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第41話 ― ザイラの死

エドリックと小さなワイバーンは、空から勢いよく降下し、クリムゾン・ヴェイルの一員へと迫っていた。


男は顔を上げると、口元を歪めて笑った。


「ハハ……そのワイバーン、まるで子供じゃないか」


男は片手を前へ突き出す。


「ディープ・スラッシュ!」


二つの斬撃が空気を切り裂き、猛烈な勢いでワイバーンへと放たれた。


しかし、エドリックはわずかに笑った。


攻撃がワイバーンに命中する寸前――


エドリックとワイバーンの姿が、突然消えた。


クリムゾン・ヴェイルの男は、困惑した表情で空を見上げる。


口がわずかに開いた。


「な……なんだ、今のは……?」


その直後。


男の背後に、影が現れた。


男は慌てて振り返り、攻撃しようとする。


だが――遅かった。


「ライトニング・ストライク!」


エドリックが男の横に現れ、凄まじい勢いで蹴りを叩き込む。


ドゴォォォォン!


衝撃によって男の身体は数メートル吹き飛び、空中を舞った。


そのまま大木へ激突し、激しい音を立てながら地面へ落下する。


男が立ち上がろうとした、その瞬間。


ワイバーンが目の前に現れ、その鋭い牙を男の腹部へ突き立てた。


一瞬、世界が止まったように感じられた。


男はエドリックを見つめ、それからワイバーンへ視線を移し、最後に自分の傷へと目を向ける。


エドリックはゆっくりと近づいていった。


「名前は?」


そして、少しだけ笑う。


「せめてあの世へ行く前に、名前くらい聞いておきたいんだ。ほら、最後の挨拶ってやつさ」


重傷を負っているにもかかわらず、男は笑った。


「ハハ……お前、なかなか面白い人間だな。俺のことはラヴィオンと呼べ」


エドリックは眉をひそめる。


「……『人間』?」


その瞬間――


ラヴィオンが耳をつんざくような咆哮を上げた。


「グオオオオオオオオオッ!」


身体を覆っていたボロボロの衣服が、完全に引き裂かれる。


ラヴィオンはワイバーンへ向かって猛烈な一撃を叩き込み、その身体を遠くへ吹き飛ばした。


「ザイラ!」


エドリックが叫ぶ。


男は驚いたように眉を上げた。


「ほう……その『ペット』にも名前があるのか?」


エドリックはゆっくりと男の方へ振り返った。


その表情は、先ほどまでとは完全に違っていた。


そして、エドリックは改めて男の顔と身体をはっきりと見た。


「……待て」


鋭く尖った牙。


そして、異様なほど白い肌。


エドリックの目が大きく見開かれる。


「吸血鬼……!?」


一歩、後ろへ下がる。


「本当に……お前たちは吸血鬼なのか!?」


ラヴィオンは深く息を吸い込み、笑みを浮かべた。


「運が尽きたな、人間」


エドリックは目を細める。


強化魔法。


淡いオーラがエドリックの身体を包み込んだ。


筋肉が引き締まり、身体能力が一気に高まっていく。


こいつが近づいてきたら、全力で迎え撃つ……!


エドリックが一度だけ瞬きをした。


――その瞬間。


ラヴィオンの姿が消えた。


「……え?」


次の瞬間、エドリックの視界が激しく横へ弾かれた。


拳が頬を直撃したのだ。


は、速――


ドォォォォン!


「遅い!」


ラヴィオンの声が響く。


「遅すぎるぞ、人間!」


エドリックの身体は数十メートルも吹き飛ばされた。


地面を何度も激しく転がり、ようやく停止する。


「ぐっ……!」


エドリックはゆっくりと身体を起こした。


そして、自分の腕を見る。


何かがおかしい。


「クソ……」


腕を押さえる。


「腕……外されたのか?」


エドリックは深く息を吐いた。


「強化魔法を使っていて、これかよ……」


目を閉じる。


そして、無事な方の手で折れた腕を掴んだ。


痛くない……痛くない……痛くない……!


ゴキッ!


「アアアアアアッ! 痛ってぇぇぇぇ!!」


エドリックは歯を食いしばった。


そのまま服の内ポケットへ手を入れ、小さな瓶を取り出す。


中には緑色の液体が入っていた。


それを見ながら、エドリックは心の中で呟く。


いつも持ち歩いてて本当によかった……上級回復ポーション。


すぐに瓶を開け、エドリックは一気に飲み干した。


ポーションが喉を通った直後――


緑色の光が、しばらくの間エドリックの身体を包み込んだ。


やがて、エドリックは腕をゆっくりと動かし始める。


回してみる。


曲げてみる。


まるで何事もなかったかのように腕が動いた。


エドリックは驚いたように自分の腕を見つめる。


「身体が……かなり楽になった」


顔を上げる。


そこには、笑みを浮かべたラヴィオンが立っていた。


「人間にしては、ずいぶんと頑丈だな……」


ラヴィオンは少しだけ首を傾ける。


「お前、名前は?」


エドリックは笑った。


「俺はエドリックだ」


そして、戦闘態勢を取る。


「でも、俺の名前なんて覚えなくていい」


不敵な笑みを浮かべる。


「お前の葬式を準備するのは、俺だからな。ラヴィオン」


エドリックが突っ込む。


ヒュンッ!


凄まじい速度で、無数の攻撃を吸血鬼へと叩き込んでいく。


攻撃を繰り出しながら、エドリックは問いかけた。


「お前たちは、この国に潜んでいるのか!? ここで何をしている!」


ラヴィオンは、飛んでくる攻撃をいとも簡単にかわしていく。


そして、笑った。


「愚かな人間め」


次の瞬間。


ラヴィオンがエドリックの片足を掴んだ。


「なっ!?」


ラヴィオンは、そのまま思い切り引っ張る。


エドリックの身体が空中で独楽のように回転し始めた。


「うわああああああっ!」


数秒間振り回された後――


ラヴィオンはエドリックを遠くへ放り投げた。


エドリックの身体は空を飛び、大木へ激突する。


ドガァァァァン!


そのまま地面へ落下した。


ラヴィオンはゆっくりとエドリックへ歩み寄る。


「何をしているのか、知りたいんだったな?」


エドリックは顔を上げる。


ラヴィオンは続けた。


「ここは、もともと俺たちの故郷だった」


拳を握りしめる。


「お前たち人間が『エリュンドール王国』と呼んでいるこの場所……それ自体が偽りなんだ」


ラヴィオンは歯を食いしばった。


「五百年前、お前たち人間は俺たちの種族を狩り――」


「拘束魔法陣!」


突然、ラヴィオンの足元に魔法陣が現れた。


「なにっ!?」


ラヴィオンは動こうとする。


だが――


「身体が……動かせない!?」


エドリックはふらつきながら、ゆっくりと立ち上がった。


「ルミは攻撃魔法のことになると、ちょっと過小評価されてたけどな……」


エドリックは笑う。


「罠魔法に関しては、とんでもなく凄かった」


そして、魔法陣を指差す。


「いくつか教えてもらったんだ」


エドリックは肩をすくめる。


「本当なら、もう少し話を聞きたいところだけど……お前、どうせ力ずくで抜け出すだろ?」


ラヴィオンは、こちらへ近づいてくるワイバーンへ視線を向けた。


そして、必死に身体を前へ動かそうとする。


「このクソ人間が!」


顔に浮かぶ血管が大きく隆起する。


「殺してやる! お前の血を全部吸い尽くして――」


「その時間があるなら、自分が傷つけてきた村のことでも考えてろ」


エドリックが遮る。


それでもラヴィオンは必死に身体を動かし続けた。


少しずつ。


ほんのわずかずつだが、足が動き始める。


エドリックは目を細めた。


「……ああ、もう。出させるかよ」


そしてワイバーンへ向かって指を差す。


「ザイラ、あいつはお前に任せた!」


ワイバーンが一気に飛びかかる。


ラヴィオンの目が見開かれた。


「待て!」


ワイバーンは大きく口を開く。


そして、その巨大な顎で吸血鬼の頭部をほとんど丸ごと包み込んだ。


エドリックはため息をついた。


「ったく……ザイラには、変なものを食べるなって言ったばかりなのに……」


そして、ラヴィオンを見る。


「……でも、お前は強すぎるんだよ」


エドリックは深く息を吐いた。


「じゃあな」


ワイバーンが勢いよく引き裂く。


バキィィィィン!


ラヴィオンの頭部が、身体から引きちぎられた。


身体はそのまま数秒間、魔法陣の中で直立したまま動かなかった。


エドリックは片手を上げる。


「解除……」


魔法陣が消滅する。


同時に、エドリックはその場に膝をついた。


「はぁ……はぁ……」


荒い息を繰り返す。


「死ぬかと思った……」


エドリックは胸に手を当てた。


「まだ、ルミみたいに魔力を効率よく使えない……」


そして、自分の身体を見下ろす。


「それにザイラまで召喚したから、もうヘトヘトだ……」


そのまま地面に座り込む。


そして、吸血鬼の死体へ視線を向けた。


「……これ、メッセンジャーに持っていったらどうだ?」


少し考える。


「こういう死体って……高く買い取ってくれるのかな?」


エドリックは空を見上げた。


その奥では、ワイバーンがまだ吸血鬼の頭部を噛み砕いていた。


エドリックはため息をつく。


「……もういいだろ」


そしてワイバーンを見る。


「帰っていいぞ、ザイラ。手伝ってくれて、本当にありがとう」


ワイバーンの身体が、ゆっくりと消え始める。


――しかし。


完全に消える直前。


ワイバーンが突然、戦闘態勢へと入った。


エドリックは眉をひそめる。


「……どうした?」


ワイバーンは、エドリックの背後にある何かを見つめている。


エドリックもゆっくりと振り返った。


そして、息を呑む。


「……悪魔?」


さらに、その隣にいるもう一人の姿に気づく。


「それに……吸血鬼?」


悪魔のような姿をした男が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


その隣には、赤い瞳を持つ吸血鬼――リオレンがいた。


リオレンはしばらくの間、その場に立ったまま地面に転がる死体を興味深そうに見つめていた。


「……おかしいな」


何かを感じ取ろうとするように、少し間を置く。


「確かに……何かを感じたはずなんだが……」


そして、死体へ視線を戻す。


「この身体……」


一方、ドラヴィオンはエドリックへ視線を移し、頭の先から足元まで観察した。


「ふむ……人間か」


そして、首を傾ける。


「ところで、お前は誰か見なかったか? 俺の隣にいるこいつみたいに、全身を覆っている奴を」


エドリックは何も答えなかった。


警戒しながら、二人をじっと見つめる。


悪魔はエドリックの前で足を止めた。


「それにしても……お前、ここで何をしている? ずいぶん疲れているようだが」


その時、リオレンが首を切断された死体へ目を向けた。


目が大きく見開かれる。


「お、お前……」


そして、エドリックを睨みつける。


「お前が……ラヴィオンを殺したのか?」


エドリックは両手を上げた。


「いや……俺が殺さなかったら、あいつに殺されてたからな」


そして、死体を指差す。


「こいつ、お前の仲間だったのか?」


吸血鬼は視線を落とした。


「ラヴィオン……」


そして、歯を食いしばる。


「お前は俺たちの中で一番弱かっただろう」


拳を握る。


「なのに、どうしてこんな無茶をした……?」


エドリックの身体が完全に固まった。


……一番弱い?


ゆっくりと、二人へ視線を向ける。


じゃあ……こいつら以外にも吸血鬼がいるのか?


一体、何が起きてるんだ……?


そう考えた、その瞬間――


ドゴォォォォン!


凄まじい蹴りがエドリックの腹部を直撃した。


「がはっ……!」


血を吐きながら、エドリックの身体が後方へ吹き飛ぶ。


吸血鬼は蔑むような目でエドリックを見下ろした。


「お前なんか、俺たちの夕食にもならない」


牙を見せる。


「その身体は、虫の餌にでもしておけ」


ドラヴィオンが笑い始めた。


「おいおい、民を解放する前に楽しむつもりか? ハハッ、面白いな」


エドリックは何とか立ち上がろうとする。


……何が面白いんだよ……。


そして、ワイバーンへ視線を向ける。


もしかしたら、ザイラなら――


その瞬間。


ザシュゥゥゥゥッ!


肉が引き裂かれる、おぞましい音が辺りに響いた。


エドリックの目が大きく見開かれる。


吸血鬼がワイバーンを掴んでいた。


そして――


その身体を、上から下まで一気に引き裂いた。


「――ザイラァァァァァッ!!」


エドリックが絶叫する。


ワイバーンの身体が地面へ落下した。


ドサッ!


エドリックは数秒間、呆然としたまま倒れたザイラを見つめていた。


やがて、ゆっくりとリオレンへ視線を向ける。


その表情から、先ほどまでの余裕が完全に消えていた。


「……お前……マジで終わったな」


リオレンは目を細め、苛立った声で叫ぶ。


「黙れ、人間!」


「ラヴィオンは、あんな瀕死の化け物に食い殺された……」


吸血鬼はエドリックを睨みつける。


その瞳には、明確な殺意が宿っていた。


「お前も殺してやる……人間!」


エドリックは横向きに倒れたまま、身体を動かそうとする。


しかし、ほとんど力が入らない。


……もう、どうしようもない……


エドリックはゆっくりと目を閉じた。


……テッサ……ごめん……。


吸血鬼がエドリックへ向かって歩き始める。


テッサの酒場 ― ドレイヴンホールド


その頃。


テッサは酒場のカウンターに立ったまま、ミハルと素早く会話を交わしながら仕事を続けていた。


「だから、行けないって言ったでしょ。私にできるのは、せいぜいメッセンジャーの依頼をいくつかこなすくらい。それだけよ」


ミハルはテーブルに肘をつき、なおも食い下がる。


「たまには例外でもいいんじゃない?」


「ミハル、一人で行けばいいじゃない」


「まあ……一応、誘ったからね」


ミハルは苦笑する。


「それに、もう何年もあなたが『冒険に行きたい』って愚痴ってるのを聞いてるんだけど?」


テッサはため息をついた。


「……分かってるわ。私だって行きたい。でも、無理なのよ」


そして少し考えてから続ける。


「それに、もしマツダ・レンがここに来たら、あなたに知らせることくらいはできるわ」


ミハルは眉をひそめる。


「どうやって?」


「リシアと知り合いなの。あの子、テレパシーの魔法が使えるから」


ミハルは意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「あら……それじゃあ、結局ライオンズギルドには顔を出すことになるんじゃない? ふふっ」


テッサは視線を逸らした。


「そ、それは……必要なら……」


そして、もう一度ため息をつく。


「本当は私も行きたい。でも、酒場を閉めるわけにはいかないでしょ。それに、ここを他の人に任せるのも嫌なの」


少し寂しそうに笑う。


「私とエドリックで、お互いに約束したことだから」


ミハルは片手で頬杖をつきながら笑った。


「そう。へえ……エドリック、ねぇ」


カウンターの向こうでテッサが答える。


「そうよ。今、依頼に出てるの」


ミハルは少し驚いたような顔をした。


「まさか、あの子がこんなに責任感のある人になるなんてね」


テッサは小さく笑う。


「ふふ……昔から責任感はあったわよ」


「でも、髪を白く染めてから少し変わったのかもね」


ミハルは首を傾げる。


「……あれ、もしかしてカツラ?」


「さあね」


テッサは肩をすくめる。


「ただ、本人は『あなたと結婚したら元の色に戻す』って言ってたわよ」


ミハルは小さく笑った。


「ふふっ……ああ。ごめんね。もしかしたら、それは私のせいかも」


テッサの手が止まった。


「……どういう意味?」


「別に、エドリックが勝手にやっただけじゃない」


ミハルは少し頭を掻き、気まずそうな表情を浮かべる。


「もう何年も前の話だけど……分かった。話すわ」


皿を洗っていたテッサの手が、ぴたりと止まる。


ミハルは一度深呼吸した。


「私が十五歳の頃、エドリックに告白されたの」


テッサの目がわずかに見開かれる。


「え……あなた……そんなこと言われたの?」


「うん」


ミハルは少し困ったように笑った。


「でも私は、『自分の一族の人としか付き合わない』って答えたの」


テッサは驚いた表情のまま、ミハルを見る。


「そ、それで……?」


「その時のエドリック、今にも泣きそうな顔をしてた」


ミハルは当時を思い出しながら、小さく笑った。


「だから私はこう言ったの」


そして少し恥ずかしそうに続ける。


「『まあ、それは一つの選択肢ね。もう一つは……その……自分に正直で、ちゃんと自分の人生を生きている人かな』って」


ミハルは恥ずかしそうに顔へ手を当てた。


「でも、あの子がそこまで真剣に受け止めるなんて思わなかった」


少し間を置く。


「最近のエドリックなんて、この酒場のためにずっと働いてるみたいで……」


そこで言葉が止まった。


ミハルの視線が、テッサの顔へ向く。


頬を、一筋の涙がゆっくりと伝っていた。


「……テッサ?」


ミハルは目を見開く。


そして、両手をテーブルにつきながら勢いよく立ち上がった。


「テッサ! どうしたの!?」


テッサは慌てて首を振り、涙を拭う。


「えっ……? な、なんでもないわ」


深く息を吸い、なんとか平静を取り戻そうとする。


「ただ……そ、その話……初めて聞いたから……」


ミハルはしばらく黙っていた。


「……ちょっと恥ずかしい話だけど。本当にごめんね」


少し俯く。


「私はあの子の気持ちを受け入れられなかった。でも……幼かったエドリックを傷つけたくもなかったの」


テッサは涙を浮かべながら、小さく笑った。


「じゃあ……エドリックが十二歳の時に告白したってこと? ふふ……本当にあの子ったら」


ミハルは立ち上がり、カウンターへ銀貨を二枚置いた。


「はい。食事代、銀貨二枚ね。ありがとう」


そして酒場の出口へ向かう。


「じゃあ、私は行くわ。マツダ・レンを探さないと」


テッサは頷く。


「気をつけて、ミハル」


そして続けた。


「レンとその仲間たちは、この酒場の大事なお客さんだから。でも、まずはライオンズギルドで聞いてみて」


「分かった、分かった。そうする」


ミハルは振り返る。


「それから、エドリックが帰ってきたら――」


カランッ!


木製のコップが床へ落ちた。


ミハルはすぐにテッサを見る。


「今の音……何?」


テッサは床に落ちたコップへ目を向け、慌てて答えた。


「えっ!? あ、ああ……なんでもないわ。大丈夫。ほら、行って」


ミハルはまだ不審そうな顔をしていたが、やがて頷いた。


「じゃあ、またね」


「ええ。また」


ミハルは酒場を後にした。


テッサはカウンターの内側に残ったまま、黙って俯いていた。


その表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。


テッサはしばらく動かなかった。


……なに、この嫌な感じ……?


彼女は酒場の扉へ目を向ける。


そういえば……エドリック、今回の依頼……遅くない?


それから数分後。


ライオンズギルドのマスターが、テッサの酒場へ入ってきた。


「やあ、テッサ!」


テッサが振り返る。


「レ、レオン?」


レオンは笑顔を浮かべた。


「ああ。今日は一人じゃないぞ」


そのすぐ後ろから、ダルガンが姿を現した。


「失礼します」


ダルガンが中へ入ろうとした、その時。


後ろからシルヴァラが顔を出す。


「レディーファーストよ、でかいの」


ダルガンはため息をつき、彼女を見る。


「いつからお前がレディになった?」


シルヴァラの額に青筋が浮かぶ。


顔が怒りで赤くなる。


「なっ……! 今なんて言った!?」


ダルガンは完全に無視して、空いているテーブルへ向かった。


「失礼、お嬢さん……」


そして席に座る。


テッサは少し戸惑いながら二人を見る。


「こ、こんにちは……。いらっしゃいませ」


シルヴァラはまだ怒っていたが、テッサには普通に挨拶した。


「こんにちは、テッサ」


テッサはレオンへ視線を向ける。


「ところで、その二人は?」


「ああ。こっちはダルガン、それからシルヴァラ」


レオンは二人を紹介する。


「二人とも、今のライオンズギルドに所属するダイヤモンド級冒険者だ」


テッサは少し驚いた。


「あら……今の二人が?」


ダルガンが眉を上げる。


「……『今の』?」


レオンはすぐに話を遮った。


「まあまあ。それよりテッサ、店のおすすめを頼むよ」


「分かったわ!」


テッサはすぐに厨房へ向かった。


ダルガンはシルヴァラを見て、挑発するように笑う。


「ほらな、シルヴァラ。テッサはちゃんとレディじゃないか」


パァン!


シルヴァラはダルガンの頬を思い切り平手打ちした。


「いい加減にしろ、お前ら!」


レオンが怒鳴る。


シルヴァラは腕を組み、そっぽを向いた。


「ふんっ!」


数分後。


テッサが厨房から戻ってきた。


両手には、湯気の立つ三皿の料理。


酒場いっぱいに、狩人風ビーフシチューの香りが広がる。


テッサは料理を丁寧にテーブルへ置いていく。


レオンの前に一皿。


シルヴァラの前に一皿。


そして最後に、ダルガンの前へ一皿。


「お待たせ。今日のおすすめよ。どうぞ召し上がれ」


シルヴァラは食べ始めた。


しかし、すぐにダルガンの皿へ視線を向ける。


「ちょっと、これじゃダルガンには全然足りないでしょ!」


皿の大きさを見ながら言う。


「こんなに小さいんだから!」


テッサは笑った。


「足りなかったら追加で頼んでいいわよ。ただし、その分はちゃんと追加料金を払ってね」


レオンは料理を見ながら笑う。


「おお……美味しそうだな」


テッサはレオンの肩へ手を置く。


「一粒でも残したら……料金、三倍にするからね」


レオンは少し引きつった笑顔を浮かべながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。


テッサはそのままカウンターへ戻っていく。


シルヴァラは眉をひそめた。


「……客に対して、それが言い方なの?」


立ち上がろうとした瞬間。


レオンが彼女の腕を掴んだ。


「シルヴァラ、座ってろ」


「でも……」


レオンは首を横に振る。


「彼女はただの酒場の店主に見えるかもしれない」


そしてテッサを見る。


「だが、昔は俺と同じ、マスター級冒険者だった」


ダルガンの目が大きく見開かれる。


「えっ……本当ですか?」


レオンは頷いた。


「本当だ」


そして続ける。


「彼女の弟、エドリックもダイヤモンド級まで上り詰めた。お前たち二人と同じだ」


シルヴァラも驚いた表情を浮かべる。


「じゃあ……どうして彼女はここに?」


レオンはテッサへ目を向ける。


彼女は他の客へ笑顔で料理を運んでいた。


「冒険者としての人生に疲れたんだろうな」


レオンは静かに答える。


「それで引退して、弟と一緒に暮らすことを選んだ。少なくとも、俺が聞いた話ではそういうことらしい」


レオンは小さく笑った。


「二人とも幸せそうだよ」


そして、テッサへ視線を戻す。


「……特に、テッサはな」


少し間を置く。


「彼女は昔、こう呼ばれていた」


レオンの表情が少しだけ真剣になる。


「**『槍の悪魔』**と」


シルヴァラの目が大きく見開かれる。


「で、でも……彼女、悪魔じゃないわよね?」


レオンは小さく笑った。


「ハハハ。みんな最初はそう聞いたよ」


そして、もう一度テッサを見る。


「だがな……」


その声が少し低くなる。


「本物の悪魔たちでさえ、彼女を恐れていた」


「特に……彼女が怒った時はな」


ダルガンは感心したようにテッサを見る。


「へえ……美人で、しかも恐ろしいってわけか。まるで――」


「お前たちには、分からないだろう」


レオンが静かに言葉を遮った。


「そして……できれば、一生分からないままでいてほしい」


シルヴァラとダルガンは黙り込んだ。


レオンは腕を組む。


「彼女が本気で怒り狂った時……味方ですら攻撃対象になることがある」


二人は息を呑む。


「彼女の攻撃は、周囲のものをすべて破壊する」


そして、レオンはさらに続けた。


「それだけじゃない。彼女が魔法を使おうとしなくても……周囲には炎の魔力が自然と集まり始める」


レオンは小さく息を吐いた。


「……本当に、凄いものだよ」


しかし、その表情から笑みが消える。


「だが……同時に……」


レオンは再びテッサへ視線を向けた。


「恐ろしい。」

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