第34話 ― 松田蓮の虚無
一行は、ドレイヴンホールド王国の首都――ドレイヴェンフォールへ向かっていた。
レンたちは古びた馬車に乗り、ミコネコが街道を進みながら馬を操っている。
ガリックは遠くの地平線を見つめながら口を開いた。
「このペースなら、そう時間はかからずに着くだろう」
ミコネコは前方を見つめたまま、目を細める。
「……もう何か見えてもおかしくないんだけど」
「まだ先なんじゃないか?」
ガリックが答える。
するとミコネコは、ちらりと馬車を振り返った。
「宿屋の主人は、この馬車は古いって言ってたけど……そこまで古くは見えないわね」
ガリックはわずかに眉をひそめる。
「気になるのか?」
「そういうわけじゃない。ただ……ちょっと変だと思ったの。あの主人、怪しい感じはしなかったけど……それでも、なんとなくね」
ガリックは肩をすくめた。
「まあ、ちゃんと街道を走れてるんだ。今はそれでいいだろ?」
ミコネコは答えなかった。
ただ黙ったまま、前方の地平線を見つめ続けていた。
そんな彼女の様子を見て、ガリックも前方の道を警戒するようになった。
時折、馬車の周囲にも視線を走らせる。
馬車の中では、ミレリアが後部座席に横たわっていた。
腕はまだ固定されたままだ。
その近くには、レン、ライセラ、そしてリセラが座っている。
レンは小さく息を吐いた。
「早く着いてくれるといいんだけどな」
リセラは一度目を閉じた。
「……近くに誰かいる気配はないわ」
ライセラが興味深そうに彼女を見る。
「そういうことも分かるの?」
「身につけるのに時間がかかったけどね」
「へぇ……。そういえば、さっきのことだけど……あれ、冗談だったんでしょ?」
リセラが目を開く。
「さっきのこと?」
「レンとあなたが婚約者だって言ってたこと」
レンは目を閉じ、ため息をついた。
「だから、あれは魔王を騙すためだっただけだって。そうだろ、リセラ?」
馬車の中に、気まずい沈黙が流れた。
レンは目を開く。
「……だよな、リセラ? そう言ってく――」
そこで言葉が止まった。
リセラはじっとしていた。
腕と脚を組み、横目でレンをちらちらと見ている。
レンは困惑した。
「リ、リセラ……?」
彼女は引きつった笑みを浮かべる。
「あはは……そうね……。わ、私、魔族の国の王女リセラが、あなたがそんな遠い夢を見ることくらいは……ゆ、許してあげるわ……松田蓮」
全員が黙り込んだ。
するとライセラが勢いよく立ち上がった。
「えっ!? あ、あなた、レンのことが好きなの!?」
リセラの顔が真っ赤になる。
「ち、違っ……! い、今はそんな話をしてる場合じゃないでしょ! こ、ここには治療が必要な人がいるんだから!」
「で、でも……二人って……」
その時だった。
低い笑い声が会話を遮った。
「……は、はは……」
二人がレンを見る。
レンは細めた目でミレリアを見つめていた。
「もうやめろよ。誰も負け犬なんか好きにならない」
ライセラとリセラの目が大きく見開かれる。
数秒間、誰も何も言わなかった。
そして――
ドゴォォォォォン!!
凄まじい轟音が周囲に響き渡った。
「な、何!?」
ライセラが叫ぶ。
馬たちが激しくいななき、馬車全体が大きく揺れる。
バキィィィッ!!
地面が大きく割れ始めた。
車体が勢いよく横へ傾く。
「ミレリアを押さえろ!」
レンが叫んだ。
リセラはミレリアの上半身を抱え、レンはその脚を支える。
その瞬間――
ヒュッ!
何かがライセラを馬車の外へ引きずり出した。
「ライセラ!?」
外から、剣と剣がぶつかり合う音が響く。
キィン! キィン!
「何が起きてるの!?」
リセラが叫ぶ。
レンは立ち上がった。
「ミレリアを頼む。いいな、リセラ?」
「分かった! 任せて!」
レンは馬車の外へ飛び出した。
そして周囲を見渡した瞬間――
言葉を失った。
ガリック、ミコネコ、そしてライセラが、アルテリオン・ドレンと戦っていた。
ドレンの身体は、強烈な白い光に包まれている。
その両目までもが白く輝いていた。
レンは驚愕する。
「な、なんで……!? なんでこいつがここにいるんだ!?」
ミコネコが前へ飛び出した。
「交差爪!」
彼女の爪が一気に伸び、十センチほどの鋭い刃へと変化する。
ミコネコは凄まじい速度でドレンの周囲を駆け回り、四方八方から連続して攻撃を繰り出した。
ガリックもナイフを抜く。
「蒼刃!」
武器が強烈な青いエネルギーを纏い始める。
ガリックはナイフを見つめた。
俺の剣とは違うが……あれは壊れちまったんだ。今はこれでやるしかない
そしてナイフを高く振り上げ、全力で地面へ叩きつける。
「大地衝撃!」
ドゴォォォン!!
ドレンの周囲の地面が大きく裂けた。
その衝撃で王の身体がぐらつき、先ほど自ら作り出した巨大な亀裂へ落ちていく。
しかし――
シュバァァッ!
ドレンの背中から、二つの白く輝く物体が現れた。
ドレンは空中へ浮かび上がり、数秒間その場に滞空したあと、静かに地面へ降り立つ。
「女神ルミナリアが、こんな冒涜者の行いを許すはずがない!」
ミコネコが目を丸くする。
「こいつ……空まで飛べるの!?」
ドレンは視線を上げた。
「ミレリアを渡せ」
その声は冷たかった。
「彼女には、まだ罰を受けてもらわなければならない」
その瞬間――
レンがドレンの背後に現れた。
拳には、凄まじい力が込められている。
「爆裂インパクトォォォ!!」
ドゴォォォォォン!!
拳がドレンを真正面から捉える。
二人を中心に巨大な衝撃波が炸裂した。
しかし――
ドレンは、まったく同じ場所に立っていた。
レンの目が見開かれる。
「……は?」
ドレンは何事もなかったかのように脚を振り上げ、レンを蹴り飛ばした。
バァン!!
レンの身体が吹き飛び、木へ激突する。
ドレンはレンを見下ろした。
「もう同じ幸運が起こるとは思うな。貴様は確かに妙な存在だ。だが、私は貴様を相手にしに来たわけではない」
ライセラが二本の短剣を投げつける。
「迷彩!」
彼女の姿が周囲の景色へ溶け込むように消えた。
少なくとも、脚には防御がないみたい……
ドレンが飛んでくる短剣をかわしている隙に、ライセラが下から姿を現し、彼を刺そうとする。
だが――
ドレンは二つの光を広げ、そのまま彼女の頭上を飛び越えた。
「……単純すぎるな」
ミコネコが跳躍し、空中のドレンへ攻撃を仕掛ける。
ドレンは首をわずかに傾けるだけで、その攻撃をかわした。
そして身体を回転させ――
ミコネコの腹部へ強烈な蹴りを叩き込む。
バァン!!
ミコネコは地面へ叩き落とされ、そのままガリックを巻き込んだ。
「ぐっ!」
ライセラは歯を食いしばった。
「……もう、他に方法はないかもしれない」
「サン――」
ドガァァァン!!
その瞬間、大きな木がドレンめがけて吹き飛んできた。
ドレンは剣を抜き、いとも簡単にその幹を真っ二つに斬り裂いた。
そして、前方を見る。
そこにはレンが立っていた。
荒い呼吸を繰り返している。
両手は土で汚れていた。
そしてその身体の周囲には、かすかな青いオーラが浮かび始めていた。
ドレンは侮蔑の眼差しでレンを見つめる。
「……そんなはずはない」
その表情が、完全に変わった。
「女神ルミナリアは私を選んだ! あの方と共に歩む道を進めるのは、この私だけだ!」
ドレンは剣をレンへ向ける。
「刃の嵐!」
無数の魔力の刃がレンへ向かって放たれる。
レンはそのいくつかをかわした。
だが――
一本の刃が胸を貫いた。
「ぐっ……!」
レンは膝をつく。
「レン!!」
ライセラが叫んだ。
ドレンは、レンの身体を包む青いオーラを注意深く観察していた。
「そのオーラが何なのかは分からん……。だが、近くで見れば見るほど、女神ルミナリアのものに似ている……」
ドレンは目を細める。
「だが、同時に……何かが違う」
そして問いかけた。
「貴様は……一体何者だ?」
レンは苦しそうに息を吐く。
今のはヤバかった……クソッ。ミレリアを狙ってここまで来たってのに……。こいつ、本気で俺たち全員を殺すつもりだ
その時、ドレンが何かに気づいた。
空に雲が集まり始めていた。
ドレンは上を見上げる。
時空系の魔法……? 一体、誰が……?
そして再び戦場へ視線を戻した。
ミコネコが立ち上がっている。
その目は――先ほどまでとは完全に違っていた。
彼女は魔法の詠唱を始める。
身体を低く屈める。
そして――
皮膚から毛が生え始めた。
身体の形そのものが変化していく。
ミコネコは四つん這いになり、その身体から荒々しいオーラが噴き出した。
「獣化!」
ドレンはそれを見て、侮蔑するように笑った。
「ほう……多種族が持つ特異能力の一つか」
そして笑みを浮かべる。
「ならば、そのまま自分たちが本来あるべき姿に戻ればいい……獣にな。所詮、お前たちはそれだけの存在だ」
ミコネコは完全に四足歩行の姿へ変わっていた。
全身の毛が逆立っている。
身体の周囲を取り巻く振動は、さらに激しさを増していく。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「ここまで来たこと……その代償がどんなものか、ちゃんと分かってるんでしょうね?」
ドレンが眉をひそめる。
「何を――」
その瞬間。
ヒュンッ!!
ミコネコが凄まじい速度でドレンの横を駆け抜けた。
そして、言葉を言い終えるよりも早く――
その手がドレンの顔面を掴む。
強烈な力で握り締める。
「ここから出ていけ!!」
ドゴォォォォォン!!
ミコネコはドレンを遠くへ投げ飛ばした。
ドレンの身体は一本の木を突き破る。
そのまま二本目。
三本目。
さらにその先へ――。
何十本もの木々が次々と薙ぎ倒され、ドレンの身体は森の奥へと吹き飛ばされていく。
ミコネコはすぐさま彼を追った。
やがて地面に倒れているドレンを見つけると、両手を前へ伸ばす。
「月影の剣!」
すると、身体から大量の毛が抜け落ちる。
しかし、すぐに新しい毛が生え始める。
宙へ舞った毛が集まり、形を変えていく。
やがて――
一本の細く輝く剣へと姿を変えた。
ミコネコはその剣を握る。
「月影斬!」
一閃。
巨大なエネルギーの波がドレンへ向かって放たれる。
BOOOOOOOOOOM!!
凄まじい衝撃とともに、大爆発が起こった。
大地全体が激しく揺れる。
空気までもが歪んで見えた。
遠くから、レンとライセラがその光景を見つめていた。
「……今の、ミコネコがやったのか?」
レンが呟く。
すると、リセラが馬車から顔を出した。
「ミコネコって……本当に強いのね……」
その瞬間――
ドゴォォォォォン!!
二度目の爆発が起こった。
先ほどよりもさらに巨大で、真っ白な光がその場を包み込む。
全員が巨大なエネルギーの雲を見つめていた。
すると突然――
何かがこちらへ吹き飛んできた。
レンは目を疑った。
「あれは……ミコネコ!?」
考えるより先に、レンは走り出した。
胸から血を流しながら、ふらつく身体を必死に動かす。
そして彼女が落下してくる軌道へ飛び込んだ。
ドサッ!
レンはミコネコを両腕で受け止め、そのまま地面へ倒れ込むことで衝撃を和らげた。
ガリックは荒い息を吐きながら立ち上がる。
「やれなかったのか!? 俺はまだ完全には回復してないっていうのに……クソッ!」
全員が前方を見る。
煙の中から――
アルテリオン・ドレンがゆっくりと歩いてくる。
その身体は、依然として白い光に包まれていた。
「……もう遊びは終わりだ」
ドレンが片手を上げる。
「神罰」
空の雲が激しく渦を巻き始める。
まるで天そのものが裂けていくようだった。
そして雲の間に――
巨大で、目を焼くほど眩いエネルギーが集まり始める。
ゴゴゴゴゴ……
バリィィィィン!!
眩い光の塊が、一直線に一行へと落下してくる。
レンは空を見上げた。
「なんだ……あれ!?」
リセラが叫ぶ。
「散って!!」
BOOOOOOOOOOM!!
凄まじい衝撃が大地を完全に吹き飛ばした。
数メートルどころか、その周囲一帯が崩壊する。
巨大なクレーターが生まれた。
レンの身体も地面へ叩きつけられた。
そして血を吐きながら、さらに下へ落ちていく。
クソ……身体が重い……。血を失いすぎてる……。俺、このまま死――
バキィィッ!!
落下の途中で、レンの頭が岩へ激突した。
強烈な衝撃。
意識が完全に途切れる。
そのままレンの身体は地面を転がり続けた。
視界が徐々に暗くなっていく。
そして――
すべてが闇に包まれた。
◆
レンは目を開いた。
テーブルの前に座っていた。
目の前には――
母親、父親、そして妹のトウカがいる。
母親が尋ねた。
「今日の学校はどうだった?」
トウカが嬉しそうに答える。
「私は今日のテスト、結構できたよ」
レンは黙ってトウカを見つめた。
何かがおかしい。
その瞬間――
一つの記憶が頭の中に浮かび上がった。
トウカ……若い……
そうだ。俺はこれを覚えてる。まだ高校生だった頃だ……
母親が再びレンへ視線を向ける。
「それで、レンはどうだったの?」
レンはしばらく黙っていた。
父親が眉をひそめる。
「どうした、レン。またテストで悪い点でも取ったのか?」
レンは二人を見つめ続ける。
唇が震え始める。
「兄ちゃん?」
レンは目を閉じた。
「か、母さん……父さん……トウカ……」
三人がレンを見る。
父親がため息をついた。
「なんだ、また数学がダメだったのか?」
母親が首を振る。
「もうゲームばかりしていられる歳じゃないでしょう、レン。本当にもう……」
トウカは一度食事へ視線を落とした。
そして再びレンを見る。
「兄ちゃん……どうしたの?」
両親もレンを見つめる。
レンは俯いていた。
目を強く閉じている。
「レン?」
その瞬間――
レンの頬を涙が伝った。
両手は強く握り締められている。
「会いたかった……ずっと……みんなに……もう一度……」
声が震える。
「こうやってみんなの顔を見てるだけで……また家に帰ってきたみたいで……」
「ぐすっ……」
トウカがレンの腕に手を添える。
「兄ちゃん……? どうしたの? 大丈夫?」
レンは目を開き、トウカを見る。
すると――
すべてが変わった。
レンは別の場所に立っていた。
目を見開きながら、周囲を見回す。
「こ、ここは……どこだ?」
声が震える。
目の前には、商業施設があった。
そしてトウカは、まだレンの腕に手を添えている。
レンは彼女を見る。
「トウカ……お前……大人になってる?」
トウカは頬を膨らませ、明らかに不機嫌そうな顔をした。
「大人って何よ! お兄ちゃんのほうが年上でしょ!」
「ご、ごめん。そういう意味じゃないんだ。ただ……ここも覚えてる気がする」
レンは頬に残っていた涙を拭った。
トウカは不思議そうにレンを見る。
「どうして覚えてるの? 私、ついさっきソロン・ミミカキをオープンしたばかりなんだよ。お兄ちゃんに私のお店を見せたかったの」
「ああ……そうだったな。お前が店主なんだよな?」
レンは少し笑った。
「……自立したんだな」
トウカは目を細める。
「今日のお兄ちゃん、なんか変だよ」
レンは視線を逸らした。
「いや……ただ……もっと今日という日を大切にすればよかったと思ってな」
「なんでそんな言い方するの? 今日、お兄ちゃんはトラックで国を横断しなきゃいけないって言ってたじゃん」
レンはしばらく黙った。
そして――
「ああ、そうだったな……」
少し考えたあと、笑う。
「……やっぱり今日は行かない。ははっ」
トウカが驚いた顔をする。
「本当に大丈夫なの?」
レンは笑った。
涙の跡は、すでに乾いていた。
「……もう、どうでもいい」
その時――
声が聞こえた。
「ち、違う……違う違う違う! そんなはずじゃないでしょう、松田蓮!」
レンの身体が固まる。
「ミ、ミサキ……?」
数メートル先に、ミサキが立っていた。
レンは彼女をじっと見る。
「ミサキ……なんでここにいる? それに……どうしてそんなに顔が青白いんだ? その目……」
ミサキの肌は異常なほど白かった。
そして目は――
白目すら存在しない。
眼球そのものが、深淵の底のように真っ黒だった。
ミサキはゆっくりとレンへ近づいてくる。
「ああ……松田蓮……」
そして微笑む。
「会いたかったわ」
レンはトウカを見る。
その瞬間、何かがおかしいことに気づいた。
トウカは完全に動きを止めている。
まるで時間そのものが止まったかのように。
「トウカ……? どうしたんだ?」
ミサキが答える。
「これはただの記憶よ、レン」
レンは再びミサキへ視線を戻した。
「お前……ミサキに似てるけど……ミサキじゃない」
レンは警戒する。
「お前は……誰だ?」
女の口元に、邪悪な笑みが浮かんだ。
「本当に……私に言いたいことは、それだけなの?」
レンの表情が苦しげに歪む。
「違う……」
首を振る。
「お前はミサキじゃない……お前は、あいつじゃない!」
白い肌と漆黒の目を持つ女が、光のような速度でレンのすぐ隣へ現れる。
「覚えているでしょう?」
レンの目が大きく見開かれた。
逃げようとする。
だが――
女がレンの腕を掴んだ。
「そう……思い出しなさい!」
「思い出せ!!」
レンは目を閉じ、偽りのミサキを振り払った。
すると――
冷たい水滴が身体に落ちてくる。
レンは顔を上げた。
雨が激しく降っていた。
目の前には、一つのアパートがある。
もうすぐ屋根のある場所へ入れるところだった。
レンの顔が青ざめる。
「ここ……いや……」
そして震える声で呟く。
「……ミサキのアパートだ」
嫌だ……
ここには入りたくない……
その瞬間、背後から誰かに押された。
レンの身体が屋根の下へ入る。
振り返る。
そこには――
偽りのミサキが立っていた。
真っ白な肌。
真っ黒な目。
雨に濡れた身体。
「行きなさい、松田蓮」
彼女は静かに言った。
「あなたは、これに向き合わなければならない」
レンが叫ぶ。
「お前は誰なんだぁぁぁぁぁ!!」
荒い呼吸を繰り返しながら、レンは偽りのミサキを睨みつける。
すると――
二人の耳に、低い声が届いた。
「……ん……」
複数の小さな呻き声。
レンの顔に、絶望が広がっていく。
偽りのミサキはレンを見る。
「後ろの扉を開けなさい」
レンは唾を飲み込んだ。
ゆっくりと振り返る。
そこにある扉を見つめる。
中から聞こえてくるのは、ただ呻き声だけ。
数秒後――
レンは強く目を閉じた。
すると偽りのミサキがレンの手を取り、その手をドアノブへ置いた。
「逃げることはできないわ、松田蓮!」
扉がゆっくりと開いていく。
レンは動けなかった。
その先には――ベッドがあった。
そして。
ミサキが大学の同級生の男に覆いかぶさっていた。
レンの身体が激しく震え始める。
違う……
違う、違う!!
ミサキは慌てて立ち上がり、シーツで身体を隠した。
「レン!? な、なんで……こ、ここに……!?」
男もレンを見る。
「あー……マジかよ……」
偽りのミサキが、レンの耳元で囁く。
「あなたは自分の無意識の中で、この日の記憶を何度も都合よく書き換えている」
「でも私は今――」
「本当の夜を、あなたの記憶の奥底から引きずり出しているの」
「松田蓮……あなたが、本当にあの日見たものを」
レンは片手で顔を覆った。
シーツに包まれたミサキを見つめる。
その目が震えていた。
「……ミサキ」
そして――
レンはその場から走り出した。
雨の中を何分も走り続ける。
やがてレンは、水たまりの中へ膝から崩れ落ちた。
俯いたまま、水面を見る。
そこには――
自分の顔が映っていた。
レンはゆっくりと顔を上げる。
目の前には、偽りのミサキが立っていた。
彼女が持つ傘は、自分自身だけを雨から守っている。
「あなたの父親は、母親が癌で亡くなったあと、自殺した」
彼女は淡々と言った。
「……あの男は臆病者だった」
レンは何も言わない。
ただ水面に映った自分の顔を見つめている。
偽りのミサキは続ける。
「あなたは、その臆病な父親に約束したでしょう?」
「妹を守るって」
「自分の夢を全部捨てることになっても……妹を助けるって」
レンは水面を見つめ続ける。
そしてミサキがレンの前にしゃがみ込んだ。
傘はまだ二人の上には差されていない。
「そして最後に――」
彼女は微笑む。
「あなたが残された愛情を捧げた女は、あなたを裏切った」
レンの瞳が揺れる。
「背が高くて、顔も良くて、カリスマ性があって、才能に満ちた男のためにね」
「あなたには……永遠になれない男」
その瞬間――
レンの瞳が黒く染まり始めた。
首筋に、細い黒い血管が浮かび上がる。
偽りのミサキは続けた。
「そして、この新しい世界でも……あなたは誰もが自分に何かを隠していると思っている」
「誰も何も言わなくても、地球にいた頃、友人たちが同じことをしていた時と同じ感覚を抱く」
「……結局、あなたは哀れな負け犬なのよ」
レンは歯を食いしばった。
両手を強く握り締める。
偽りのミサキがさらに近づく。
そして今度は――
傘を二人の上へ差した。
「私なら、あなたを助けられるわ、レン」
彼女は微笑む。
「みんなに思い知らせることができる」
「私は……あいつら全員が嫌いよ」
レンは、考えることもなく答えた。
その瞳は完全な漆黒に染まっていた。
「俺も……全員が嫌いだ」
偽りのミサキが笑う。
「私の進化は、あなたたちのためじゃない」
レンが繰り返す。
「俺の進化は……お前たちのためじゃない」
偽りのミサキは、レンの頭へそっと手を置いた。
淡い光が――消える。
そして彼女は微笑んだ。
「好きなだけ殺しなさい」
「思う存分、復讐するのよ……私の子」
すべてが暗闇に包まれる。
数秒後――
レンは思った。
身体が……重い
でも……
全部、終わらせられる気がする
瓦礫の下。
現実へ戻ったレンの身体から、灰色の光を混ぜた赤い輝きが漏れ始める。
犬歯がゆっくりと伸びていく。
髪が伸び始め――
その色が灰色へと変わっていく。
そして次の瞬間。
レンが咆哮した。
「AAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHH!!」
ドゴォォォォォォン!!
その瞬間――
半径およそ五百メートル。
その範囲にあるすべてが、一斉に爆発した。
瓦礫が空高く舞い上がる。
アルテリオン・ドレンは、呆然とその光景を見つめていた。
「……なんだ、これは?」
はるか上空。
その光景を見ていたルミナリアは、手にしていたティーカップを落とした。
カシャンッ!
「え……?」
彼女は目を見開く。
「こ、これ……オリス……?」
「……嘘でしょ?」
アルテリオン・ドレンも目を見開いた。
「なんだ、このクソ――」
バキィィッ!!
その言葉を遮ったのは――
何かが引き裂かれる音だった。
ドレンは自分の腕を見る。
そこにあるはずの腕が――
なくなっていた。
「……え?」
そして数メートル後方。
誰かが、切断されたドレンの腕を――
口に咥えていた。
「な……」
「う、うわあああああああ!!」
その男が、ゆっくりとドレンの方へ振り向く。
ドレンは恐怖に顔を歪めた。
「め、女神ルミナリア!!」
「た、助けてください! お願いします!!」
男は一歩、また一歩とドレンへ近づいていく。
そして――
獣のような声で呟いた。
「……まずは、お前からだ」
その光景を見ていたミコネコが、地面に倒れたまま片目を開く。
「こ、これって……」
震える声で呟いた。
「……レン?」
ついに――
レンが姿を現した。
髪は長く伸び、灰色へと変わっている。
犬歯は以前よりわずかに長くなっていた。
身体からは赤い光が漏れ出している。
筋肉は以前よりもわずかに浮き上がり、その顔には――
完全な怒りが刻まれていた。
レンの目は、ただ一人――
ドレンだけを見つめている。
その姿はまるで――
すべてを終わらせるために現れた怪物そのものだった。




