第50話 エリンドール侵攻
松田蓮たちが野営している頃、エリンドール王国の首都では、不穏な動きが広がり始めていた。
巡回中の屈強な衛兵が、退屈そうな顔で街を歩いていた。すでに酔っ払いを追い払い、商人同士の喧嘩を二度も仲裁し、野菜の値段に対する愚痴まで聞かされていた。
彼にとって、今日の仕事は壁の塗料が乾くのを眺めているのと大差ないほど退屈だった。
そんなとき、挙動不審な一団が目に留まった。
衛兵は足を止め、顎をさすりながら目を細めた。
「うーん……集団で歩き回って、きょろきょろと周囲を気にしている……。何か企んでいるのか、それとも道に迷っているだけか。できれば前者であってほしいな」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、腰の剣帯を整えると、彼らに向かって歩き出した。
「おーい、そこのあんたたち! 王国の衛兵がちょっと話を聞きたいそうだ!」
一団は振り返った。
一瞬、全員がその場に立ち止まり、衛兵をじっと見つめた。
しかし次の瞬間、まるで示し合わせていたかのように一斉に踵を返し、走り出した。
衛兵の笑みが一瞬で消えた。
「おいおい! ちょ、ちょっと待て! 俺をこんな目に遭わせる気か!?」
彼は勢いよく駆け出し、通りを走り抜けながら逃げる一団を追いかけた。
「止まれ! これは命令だぞ!」
そう叫んだものの、その声には威厳よりも興奮のほうがはるかに強くにじんでいた。
逃げる一団はさらに速度を上げた。
「こいつら、なかなかやるじゃないか! やっぱり何か隠してやがったな!」
衛兵は息を切らしながらも、必死に追いすがった。
「まったく、立ったまま居眠りしそうなくらい暇だったっていうのに……。今夜はようやく、まともに働けそうだ!」
息が上がり始めても、彼は追跡をやめなかった。
今日の巡回を、ただの退屈な仕事で終わらせるつもりはなかった。
***
王都の王宮では、国王アルドリックと王妃セルミラが、まだ眠れずにいた。
二人は寝台に並んで横たわり、じっと天井を見つめていた。
「あなたも眠れないの?」
セルミラが少しだけ顔を夫のほうへ向けて尋ねた。
アルドリックはため息をついた。
「ああ、どうにも休まらない。あの兵士たちが我が国に侵入していた件……何かがおかしい。そもそも、なぜアルセリオンの兵士がここにいたんだ?」
セルミラはためらいがちに夫のほうを向いた。
「実は……私の夢のこと、ルシアンに話したの」
アルドリックは即座に顔を向けた。
「何だと!?」
「彼はこの国で最も強い騎士でしょう? これから何が起きるにせよ、あらかじめ心構えをしておいたほうがいいと思ったの」
アルドリックは眉をひそめた。
「だが、セルミラ。それが起こるのは何年も先かもしれないんだぞ! それに、たとえ本当に起こるとしても、お前自身、予知夢にはいくつかの可能性を示しているだけのものもあると言っていただろう!」
「分かっているわ。でも……今回は違ったの。まるで、自分が炎の中に立っているかのように感じたのよ」
アルドリックの表情が険しくなった。
「君……そんなことを言わないでくれ」
セルミラは目を伏せた。
「本当に、何も起こらないでほしいわ」
「アルセリオン王国との協力条約があるからこそ、私は安心していた。だが、向こうの兵士が我が国を探っていたと分かった今、何を信じればいいのか……」
アルドリックは掛け布団を押しのけて起き上がった。
寝室の窓辺まで歩いていき、外の闇を見つめる。
「ドラヴェンホールドは戦争など望んでいない。ましてや、他国の争いに巻き込まれるつもりもない」
セルミラも寝台の上で身を起こし、夫を見つめた。
「今の国王は、エルフの王国からも協力を取りつけたそうね」
「ああ。だが、あの同盟で約束されているのは、どちらかの王国が攻撃された場合に限っての援助だ。それにしても、あの王はどうやってエルフたちを説得したのか……。相手はあのエルフだぞ!」
セルミラは窓辺に立つアルドリックをしばらく見つめていた。
やがて、再び口を開いた。
「昨日も、また夢を見たの」
アルドリックは肩越しに振り返った。
「そうなのか? 今度は何を見た?」
「空を見上げていたら……球体のようなものが見えたの。最初は暗い色をしていたのに、時間が経つにつれて色が変わり、どんどん大きくなっていったわ。それに、どういうわけか、この星の上空にあるようには思えなかったの。まるで、星の外側から眺めているような感覚だった」
アルドリックはゆっくりと振り返った。
「ほ、星の外側から……?」
セルミラはうなずいた。
「あのときの感覚は、今でもはっきり覚えているわ。とても嫌な感じだった。まるで、あらゆる生命が少しずつ消えていくような……そんな感覚だったの」
アルドリックは数秒間、考え込んだ。
「うーむ……これまでのお前の予知夢の中でも、特に奇妙なものだな」
「ええ。怖かったわ」
アルドリックが返事をしようとした、そのときだった。
扉を叩く音が三度、寝室に響いた。
**コン、コン、コン。**
彼は眉をひそめ、セルミラに目を向けた。
王妃も不思議そうな顔をしていた。
「誰だ?」
アルドリックが尋ねたが、返事はなかった。
数秒待ってみても、廊下からは何の物音も聞こえてこない。
彼は扉に向かって二歩ほど進んだ。
「誰かいるのか? 返事をしろ!」
**コン、コン、コン。**
再び三度、扉が叩かれた。
セルミラもゆっくりと寝台から立ち上がった。
アルドリックは扉を見据えたまま、低くつぶやいた。
「こんなことをするのは、久しぶりだな……」
彼は戦闘態勢を取り、右手に魔力を集中させた。凄まじい勢いで魔力が渦巻き、手の周囲に集まっていく。
「名乗らないなら、吹き飛ばしてやるぞ! こう見えても、私はかつてプラチナランクの冒険者だったんだからな!」
しばらくの間、返事はなかった。
やがて、扉の向こうから弱々しい声が聞こえてきた。
「た、助けて……ください……。ヴァンパイアたちから……逃げてきたんです……」
セルミラの目が大きく見開かれた。
アルドリックも驚いた様子だった。
「ヴァンパイアだと? ここをどこだと思っている?」
セルミラは急いで扉へ駆け寄り、勢いよく開けた。
そこには、血まみれの男が倒れていた。
片手を扉に押し当てており、最後に残った力を振り絞って、どうにか助けを求めたようだった。
セルミラは思わず口元を押さえた。
アルドリックは男に近づき、そのそばに膝をついた。
「誰にやられた? どうやってここまでたどり着いたんだ?」
「早く手当てをしないと! このままでは死んでしまうわ!」
セルミラが叫んだ。
アルドリックは周囲を見回し、何かがおかしいことに気づいた。
廊下は不気味なほど静まり返っており、近くには衛兵の姿が一人もなかった。
彼は眉をひそめ、周囲を注意深く見渡した。
*衛兵たちはどこへ行った? 一体、何が起きている?*
不安が募り、アルドリックは声を張り上げた。
「衛兵! 誰かいないのか!」
その声は王宮の一室に響き渡ったが、誰からも返事はなかった。
不気味な沈黙が続いた。
そのとき、廊下の奥から一人の人物が姿を現した。
リナラだった。
「お父様? どうして叫んでいるの?」
アルドリックは娘のほうを振り向いた。
「リナラ、ルシアンを探して、彼と一緒にいなさい! 分かったな!?」
「は、はい、お父様……」
リナラは戸惑いながら答えた。
それから、床に倒れている男へ目を向けた。
「そ、その人は誰なの?」
「いいから、早く行きなさい!」
セルミラが促した。
「わ、分かった!」
リナラは踵を返し、廊下を走っていった。
一方、アルドリックは再び負傷した男に目を向けた。
*まずは命を助ける。その後で、じっくりと話を聞かせてもらおう……*
***
パジャマ姿のリナラは、ルシアンを探して王宮の廊下を走り回っていた。
「ルシアン! 誰かいないの!? 衛兵!」
しかし、誰も返事をしなかった。
いくつもの廊下を駆け抜けても、衛兵の姿は一人も見当たらない。
窓のそばを通りかかったとき、彼女は遠くから立ち上る濃い煙に気づいた。
リナラは足を止めた。
*あの煙……街の中心部から上がっている! 一体、何が起きているの!?*
どうすればいいのか分からず、彼女は階段を駆け下り、別の部屋も探し始めた。
厨房を通り抜け、いくつもの部屋を確認したが、誰一人として見つからなかった。
やがて、リナラは王宮の中庭にたどり着いた。
裸足のまま息を切らし、彼女は信じられないといった様子で周囲を見回した。
「はぁ……はぁ……。ど、どうして誰もいないのよ!?」
彼女は中庭を歩き回りながら、何が起きているのか必死に考えた。
その瞬間、城の外から耳をつんざくような爆発音が響いた。
**ドォォォォン!!**
石の破片が飛び散り、リナラに向かって勢いよく飛んできた。
彼女は目を見開いた。
逃げる時間も、身を隠す場所もない。
*え……?*
リナラは衝撃に備えて、ぎゅっと目を閉じた。
「**プロテクション!**」
すぐそばで声が響いた。
次の瞬間、盾を構えたルシアンが現れた。
彼の体からオーラが広がり、リナラを包み込む。飛び散る石片や瓦礫は、その防御によって彼女に届くことなく弾き返された。
危険が去ると、ルシアンは盾を少し下げ、王女の顔をのぞき込んだ。
「姫様、お怪我はありませんか?」
リナラはゆっくりと目を開けた。
「ル、ルシアン!?」
彼は微笑み、そっと彼女の頭に手を置いた。
「もう何分も前から襲撃を受けています。どうして安全な場所に隠れていないのですか?」
リナラは困惑した表情で彼を見つめた。
「襲撃って……? でも、お父様とお母様は寝室にいるわ! あなたたちは、二人に知らせずに戦っているの!?」
ルシアンは驚いた。
「えっ? どういうことですか? 国王陛下と王妃陛下は、街の中で戦闘の指揮を執っておられます!」
リナラは一歩後ずさった。
「違うわ! 何を言っているの!? 私、たった今二人に会ってきたのよ! それなのに、どうしてあなたがここにいるの!?」
ルシアンの表情がさらに険しくなった。
「陛下たちの様子が少しおかしかったうえに、姫様がどこにいるのか分からないとおっしゃっていたんです。それに、数日前から私は姫様の護衛を任されています。覚えていらっしゃいませんか?」
リナラは、聞かされた話を理解できずに首を横に振った。
「でも……お父様たちが寝室にいるなら、一体誰が戦闘の指揮を執っているの?」
ルシアンはしばらく黙り込んだ。
やがて、盾の柄を強く握りしめた。
「陛下と王妃陛下に会わなければなりません。今すぐです! 一体何が起きているのか、確かめる必要があります!」
リナラは慌ててうなずいた。
「わ、分かったわ! 私が案内する、ルシアン!」
二人はすぐさま王の寝室へ向かい、駆け出した。
***
王の寝室の前では、セルミラが負傷した男のそばに膝をついていた。
彼女は男の腹部に両手をかざし、治癒魔法を発動させた。
「**ヒール。**」
柔らかな光が傷口を包み込み、出血が少しずつ治まっていく。
アルドリックは眉間にしわを寄せながら、その様子を見守っていた。
「これは、どう考えてもおかしい……」
彼は誰もいない廊下を見渡し、再び男へ視線を戻した。
「廊下の奥からここまで続く足跡がない。それに、衛兵も一人もいない。そんな状態で、どうやってここまで来たんだ? その怪我で……」
セルミラは心配そうに夫を見上げた。
「あなた……」
「何かがおかしいんだ、セルミラ」
アルドリックは男から目を離さずに言った。
「この男が話せるようになったら、いったん治癒を止めてくれ」
セルミラはためらった。
「でも……」
「今の状況を考えてみろ。どう考えても不自然だ」
「……そうね。確かに、何もかもがおかしいわ」
治癒魔法が続く中、数秒が過ぎた。
そのとき、男が苦しそうに目を開いた。
「お、お前たちの王国は……ゴホッ……もう、滅茶苦茶だ……」
セルミラとアルドリックは目を見開いた。
アルドリックは男に身を乗り出し、拳を握りしめた。
「何だと? 我が国が滅茶苦茶だと!? 一体何が起きている!? お前は何者だ!?」
男は苦痛に顔をゆがめ、咳き込んだ。
「ゴホッ……ゴホッ……。俺の名前は……エドリック……」
「エドリック……何があったのか、説明しろ!」
セルミラは治癒魔法をいったん止め、真剣な表情で男を見つめた。
「知っていることをすべて話してちょうだい。何が起きているのか、確かめなければならないわ」
***
月明かりが降り注ぐ夜道を、ミハルは馬に乗ってエラリオンへ向かっていた。
白い髪が風にそよぐ中、彼女は周囲の景色を注意深く眺めていた。
そのとき、見慣れない木々が目に留まった。
ミハルは眉をひそめ、馬を進めながらそれらを観察した。
*こんな木、いつからここにあったの?*
さらに数秒ほど馬を走らせたが、その奇妙な発見が頭から離れなかった。
*時々、何かが突然現れることがある……。冒険者をしていた頃にも、こんなことがあったのを覚えている。でも、どうして誰もそのことを疑問に思わないのかしら?*
ミハルは小さく息を吐き、再び前方へ目を向けた。
「松田蓮……」
その名を口にすると、彼女は以前、長年の友人であるテッサの酒場で彼と初めて出会ったときのことを思い出した。
懐かしい記憶に、ミハルの口元にはかすかな笑みが浮かんだ。
しかし、すぐに自分の用事を思い出し、表情を引き締める。
*やることが山ほどあるのに……。あの様子じゃ、彼は一人で何かをこなせるようには見えなかったわね。今回はリシアが居場所をきちんと教えてくれて助かったわ。*
ミハルは軽く手綱を握り直し、月明かりに照らされた道を進んでいった。
***
その頃、酒場ではテッサが椅子に座り、ひとときの休息を取っていた。
赤い髪が肩に流れ落ちる中、彼女は片手に頬を預け、物思いにふけっていた。
静かな店内とは裏腹に、その表情にはわずかな不安がにじんでいた。
*エドリック、早く戻ってきてくれるといいんだけど……。*
テッサは小さくため息をつき、酒場の入口へと視線を向けた。
まるで、今にも兄が帰ってくるのを待ちわびているかのように。




