第32話 ―― ドラヴェンホールドへの帰還
レンは部屋の中を行ったり来たりしていた。
その様子を、壁にもたれながら眺めていたリセラは、ゆっくりと壁から離れて一歩前に出る。
そのとき、ライセラがレンの腕に触れながら口を開いた。
「レン、まだあのことを考えてるの?」
リセラは足を止めると、進む方向を変え、ガリックのほうへ歩いていった。
それを見たミコネコは、心の中で呟く。
(この子、なんだか変ね……。それとも、ただ嫉妬してるだけ?)
一方、レンはライセラに答えた。
「いろいろ考えてる……全部だよ。ミレーヤのことも……地球のことも。それに、アウレリアが言ってた人たちは一体何者なんだ?」
「そうよね……。私もよく分からなかった。確か……ルメリアン? それから、カエルっていう人を助けるとか……私、その人のことも知らないんだけど」
レンはため息をつき、指導者たちが座っているテーブルへと視線を向ける。
すると、ライセラが尋ねた。
「それと……あの人が言っていた、あなたの中にある何かっていう話。あれが、あなたのあの力なの? 他の勇者にも同じものがあるの?」
「分からない。でも、ここで待ってるくらいなら、あの人のところへ行って、もっといろいろ聞いてみてもいいかもな!」
すると、ミコネコが会話に割って入った。
「盗み聞きするつもりはなかったんだけど、その占い師ならもう帰ったわよ」
レンは妙な顔でミコネコを見る。
ライセラは感心したように言った。
「ああ……あの人、かなり頭が切れそうね」
「それに、結構な頑固者だけどね。でも、ちゃんと自分の役目は果たしてくれるのよ。ふふっ」
「……そうか。でも、今はミレーヤのことに集中したほうがいいな」
――
レンたちは、ようやくドラヴェンホールドへと到着した。
長い土の道を進んでいると、明け方の空が次第に雲に覆われ始める。
今にも雨が降り出しそうな空模様だった。
ミコネコが前方を指差す。
「こっちに、隠れ宿があるわ」
ガリックは少し警戒するような目で彼女を見る。
「……こういう場所に詳しいんだな」
ミコネコは気にした様子もなく笑った。
「ドラクサールの指導者になる前は、私も冒険者だったのよ。だから、こういう面白い場所をいくつか知ってるの。あっ、ほら! あそこよ」
全員が彼女の指差した方向を見る。
そこには、街道からかなり離れた場所に建つ、大きな二階建ての家があった。
ミコネコはその家を指差す。
「ガリック、あなたは私と一緒に来て。それから、腕を折ってる子も」
レンが眉をひそめる。
「ミレーヤのことか?」
「はいはい。とにかく来て」
レンはため息をついた。
「分かったよ……」
ミコネコはガリックとミレーヤを連れて、宿の中へ入っていく。
その間、レン、ライセラ、リセラの三人は外に残った。
リセラは、三人が入っていった扉を見つめる。
「どうして私たちは待っていろって言われたんだろう?」
ライセラは腕を組む。
「さあ。でも、あの猫の人、かなり強くて経験もありそうね」
レンは拳を握りしめた。
「あの王……一体何なんだよ……」
ライセラがレンを見る。
「アルテリオンでは、あんなふうに脱走者を扱うのね……」
リセラは腰に手を当てる。
「今の王国同士の混乱の大きな原因になっているのは、あの王だって聞いたことがあるわ。でも……わざわざあの王と敵対する必要があるのかは分からないけど」
しばらくすると、ミコネコが再び扉から顔を出した。
「入っていいわよ。もう大丈夫」
三人は宿の中へ入っていった。
宿の中では、ミレーヤが簡素な担架の上に横たわっていた。
レンはすぐに彼女へ駆け寄る。
「こ、ここに応急処置できるものはありますか?」
宿の主人は頷いた。
「ああ。ただ、本格的な治療を受けさせるなら、街の中心部まで連れていったほうがいい」
レンはほっと息を吐いた。
「そ、そうですか……よかった」
そして何かを思い出したように、レンが顔を上げる。
「……ちょっと待ってください」
男がレンを見る。
「どうした?」
「えっと……何でもないです。ありがとうございます」
ミコネコがミレーヤへ近づく。
「私、簡単な治癒魔法なら使えるから。しばらくこの子についてるわ。あなたたちは休んできていいわよ」
レンはすぐに答えた。
「俺も残る」
ガリックは疲れ切った様子で壁にもたれかかる。
「俺は休ませてもらう……まだ毒が完全に抜けてない」
宿の主人は、ただ黙って一行を見つめていた。
すると、ライセラが大きく伸びをする。
「私はお風呂に入ってくるわ」
リセラが彼女を見る。
「じゃあ、私はそのあとで」
こうしてレンは、ミコネコとミレーヤとともに宿の一階に残ることになった。
ミコネコはミレーヤの胸元に手を当てる。
すると、手のひらから緑色の光が現れ、ミレーヤの身体を包み込んでいく。
特に胸元へと光が集中していた。
レンはその様子をじっと見つめる。
「き、君……ミレーヤを治してるのか?」
ミコネコは数秒間レンを見る。
そして、突然尋ねた。
「あなた、この子のこと好きなの?」
レンは二度瞬きをする。
みるみる顔が赤くなっていく。
「えっ……な、何?」
ミコネコは小さく笑った。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。ただ……あなたがこの子に、普通以上の感情を持ってるように見えたから聞いただけ」
レンは視線を逸らした。
「いや……『好き』っていう言葉が正しいのかは分からないけど……」
ミコネコは黙ったまま、レンをじっと観察する。
レンは一瞬だけ視線を逸らした。
「でも……大切に思ってるのは確かだ」
ミコネコはミレーヤへ向ける魔力を少し強めながら、レンを観察し続ける。
「あなたがこの子の話をするときの真剣な顔……やっぱり、何か特別なものを感じるわ」
レンは再びミコネコを見る。
「まあ……そもそも、俺をこの世界に連れてきたのはミレーヤとガリックだからな。それからずっと、二人にはいろいろ助けてもらったんだ」
ミコネコは考え込むような表情を浮かべた。
「異世界から召喚された勇者を見るのは初めてね」
レンは少し目を見開く。
「他の国にも、召喚された勇者がいるのか?」
「ええ。でも、かなり珍しいわ。特にアルテリオンと比べればね」
「俺は、勇者ってアルテリオンでしか召喚されないものだと思ってた……」
すると、ミコネコは話題を変えた。
「それで、レン。あなたのいた世界ってどんなところだったの?」
レンは数秒間、彼女を見る。
「何を……聞きたいんだ?」
ミコネコは肩をすくめる。
「さあ? 友達はいたの? 恋人は? 向こうでどんな生活をしてたの?」
レンは小さく笑った。
「ああ……恋人もいたし、友達もたくさんいた。みんな、本当にいい奴らだったよ」
ミコネコは驚いた顔をする。
「恋人がいたの?」
レンは少し俯いた。
「ああ……いたよ」
短い沈黙が流れる。
ミコネコはミレーヤの治療を続けながら、少しだけ慎重な表情になった。
「……それを話すのは辛いでしょうね。何もかも置いてきたのに、こっちでは新しい友達を助けながら前に進まなきゃいけないんだもの」
レンは数秒黙ったあと、答えた。
「実は……別れたのは三年前なんだ」
ミコネコはミレーヤを見つめたまま、黙って話を聞いている。
レンは続ける。
「だから……俺に何が起きたのか、あいつは知らないかもしれない」
ミコネコは再びレンを見る。
「あ……ごめんなさい、レン。聞いちゃいけなかったわね」
レンは軽く首を振る。
「いや、大丈夫だ」
「……なんか変だな。今は、妙に落ち着いてる。前はずっと不安で仕方なかったのに」
ミコネコは笑った。
「私には、人を安心させる力があるってよく言われるのよ。ふふっ」
レンは怪訝そうな顔をする。
「も、もしかして魔法を使ってるのか?」
「さあ? 自分ではそんなつもりないけど」
レンは数秒間、ミコネコを見つめる。
(……今の、どういう意味なんだ?)
ミコネコが再び口を開いた。
「でも、教えてよ。その恋人って、どんな人だったの?」
レンは少し俯く。
「ああ……優しくて、綺麗で、可愛い人だった。付き合うまでにはかなり時間がかかったけど……何年か経った頃から、少しずつ距離を置かれるようになった」
「……そうだったの」
そこでレンは、自分が同じ話をしていることに気づく。
「ま、また同じこと言ってる?」
ミコネコは微笑む。
「気にしなくていいわ。大丈夫だから」
「いや……大丈夫じゃないだろ」
ミコネコはレンの様子の変化に気づいた。
レンは両手で頭を抱え、床を見つめている。
そして、その声は次第に小さくなっていった。
「俺……数日前に死んだんだ。たぶん……。死んでからどれくらい経ったのかも分からない。でも、今考えると……たぶん、まだ数日しか経ってない」
ミコネコの表情が真剣になる。
「ここへ来るまでのことは、どこまで覚えてるの?」
レンは数秒間考え込んだ。
「ただ……どこかを彷徨っていたことしか覚えてない。それから、声が聞こえたんだ」
「声?」
「ああ。それが、俺が覚えている唯一のことだ」
レンは髪を指で強く握る。
「こっちに来てから、ずっと走ってばかりだ。何かあるたびに、予定してた道から外れて……やっと何かできそうだと思ったら、また別の問題が起きる……」
レンは深く息を吸い、考えを整理しようとする。
「それに、俺が持ってるこの力……占い師は、俺の中に何かがあるって言ってた。魔王もそれに気づいてた。それに……それに……」
レンは両手で顔を覆う。
「ああっ! 俺、何言ってるんだ……!」
ミコネコは少しだけ汗を浮かべる。
レンは彼女の表情に気づき、突然立ち上がった。
「お前……わざとやってないか?」
ミコネコは無邪気な笑顔を浮かべる。
「ごめんね……。こういうこと、なぜか私にはよく起こるのよ。今まで、他の指導者たちがどうして平気なのか分からないくらい」
レンは腕を組む。
「じゃあ……やっぱり何かの魔法なんじゃないのか?」
ミコネコは一瞬、黙り込んだ。
「元々……私も、この土地の人間じゃないのよ」
レンは眉をひそめる。
「どういう意味だ? 何を言ってる?」
ミコネコは口を開く。
だが、言葉が出てこない。
レンは数秒間、彼女を見つめた。
「お前も……別の世界から来たのか?」
ミコネコの猫耳が、ほんの少し下がる。
彼女は視線を逸らした。
「私はレイア出身よ。ただ……うーん……」
その瞬間、レンの頭の中に声が響いた。
『早く元気になってね、お兄ちゃん』
レンの目が大きく見開かれる。
身体がわずかに震え、顔に汗が浮かんだ。
ミコネコはすぐに異変に気づく。
「どうしたの、レン?」
レンは両手で頭を抱える。
「こ、幻聴だ……」
ミコネコはミレーヤに魔法をかけ続けながら、静かにレンを見つめる。
レンは深く息を吸う。
それでも声の震えは止まらない。
「い、今……妹の声が聞こえた……トウカの声が……」
レンは目を閉じる。
「……そんなはずない」
ミコネコの目が大きく見開かれる。
「こ、声が聞こえたの? その妹って……あなたがいた世界の妹?」
レンはしばらく黙っていた。
そして、ミコネコをまっすぐ見つめる。
「……こんなの、現実なわけないよな?」
ミコネコは驚いた様子もなく、片眉を上げた。
「そうね……。ここ最近、勇者たちは転生ではなく、この世界へ直接転移してくるようになったの」
レンは黙って聞いている。
「他の指導者たちから聞いた話だけど、彼らも何人かの勇者と接触したことがあるらしいわ」
レンは考え込む。
(変だな……。召喚する側からすれば、すでに完成している人間をそのまま連れてくるほうが都合がいいのかもしれない)
ミコネコは続ける。
「ただ、その場合は……満杯になったコップを一度空にして、それからもう一度満たさなきゃいけないの」
レンは眉をひそめる。
「……何? コップ?」
ミコネコは小さく笑った。
「ふふっ。今のは忘れて」
「……はぁ?」
レンはまだ納得していなかったが、それ以上追及することはなかった。
「それで……お前、どこから来たって言ったんだ?」
ミコネコは数秒間、言葉に詰まる。
「えっと……私はこの世界、レイアの出身よ。でも……地上ではないわ」
レンは驚く。
「地上じゃない? どういうことだ?」
ミコネコは答えなかった。
ただ視線を逸らし、部屋の扉をじっと見つめている。
レンも数秒間、黙って彼女を見つめた。
「ミコネコ……おーい?」
ミコネコは再びレンを見る。
その表情は真剣だった。
「レン。他に何か話したいことはある?」
レンはゆっくりと目を見開く。
そして、しばらくミコネコを見つめた。
「ああ……あるよ」
ミコネコは続けた。
「妹の声が聞こえたって言ってたけど……あなたたちは、かなり仲が良かったのね」
レンは俯く。
「母さんが亡くなったのは……俺がまだ大学にいた頃だった。それから父さんは酒を飲みすぎるようになった。何か月もの間、ほとんど毎日のように飲んでた」
レンの声が少しずつ小さくなる。
「ある日……俺たちは、リビングのソファに座ったまま、まったく動かなくなってる父さんを見つけた」
レンは目を閉じる。
「そのとき、トウカがとうとう泣き崩れたんだ。二十歳になってからは……俺たち二人だけだった」
ミコネコは慎重に尋ねる。
「……あなたが言っている言葉の中には、私には分からないものもあるけど……あなたがどれだけ辛かったのかは分かるわ」
レンは指を軽く握る。
「でも、それから俺はどうすればいいのか分からなくなった。それでも大学の勉強は続けなきゃいけなかった……それに、あいつもいた」
レンは少し間を置く。
「俺が配達のアルバイトをしながら働いていた頃、ミサキの同級生だった男が、ミサキに近づくようになった。そいつは俺と同じ大学に通ってた……ミサキの元恋人……いや、俺の元恋人だったミサキのところにな」
ミコネコはレンを見る。
「それからずっと、妹の面倒を見てたの?」
「まあ……俺たちはもう大人だったから。でも、家族は昔からすごく仲が良かったんだ。あの出来事で……全部壊れてしまった」
レンは深く息を吸う。
「それに今……俺が死んだってことは……トウカがどうなってるのかなんて……想像もできない」
声が震える。
「……ぐすっ」
ミコネコは少しだけ俯く。
「……あなた、ずっと全部一人で抱えてたのね」
レンは続けた。
「大学は……卒業まであと二年だったけど、辞めた。家の生活費を払うために二つの仕事を掛け持ちして、その間、トウカが大学に入るための準備をしてた」
レンは寂しそうに笑う。
「その年に……ミサキとも別れた」
ミコネコは横たわっているミレーヤへ視線を向ける。
レンは床を見つめる。
その目には、涙が浮かんでいた。
「ミサキが大学を卒業してから、友達を通して聞いたんだ。あいつが……あの同級生だった男と一緒にイタリアへ行ったって」
声が震える。
「そいつが……婚約者になったらしい」
レンは涙を拭う。
「それで俺は……全部、自分のせいなんじゃないかって……ずっと後悔してた」
「何年もトラックの運転手をしてた。学校の頃の友達との集まりにも、ほとんど行かなくなった。マイとタケオの子供が生まれたことさえ、直接見ることができなかった」
レンは深く息を吐く。
「最後にみんなで集まったのは……アオイとソウマの家だった」
レンの顔に、小さな笑みが浮かぶ。
「それから……妹はミミカキっていう店を始めてた。何年ぶりだったかな……あんなふうに笑ってる妹を見たのは」
ミコネコは、もうそれ以上聞いていられなかった。
彼女はレンの脚にそっと手を置く。
「レン。もういいわ。分かったから。これ以上、自分を責めないで」
レンは再び顔を拭う。
「これ……俺のせいなのかな?」
ミコネコはレンを見る。
その目は、すでに少し赤くなっていた。
「どうしてあなたのせいになるの? あなたの話を聞く限り……大切な人を失ったあとも、妹を見捨てなかったんでしょう?」
レンは驚いたようにミコネコを見つめる。
唇がわずかに開く。
ミコネコは、優しい声で続けた。
「レン……私たちは、欲しいものを全部手に入れられるわけじゃない。でも、本当に大切な人たちは、そばに置いておかなきゃいけないの。自分を本当に大切にしてくれる人たちをね」
そう言うと、ミコネコは少しだけ顔を背け、反対側へ視線を向けた。
「……ミコネコ」
レンはもう一度、涙を拭う。
そして長く息を吐いた。
「お、俺……みんなから離れちゃってた。でも……ありがとう」
レンは頭を下げる。
「話を聞いてくれて……ありがとう」
ミコネコは横目でレンを見る。
レンは目を強く閉じていた。
それでも、頬にはまだ涙が流れている。
そのとき――
突然、レンは自分の手に何かを感じた。
レンは目を開き、手元を見る。
(な、なんだ……この感覚……?)
レンはしばらく動けなかった。
(だ、誰かが……俺の手を握ってるみたいだ……)
(……これ、何なんだ?)




