く殴られたかのように身体を震わせていた。
そして突然、マルデクの服をつかんだ。
「――本当に……本当のことを言ってるんだよな!?」
マルデクは、すぐには答えなかった。
レンは彼の服を離し、両手で頭を抱えた。
白い床に視線を落としたまま、呆然としている。
そのとき、彼の頭の中に新たな映像が流れ込んできた。
「だ、誰だ……この人……?」
マルデクはレンの様子をじっと見つめた。
「少し早すぎたかもしれないね。だが、君がもう一度ここへ来る方法は教えた」
彼はゆっくりと立ち上がった。
「君には、真剣に訓練に取り組むための、本当の理由が必要だと思ったんだ。身体能力を鍛えるだけでなく、精神的な能力も目覚めさせることができる」
マルデクは言葉を切り、レンがそれを受け止めるのを待った。
「それができるようになれば、自分の身体から抜け出し、病院のベッドで昏睡状態にある男を、自分の目で確かめられるようになる」
彼はレンの目を真っすぐに見つめた。
「そこにいるのは、君自身なんだよ。レン」
レンの身体が震え始めた。
唇が小刻みに震え、頭を抱えたまま、目には涙が溜まっていく。
「お、俺は……生きてるのか……? い、生きてる……?」
声が徐々に小さくなっていった。
「俺は……生きてるのか……?」
マルデクは深刻な表情で彼を見つめた。
「レン。生と死という概念は、私たちが住民たちに教えてきたものだ。それは……」
しかし、説明を続けることはできなかった。
レンは同じ言葉を繰り返すばかりで、それ以外のことを考えられなくなっていた。
マルデクは小さく息を吐き、レンの頭にそっと手を置いた。
そして、さらにいくつかの映像を彼に送り込んだ。
やがて、レンの身体の揺れが少しずつ収まっていく。
その目には、再び涙が溢れていた。
「と、トウカ……」
目の前に、一人の少女の姿が浮かび上がった。
「い、妹が……俺と一緒にいる……」
マルデクは頷いた。
「彼女は定期的に君の見舞いに来ているよ」
レンは膝をついたまま、妹の姿を見つめていた。
しばらくの間、何も言うことができなかった。
その様子を見守っていたマルデクは、レンを包み込むエネルギーに変化が生じていることに気づいた。
(オリスが紫色に変わり始めている……)
彼は再びレンの頭に手を置き、慎重に語りかけた。
「もっと近くで、彼女を見たいとは思わないかい? 私に頼らず、自分の目で妹の姿を確かめたいとは思わないか?」
レンは答えなかった。
マルデクは続ける。
「そして、いつか……」
短い沈黙のあと、彼は言った。
「もしかしたら、目を覚ますことだってできるかもしれない」
レンはその場に座り込んだまま、すべてを受け止めようとしていた。
どれほどの時間が過ぎたのか、分からなかった。
ようやく呼吸が落ち着いてきた頃、マルデクはレンを包むエネルギーを確かめ、安堵した。
(よし……オリスが元の状態に戻り始めている。ふう……)
やがて、レンはゆっくりと立ち上がった。
目にはまだ涙が残っていたが、彼は白い空間の向こうを見つめた。
「……俺は、戻れるのか?」
マルデクは驚いたように何度か瞬きをした。
「君の本当の身体は、この世界には存在していない。実際、ここにいるほとんどの者たちも同じだ。ダイモン・リゲルは、魂を閉じ込めるための牢獄を作り上げたんだ。ここでの出来事が現実のように感じられるのは、彼女がそうなるように仕組んだからだよ」
彼は一度言葉を切った。
「だが、前にも説明したとおり、彼女一人の仕業ではない」
レンは自分の手を見つめた。
「じゃあ……この世界のすべてが嘘なのか?」
マルデクはわずかに目を見開いた。
「嘘? どういう意味だい?」
「この世界で出会った人たちだよ……俺が知り合った人たちも、全部……」
その問いには、レン自身の葛藤が滲んでいた。
この世界で出会った人々と、共に過ごした時間。
彼らと力を合わせ、危険に立ち向かい、少しずつ築いてきた関係。
それらすべてが偽物だったのかもしれない。
そう考えると、簡単には受け入れられなかった。
マルデクはため息をついた。
「彼らのほとんどは、すでに亡くなっている。ここにいるのは、その魂だ。君は数少ない例外なんだよ。だから魔法が使えず、オリスを扱う方法を学ばなければならない」
レンは数秒間、黙り込んだ。
そして、再び顔を上げた。
「だったら……俺たち全員がオリスを持ってるんだろ? どうして誰も使い方を知らないんだ? どうして最初から教えてくれなかったんだよ?」
マルデクはかすかに微笑んだ。
「君は、自分の子供が大人になったあとも、ずっと手を握っていてあげるのかい?」
レンは動きを止めた。
その質問を聞いた瞬間、脳裏にぼんやりとした記憶が浮かんだ。
彼はしばらくの間、その言葉がなぜ懐かしく感じられるのか考えた。
マルデクは、レンの思考に浮かんだ映像を感じ取り、優しく微笑んだ。
「どうやら、自分で答えを見つけたようだね」
レンはうつむいた。
「……あ、ありがとう。でも、まだ聞きたいことが山ほどあって……」
「そこまでだ。もう時間切れだよ」
マルデクは片手を上げた。
「これ以上ここにいると、学んだことの半分も忘れてしまう。今すぐ戻らなければ」
「で、でも……!」
「精神の型を習得していけば、いずれここに長く留まれるようになる」
マルデクは微笑んだ。
「それじゃあ、また会おう。レン」
彼は手を伸ばし、レンの額に触れた。
次の瞬間、すべてが消え去った。
レンは、テントの中で勢いよく目を覚ました。
上半身を起こし、額から汗を流しながら、荒い呼吸を繰り返す。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
数秒かけて、ようやく自分がどこにいるのかを理解した。
まだ意識がはっきりしないまま、周囲を見回す。
「な、何だったんだ……今の……?」
彼は手で顔を拭った。
「いや……夢じゃない。絶対に夢なんかじゃない……あれは本当に起きたことだ……」
レンは、かすかに震える自分の両手を見つめた。
それから、隣に視線を移す。
リテラが、彼の隣で眠っていた。寝返りを打ち、身体をわずかに動かしている。
レンは再び横になった。
しかし、頭の中では思考が止まらなかった。
(この世界で、俺は何をすればいい? どうすれば帰れる? 聞きたいことが、まだ山ほどあるのに……)
マルデクの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
答えは、いつか分かる。
だから、焦らずに進むしかない。
レンは拳を握り締めた。
「……俺は、生きてるのか?」
さらに強く、拳を握る。
「でも……この世界での俺の身体は、あまりにも現実的すぎる。もう、何を信じればいいのか分からない……」
彼はテントの天井を見つめた。
「それでも……帰らなきゃ。絶対に、地球に帰るんだ……」
そのとき、握り締めた手に強い圧迫感を覚えた。
レンは眉をひそめる。
(うっ……何だ? 誰かが俺の手を強く握ってるみたいだ……。少し痺れてきたぞ……)
――ホシミ市内の病院。
松田レンは、気管挿管された状態でベッドに横たわり、さまざまな医療機器につながれていた。
全身には数え切れないほどの傷や怪我があり、身体のあちこちが包帯で覆われている。
しかし、片腕だけは、ほとんど傷を負っていなかった。
その腕の手を、誰かが強く握り締めていた。
ベッドの傍らで、女性の声が静寂を破る。
「そ、そんな……。あんなに頑張ってきたのに……お兄ちゃん……」
松田トウカは、兄の手をさらに強く握った。
「絶対に目を覚ましてくれるよね……? 私……お兄ちゃんが必要なの……」
頬を、静かな涙が伝っていく。
トウカはベッドに身をかがめ、こらえきれない悲しみに顔を歪めた。
「お願い……早く目を覚ましてよ……」
声が震えた。
トウカはそのまま、しばらく兄の手を握り続けた。
まるで、手を離さなければ兄が自分のそばにいてくれると信じているかのように。
病室の外では、医師が静かに扉を閉め、廊下に立ち尽くしていた。
彼はうつむき、床を見つめた。
(両親を亡くしたばかりなのに……今度は兄まで失おうとしているのか……)
医師は一瞬、目を閉じた。
(あまり感情移入しすぎるわけにもいかない……)
小さく息を吐き、再び廊下を歩き始めた。
その頃、ホシミ病院の外では、長い赤髪の女性が立ち止まり、特定の窓を見上げていた。
彼女はしばらく黙ったまま、病室のある方向を見つめていた。
(ここは……高校生の頃、お母さんのお見舞いに来た場所だ……)
彼女の視線が横へと移る。
(それに、あそこでアオイに悩みを打ち明けたんだっけ……)
記憶が蘇る。
まだ学生だった頃の自分。
彼女はアオイという高校時代の友人の胸に顔を埋め、声を上げて泣いていた。
あの頃は、どれだけ泣いても涙が止まらなかった。
そんな彼女を慰めてくれたのは、友人の腕の中だけだった。
その記憶も、数秒のうちにゆっくりと薄れていった。
女性は深く息を吸い込んだ。
(そして今度は……トウカを待っている)
そのとき、病院の自動ドアが開いた。
松田トウカが中から姿を現し、肩を落としたまま、力なく出口へと歩いてくる。
赤髪の女性は彼女に近づいた。
「トウカ、弟……じゃなくて、お兄さんの様子はどう?」
トウカは足を止めた。
表情からは感情が抜け落ちたかのようで、視線を床に落としたまま、ゆっくりと首を横に振る。
「まだ……いつ目を覚ますのか分からないって……。もしかしたら、目を覚ますかどうかさえ……分からないみたいです、ミオさん……」
ミオは苦しそうに息を吐いた。
「……トウカ」
何を言えば彼女の心を少しでも軽くできるのか、分からなかった。
トウカは再び歩き始め、駅の方へと向かった。
ミオも数歩遅れてついていき、声をかける。
「何か食べに行こう。私がおごるから」
「い、いえ……今は食欲がなくて……。ありがとうございます、先輩」
「今、一人で考え込んでいたら、余計につらくなるだけだよ。ね、私についてきて」
ミオはそっとトウカの腕を取った。
「いいお店を知ってるんだ。昔、少し考え事をしたいときによく行っていた場所でね……」
トウカは彼女を見上げた。
唇が震え、声は消え入りそうなほど弱々しかった。
「せ、先輩……私、これからどうしたらいいんですか……?」
ミオはわずかに目を見開いた。
トウカの表情が、今にも崩れそうになっていた。
「お、お兄ちゃんが……」
トウカは自分の服をぎゅっと握り締めた。
「お父さんとお母さんが亡くなってから、お兄ちゃんは私のために何でもしてくれたんです……。私たち二人とも苦しかったはずなのに、それでもずっと頑張ってくれて……」
声が途切れた。
トウカは深く息を吸い、どうにか続きを口にしようとした。
「それなのに……お兄ちゃんまで、いなくなっちゃうんですか……?」
唇を強く噛み締め、涙をこらえようとする。
しかし、無理だった。
涙が次々と頬を伝い始めた。
「こ、こんなの……不公平です……。私、お兄ちゃんに何も返せてないのに……。もっと何かしてあげたかった……。もっと、いろんなことを伝えたかったのに……」
呼吸が乱れていく。
トウカはうつむいた。
「わ、私が……代わりになればよかったのに……」
ミオはすぐさま振り返った。
そして、トウカがそれ以上何かを言う前に、彼女を強く抱きしめた。
「大丈夫……大丈夫だよ、トウカ。もう何も言わなくていいから。ね?」
トウカはついにこらえきれなくなった。
ミオの胸に顔を埋め、嗚咽を押し殺しながら泣き始める。
肩を震わせ、まるですがりつかなければその場で崩れ落ちてしまうかのように、先輩の服をぎゅっとつかんだ。
ミオは彼女をしっかりと抱きしめたまま、何も言わずに寄り添った。
今のトウカの苦しみを、簡単に消し去れる言葉などない。
だからこそ、せめて一人にはしないと決めていた。
そんな中、病院の入口に目を向けたミオは、ある人物の姿に気づいた。
金髪の、目を引くほど美しい女性が、ちょうど建物の中へ入っていくところだった。
ミオは数秒間、その後ろ姿を目で追った。
そして、わずかに目を見開く。
考えるより先に、その名前が口からこぼれた。
「……ミサキ?」
その名前を聞いた瞬間、トウカはミオの腕の中から勢いよく顔を上げた。
まだ涙で濡れた顔のまま、周囲を見回す。
「ミサキ!? どこですか!?」
ミオは自分が口を滑らせたことに気づき、慌ててトウカの腕をつかんだ。
「ち、違うの。何でもないから……!」
しかし、もう遅かった。
トウカは病院の入口に目を向け、金髪の女性が建物の中へ消えていく姿を目撃していた。
彼女の目が大きく見開かれる。
その瞬間、悲しみに沈んでいた表情が、別の感情に塗り替えられた。
憎しみだった。
「トウカ、落ち着いて……。ね、ちょっと……」
ミオが止めようとする。
だが、トウカは彼女の手を振りほどき、病院の入口へ向かって全速力で駆け出した。
「トウカ! 待って!」
ミオも慌てて後を追った。
病院の入口にたどり着いた頃には、すっかり息が上がっていた。
「はぁ……はぁ……! ちょっと、待って……! 最近、こんなに走ってなかったんだから……!」
しかし、トウカにはミオの声など聞こえていなかった。
受付の近くでは、ミサキが職員と話をしていた。
トウカは数メートル離れた場所で立ち止まり、拳を握り締めたまま、じっと彼女を見つめる。
目は泣き腫らして赤くなっていた。
それでも、その瞳には激しい怒りが宿っていた。
やがてミサキは受付の職員との会話を終え、挨拶をしてから振り返った。
そこで、目の前に立つ二人に気づく。
ミオはごくりと唾を飲み込んだ。
「トウカ……まずは私に話をさせて」
「嫌です!」
トウカは即座に言い返した。
「私が、本人に直接言いたいことがあるんです!」
ミオは彼女の顔を見つめた。
呼吸すらうまく制御できていないことが、ひと目で分かった。
「今のあなたは、ひどく取り乱してる。お願いだから、少し落ち着いて。後悔するようなことをする前に、ちゃんと考えよう?」
ミサキは困惑した様子で二人を見つめていた。
やがて、赤髪の女性を見て、表情を変える。
「か、神崎……神崎ミオ?」
ミオはぎこちなく微笑んだ。
「あはは……久しぶりだね、ミサキ。五年ぶりくらいかな?」
ミサキはさらに気まずそうな顔になった。
額に一筋の汗が流れる。
「そ、そうね……」
「それで? イタリアでの生活はどう?」
「え、ええ……まあ、元気にやってるわ。それで……」
「**このクソ女!!**」
トウカの怒鳴り声が、病院のロビーに響き渡った。
ミオとミサキは同時にびくりと肩を震わせ、トウカの方を振り返った。
彼女は両拳を固く握り締め、怒りに震えていた。
頬にはまだ涙が流れていたが、視線だけは一瞬たりともミサキから外さなかった。
ミサキは信じられないという表情で、わずかに後ずさった。
「な、何ですって……?」
「この……クソ女! お兄ちゃんに何の用があるの!? もう二度と近づかないで!!」
ミサキの顔から血の気が引いていく。
彼女は改めてトウカの顔を見つめ、ようやく相手が誰なのか理解したようだった。
「……ト、トウカ……?」
ミサキは視線を横にそらし、彼女と目を合わせようとしなかった。
ミオはすぐさま二人の間に割って入った。
「トウカ、お願い。軽率なことはしないで。あなたはもう大人なんだから、感情に任せて行動しちゃ駄目だよ」
「冷静になれって言うんですか!?」
トウカは拳をさらに強く握り締めた。
「こ、こいつのせいで……! こいつのせいで、お兄ちゃんは……!」
声が再び途切れた。
ほんの一瞬、怒りに満ちていた表情が揺らぐ。
その奥に隠されていた、どうしようもない悲しみが顔を覗かせた。
トウカは何かを言おうとした。
しかし、言葉が出てこなかった。
ミサキは数秒間、黙り込んでいた。
そして、何も言わないまま視線をそらすと、大股で出口へ向かって歩き始めた。
「待ちなさいよ!」
トウカは彼女を追いかけようとした。
しかし、ミオが両腕をつかみ、引き止めた。
「もうやめて、トウカ! お願いだから!」
トウカは一瞬、抵抗した。
だが、すぐに力が抜けていった。
荒い呼吸を繰り返しながら、再び目に涙を浮かべる。
ミオは彼女を傷つけないよう気をつけながら、しっかりと支えた。
「私の家に行こう。ね?」
トウカはミサキが消えていった方向を見つめた。
「……お兄ちゃんに、何の用があったんだろう……?」
その声には、深い苦しみと憎しみが滲んでいた。
「わざわざイタリアから帰ってきて……お兄ちゃんを馬鹿にしに来たの……?」
ミオは眉をひそめた。
彼女にも、ミサキがなぜ戻ってきたのかは分からなかった。
ましてや、なぜ病院を訪れたのかなど、知る由もない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
トウカを、これ以上一人で苦しませるわけにはいかない。
「私たちに任せて。ね? ヒナにも連絡して、話をしてみるから」
ミオは少し間を置いてから、続けた。
「アオイはもうすぐ赤ちゃんが生まれるでしょう? 今は余計な心配をかけたくないし、ストレスになるようなことも避けたいから……」
彼女はトウカの腕を優しく撫でた。
「今はとにかく、ここを離れよう。少し休んだ方がいいよ」
トウカはうつむいた。
怒りはまだ消えていなかった。
悲しみも、憎しみも、胸の中で渦巻いている。
それでも、もう言い争いを続けるだけの力は残っていなかった。
「……あ、ありがとうございます、先輩……」
ミオはトウカの肩に腕を回し、病院から離れるように彼女を導いた。
トウカは最後にもう一度だけ、背後を振り返った。
ミサキが戻ってきた。
そして今、この瞬間、彼女の存在そのものが、トウカが必死に耐えてきた心の傷を、さらに深くえぐっていた。




