第26話 松田蓮とは何者なのか?
カエルタールは口をあんぐりと開けた。
手にしていたワイングラスが指から滑り落ち、床に叩きつけられて砕け散る。
カエルタールは数秒間、目の前にいる四人を呆然と見つめていた。
そして、ゆっくりと片手を顔に当てる。
しばらくしてから、いつもの表情を取り戻した。
「……そうか、ライセラ。お前には本当に驚かされた。まさか、お前が私にこんな悪ふざけを仕掛けてくるとはな」
ライセラは真剣な表情を崩さなかった。
「悪ふざけじゃないわ、お父様。この人は松田蓮。私の婚約者よ」
カエルタールは数秒間、沈黙した。
「……本気で言っているのか?」
「ええ。これで、お兄様に王位を譲る必要もなくなったでしょう? あの人が狂ってること、お父様だって知ってるじゃない」
カエルタールは小さく息を吐いた。
「魔王軍に対して不敬でなければ、笑って済ませたいところだったがな」
そう言うと、ゆっくりと四人の方へ歩き始める。
「……つまり、お前は私の怒りを選んだということか、ライセラ?」
蓮は目を見開いた。
「お、お父様? その……もしよろしければ――」
ドスッ!
言葉を最後まで言い終えることすらできなかった。
一瞬で距離を詰めたカエルタールが、蓮の腹部へ凄まじい蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ――!」
蓮の身体が部屋の反対側まで吹き飛び、壁へ激突する。
「蓮!」
カエルタールは冷たい目で蓮を見下ろした。
「誰が話していいと言った、下等な人間が!」
「蓮!」
ガリックが即座に飛び出した。
剣を抜き放ち、カエルタールへ斬りかかる。
しかし魔王は、片手を上げただけだった。
そして――二本の指で、その刃を挟み取る。
「……呆れたな」
カエルタールが指に力を込める。
バキィッ!
ガリックの剣が真っ二つに折れた。
「なっ……こ、この剣は……!」
「はああっ!」
ガリックはそのまま拳をカエルタールの顔面へ叩き込もうとする。
だが、カエルタールは僅かに顔を逸らして拳を躱した。
そのままガリックの首を片手で掴み上げる。
「ガリック!」
リセラが叫び、腰から二本の短剣を抜き放つ。
そして、カエルタールの頭部へ向けて投げつけた。
だが――
短剣は空を切った。
カエルタールは瞬きする間に身を躱していた。
「……背中にも目があるの?」
リセラは目を見開く。
「紫炎!」
ライセラが魔法を発動する。
紫色の炎がカエルタールの足元へ一気に燃え上がった。
だが、カエルタールはほとんど興味を示さない。
「……本気で、こんなもので私をどうにかできると思っているのか?」
ライセラは小さく笑った。
「最初から、傷つけられるなんて思ってないわ」
「なら、なぜこんなことをした?」
「陽動よ!」
その瞬間――
カエルタールの背後にリセラが現れた。
短剣を彼の首へ突きつける。
「ガリックを放して!」
ガリックはカエルタールの腕を両手で必死に掴み、なんとか逃れようとしている。
しかし魔王の手は、彼の首を締め上げたままだった。
リセラは短剣を構えたまま、一気に踏み込む。
刃がカエルタールの首へ突き刺さる――
その直前。
リセラは小さく呟いた。
「……ごめんね、ライセラ」
「うああああっ!」
バキィィン!
リセラの目が大きく見開かれる。
短剣の刃が、カエルタールの身体に触れた瞬間、真っ二つに砕け散った。
「なっ――」
反応する暇もなかった。
カエルタールはもう片方の手で、リセラの首を掴み上げる。
「……まさか、本当にこの人間たちが私を傷つけられると思っていたのか?」
カエルタールは怒りに満ちた視線をライセラへ向ける。
「一体どういうつもりだ、ライセラ? なぜこいつらをここへ連れてきた?」
ライセラはカエルタールへ向かって走り出した。
その足元には、リセラが投げた短剣の一本が落ちている。
ライセラはそれを拾い上げ、そのまま突進する。
「私の力なら、あなたなんて――!」
カエルタールの口元に僅かな笑みが浮かんだ。
(そうだ……その本能に身を委ねろ)
ライセラが短剣を振り下ろす。
バキィッ!
またしても刃が砕け散った。
カエルタールはそのままライセラの腹部を蹴り飛ばす。
「きゃあっ!」
ライセラは蓮と同じように吹き飛ばされ、床を転がった。
カエルタールは二人を見下ろす。
「お前たちは、私の手で死ぬ。光栄に思うがいい」
そして再びライセラへ視線を向けた。
「そしてお前は、兄と同じ部屋へ放り込んでやる。小さな砂の城とも、ここでお別れだ!」
その瞬間――
カエルタールの目の前に、何者かの気配が現れた。
彼はガリックとリセラを首を掴んだまま宙に持ち上げている。
その背後から――
蓮が拳を構えて突進してきた。
(この人間……?)
「うおおおおおおおおおおっ!」
ドゴォォォン!
蓮の拳が、カエルタールの腹部へと直撃した。
「ぐっ……!」
カエルタールの手からガリックとリセラが離れる。
二人は蓮の近くへ落下した。
一方、カエルタールの身体は勢いよく吹き飛び、城の壁を突き破って、そのまま崖の向こうへ消えていった。
蓮は苦しそうに立ち上がる。
「はぁ……はぁ……みんな……大丈夫か?」
ガリックは首を押さえながら答えた。
「助かったぜ、蓮……ぐっ! 喉が潰れるかと思った!」
リセラも苦しそうに息を整える。
「はぁ……はぁ……あ、ありがとう……」
ライセラは目を見開いたまま、蓮を見つめていた。
「蓮……? あなた……」
そして彼女は、大きく開いた壁の穴へ目を向ける。
その向こうに広がる景色を見た瞬間――
ライセラの脳裏に、遠い記憶が蘇った。
まだ幼かった頃。
城の外で、母エリンドラ・ヴェイロンと並んで巨大な城を眺めていた。
「お母様、お父様はいつも、私たちが一番強いって言ってるよね」
エリンドラは優しく微笑んだ。
「ええ。確かに、その言葉にも一理あるわ。でもね、相手を決して侮ってはいけないの」
エリンドラはライセラを見る。
「さあ、行きましょう。まだ準備することがたくさんあるわ」
その時だった。
二人の視線の先に、青い髪と角を持った少年がいた。
少年は数人の悪魔と喧嘩をしていた。
エリンドラはため息をつく。
「ドラヴィオン。もう中へ入りなさい!」
少年は地面に倒れている悪魔たちを見下ろした。
「ああ、お前ら運がよかったな。今日は三人ぶっ飛ばしただけで勘弁してやるよ」
倒れている悪魔たちは、苦しそうに息をしている。
そのうちの一人が呟いた。
「あの少年……強い……」
別の悪魔が答える。
「それに凶暴だ……。それでも、ライセラ様が王位を継いでくださるなら安心だ」
ドラヴィオンは振り返った。
「何見てんだよ、このブサイクども!」
ライセラは腕を組んだ。
「あなたみたいな男と付き合いたい女の子が、どこにいるのか考えてるの」
ドラヴィオンの額に青筋が浮かぶ。
「おい、チビ! 誰もお前みたいな女を好きになるわけねぇだろ! まな板みたいな身体しやがって!」
「なっ――!?」
ゴツン!
エリンドラが二人の頭を同時に小突いた。
「痛っ!」
「いったぁ……!」
ライセラとドラヴィオンは、頭を押さえながらその場にしゃがみ込む。
エリンドラは腕を組んだ。
「いい? 私はあなたたちが喧嘩しているところを見るのが嫌なの。仲良くしなさい。嫌でも、何があってもよ。分かった?」
二人は怯えた表情で顔を見合わせる。
「は、はい……」
「わ、分かりました……」
エリンドラは二人の顔へ両手を伸ばした。
ライセラとドラヴィオンは、すぐさま目を固く閉じる。
(やばい……また小突かれる……)
しかし――
ライセラが感じたのは、首元と胸元に伝わる優しい温もりだった。
恐る恐る目を開く。
そこには、二人を抱きしめる母の姿があった。
「あなたたちは、この世界の未来……そして、私の一番大切な宝物よ」
エリンドラは優しく微笑んだ。
「お父様は口にしないけれど、あの人もあなたたちを愛しているわ」
ドラヴィオンの顔が真っ赤になる。
「な、なんだよ……」
ライセラも頬を赤くした。
「ド、ドラヴィオン?」
「な、なんでお前まで赤くなってんだよ……」
ライセラは母を見上げる。
「お母様……」
エリンドラは笑った。
「さあ、行きましょう。もう遅くなってきたわ」
そしてドラヴィオンを見る。
「それと、忘れないでね、ドラヴィオン。さっきお姉ちゃんにも言ったけれど――敵も、友達も、決して侮ってはいけないわ」
ライセラも隣で頷いた。
「うん」
ドラヴィオンはただ鼻を鳴らした。
そして――
その記憶は静かに消えていった。
「ライセラ? ライセラ? おい、聞いてるか?」
心配そうな蓮の声が聞こえる。
「ごめん……俺、君のお父さんにこんなことを――」
ドサッ!
蓮の目が見開かれた。
ライセラが突然、彼へ抱きついたのだ。
「ライセラ……?」
涙で潤んだ瞳のまま、ライセラは蓮を強く抱きしめる。
「れ、蓮……あ、ありがとう……」
その光景を後ろから見ていたガリックは、驚いたように目を見開いた。
「し、知らなかった……悪魔も泣くんだな……」
蓮は完全に困惑していた。
「ライセラ……い、いったいどうしたんだ?」
ライセラはゆっくりと身体を離し、蓮と向き合った。
蓮は、彼女が涙を拭いながら必死に言葉を絞り出していることに気づく。
「お父様が……あ、あの時から……変わってしまって……わ、私……何を考えればいいのか……」
その時だった。
巨大な壁の穴から声が響いた。
「……あの時から、何だ? ライセラ」
全員が振り返る。
そこには――
壁を突き破って吹き飛ばされたはずのカエルタールが立っていた。
蓮はため息をつく。
「あー……なんだ。楽勝すぎると思ったんだけどな……」
カエルタールは顎に手を当てた。
「ふむ……お前は普通の人間ではないな」
そして蓮を観察する。
「この距離まで私を吹き飛ばせるのは、成体のドラゴン級の力でもなければ不可能だ」
カエルタールは数秒間、蓮を見つめ続けた。
そして、ようやく口を開く。
「お前の名……松田蓮、だったな?」
蓮はどう反応すればいいのか分からず、戸惑いながら答えた。
「は、はい……。いや、あれはあんたが俺の仲間を殺そうとしたから――」
カエルタールが遮る。
「お前は……何者だ?」
広間に、完全な静寂が訪れた。
蓮はその場に立ち尽くす。
「俺……が……何者?」
(何を言ってるんだ、こいつ……?)
カエルタールは遠くから蓮を見つめ続ける。
そして――
瞬きをした、その一瞬。
ヒュンッ!
カエルタールの姿が消えた。
誰もが、つい先ほどまで彼が立っていた場所を見つめる。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
やがて一人、また一人と首を動かし、カエルタールの姿を探し始める。
「蓮!」
ガリックが叫ぶ。
しかし蓮は何も答えなかった。
その視線は、目の前に立つカエルタールの瞳へ釘付けになっている。
カエルタールが片手を上げる。
「お前が何者であろうと……私が暴いてみせよう」
「――魂魄解析」
蓮の胸元に、小さな歪んだ球体が出現した。
まるで空間そのものが裂け、その向こう側が覗いているかのようだった。
カエルタールは手を伸ばし、その球体の中へ腕を突っ込む。
蓮の目が大きく見開かれた。
「な、なんだよこれ――」
「うあああああああああああっ!」
蓮の絶叫が広間中に響き渡る。
全身を痙攣させながら、蓮は激痛に耐えようとする。
その姿を見た全員が凍りついた。
ガリックがすぐに立ち上がる。
「そこから離れろ!」
ガリックの身体を魔力が包み込む。
「強化魔法!」
身体が淡く輝き、ガリックはカエルタールへ突進する。
そして、そのまま蹴りを叩き込もうとした。
しかし――
カエルタールは片手でガリックの脚を掴んだ。
次の瞬間。
ドォンッ!
ガリックの身体が吹き飛び、広間の壁へ叩きつけられる。
「ガリック!」
リセラが叫ぶ。
リセラとライセラは同時にカエルタールへ向かって走り出した。
「援護して!」
リセラが叫ぶ。
「私が一緒にあいつを穴の外へ押し出す!」
ライセラが答える。
リセラは目を見開いた。
「でも、それじゃあなたも落ちるわ!」
ライセラは歯を食いしばる。
「蓮が死ぬところなんて……見たくない!」
その言葉に、リセラはさらに目を見開いた。
そして、そのまま走り続ける。
突然、リセラがカエルタールへ飛びかかった。
腰から三本目の短剣を抜き放つ。
「――そこから離れろぉぉぉ!」
カエルタールは、ただ顔を横へ逸らした。
短剣が頬のすぐ横を通り過ぎる。
そのまま身体を回転させ――
「ぐっ!」
カエルタールの蹴りがリセラを捉えた。
リセラは横へ吹き飛び、床へ叩きつけられる。
だが、その瞬間。
カエルタールの背後にライセラが現れた。
「――神秘具!」
青い魔力がライセラの両手に集まり、完全な形をした青い刀へと変化する。
「はああああっ!」
ライセラはカエルタールの背中へ向けて刀を振り下ろした。
「ぐっ……!」
カエルタールの身体が僅かに前へ動く。
ライセラは目を見開いた。
そこには、小さな切り傷が刻まれていた。
「き、効いた……?」
青い刀が消えていく。
(あ……まだ完全には使いこなせてない……)
カエルタールはゆっくりと振り返る。
そして――
一本の指を立てた。
「――重力」
ライセラの足元の床が僅かに陥没する。
同時に、大量の石や床の破片が浮かび上がり、彼女の脚へ絡みついた。
「きゃっ!」
ライセラは必死に身体を動かそうとする。
しかし、まったく動けない。
「くっ……!」
もう誰も蓮を助けられる者はいなかった。
カエルタールは再び蓮へ意識を向ける。
「よし……これで集中できる」
彼の腕が、さらに球体の奥へ沈み込む。
「うあああああああっ! やめろぉぉぉ!」
蓮は苦痛に耐えながら、カエルタールへ拳を振り抜く。
だが、カエルタールはもう片方の腕を掴んだ。
その瞬間――
カエルタールの目が見開かれた。
球体の中に何かがあった。
彼が予想していなかったもの。
カエルタールの腕を、何かが這うように伝わっていく。
同時に――
蓮の拳が、カエルタールの顔へ向かって迫っていた。
あと数センチ。
拳が顔面を捉える――
その瞬間。
カエルタールの姿が消えた。
次の瞬間、彼は広間の別の場所に立っていた。
蓮の拳は空を切る。
ヒュオオオオッ!
拳に込められた凄まじい力が、強烈な風圧となって周囲へ吹き荒れた。
カエルタールはその光景を黙って見つめる。
そして――
ゆっくりと拍手を始めた。
「素晴らしい……」
パチ、パチ。
「実に興味深い」
パチ、パチ。
「お前は……どうして存在している?」
蓮は荒い息を吐きながら、自分の胸元を見る。
何もない。
傷一つない。
蓮は困惑した。
ライセラも地面に拘束されたまま、蓮を見つめる。
「何があったの、蓮? あいつに何をしたのよ!」
カエルタールが答える。
「お前を見た」
カエルタールの目が細くなる。
「正確には……お前の内側を見たのだ」
「……!」
「ようやく理解した。なぜお前がこれほど異常な力を持っているのか。そして……なぜお前が、本当に生きているのかもな」
ライセラは目を見開いた。
「どういう意味……?」
蓮は歯を食いしばる。
「生きて……いる?」
声が震えた。
「ど、どういうことだ……?」
その瞬間。
蓮の脳裏に、一つの記憶が蘇る。
美咲の姿。
トラックの中で、彼女の写真を見つめていた。
そして、その直後――
激しい下り坂。
制御を失ったトラック。
そして――
転落。
蓮は拳を強く握り締めた。
「――嘘をつくなぁぁぁぁぁ!」
リセラとガリックも立ち上がり始める。
「蓮……?」
リセラが声をかける。
「蓮……」
ガリックも呟いた。
しかしカエルタールは――
笑っていた。
「お前は何も分かっていない……」
カエルタールはゆっくりと顔を上げる。
「私は、この世界がもう終わったと思っていた」
その口元に笑みが広がる。
「もう希望など残っていないと思っていた」
そして――
「だが……お前が現れた」
カエルタールは目を閉じる。
「……ハハハハハ」
その表情が、ゆっくりと変化していく。
そして、天井を見上げる。
「運命とは……本当に残酷なものだな」
怒りに満ちた瞳で、天井の向こうを睨みつける。
「……女神ルミナリア」
全員が沈黙した。
ライセラは眉をひそめる。
「な、何を言ってるの……? 頭がおかしくなったの?」
カエルタールは目を開く。
「蓮!」
蓮は真剣な表情で彼を見返す。
カエルタールは続けた。
「どうやらお前は、まだ自分の中にいる存在と話していないようだな」
蓮の目が見開かれる。
「俺の……中?」
拳を握り締める。
「何なんだよ……もう何も分からない! お前は俺に何をしたんだ? いいから説明しろ!」
カエルタールは数秒間、黙っていた。
そして――
一本の指を立てる。
すると、ライセラの脚を拘束していた石が次々と地面へ落ちた。
「きゃっ!」
自由になったライセラは前へ倒れ込み、すぐに立ち上がる。
カエルタールは何事もなかったかのように、一脚の椅子へ向かって歩いていく。
そして腰を下ろした。
床に落ちていたワイングラスを拾い上げ、新しいワインを注ぐ。
一口飲むと――
ライセラと蓮を見つめた。
「お前たちは婚約者なのだろう?」
広間が静まり返る。
カエルタールはもう一口ワインを飲んだ。
「ならば――私がお前たちの婚姻を認めよう」
「「「「ええええええええええっ!?」」」」
全員が同時に叫んだ。
カエルタールは片眉を上げる。
「私は認めると言った。二人で結婚するがいい」
ライセラの顔が一瞬で真っ赤になる。
「お、お、お、お父様!?」
彼女はカエルタールを指差した。
「さっきまで私たちを殺そうとしてたじゃない! それなのに今度は結婚を認めるって、どういうこと!?」
ガリックは壁に叩きつけられた身体を押さえながら、カエルタールを見る。
「お前……情緒不安定すぎないか?」
カエルタールは至って冷静だった。
「先ほどまではそうするつもりだった。しかし、この男が持つ可能性……そして、この世界に与えられる影響を知ったからな」
蓮は眉をひそめる。
「この世界……?」
そして自分を指差す。
「でも、あんたたちって、この世界の悪役なんじゃないのか?」
ライセラが蓮を見る。
「蓮……?」
蓮は自分の言葉に気づき、慌てて言い直す。
「い、いや……みんながって意味じゃなくて! ほ、大半が! ライセラは絶対に罪のない人を傷つけたりしないし!」
カエルタールは小さく息を吐いた。
「松田蓮。お前には、まだまだ学ぶべきことが多いようだな」
ワイングラスをテーブルへ置く。
「この世界は、白と黒だけで分けられるほど単純ではない」
蓮は黙り込む。
カエルタールは続けた。
「我々、悪魔はな……そもそも――」
そこで言葉を止める。
疑問に満ちた蓮の表情を見て、話すのをやめた。
「……私の話を聞いているだけでは、お前は成長しないだろう」
蓮は眉をひそめる。
「いやいや……最初は殺そうとして、今度は世界を救えるとか言い出してるんだぞ? それなら説明くらいしてくれよ」
蓮はワイングラスを指差した。
「まさか……酒に弱いのか?」
そしてガリックを見る。
「それとも、ガリックが言ってたみたいに……」
カエルタールは立ち上がった。
「エラリオンへ行け」
全員が目を見開いた。
リセラが真っ先に尋ねる。
「どうして?」
蓮も眉をひそめる。
「エラリオン? そこに何があるんだ?」
ガリックが答えた。
「エラリオンはエルフたちの土地だ、蓮……エルフの女たちもいるぞ」
蓮はガリックをちらりと見る。
「ああ……そういや、そんな話をしてたな」
ライセラも尋ねる。
「でも、どうしてエラリオンなの?」
カエルタールは蓮を真っ直ぐに見つめた。
「まずは、お前自身が何を宿しているのかを理解しなければならない。そして、それと会話する術を身につける必要がある」
一拍置く。
「お前が宿しているものが……女神ルミナリアを滅ぼす可能性がある、と言えば分かるか?」
全員が息を呑む。
蓮の目が大きく見開かれた。
「め、女神を……滅ぼす!?」
カエルタールは首を横に振る。
「今の私がお前に説明しても意味はない」
そして、ゆっくりと広間を歩く。
「エルフたちの土地は、精霊にとって聖域だ。そして今なら、私にも見える……」
カエルタールの目が細くなる。
「お前の銀の紐がな」
蓮は頭へ手をやる。
「ぎ、銀の紐……? 何だそれ?」
カエルタールはため息をついた。
「エルフの土地へ行き、学べることをすべて学べ」
そして蓮を見る。
「お前自身を完全に理解できるようになったら、ここへ戻ってこい。その時、どうすれば我々が解放されるのかを話そう」
カエルタールは一度言葉を切る。
「そして、これは我々だけの話ではない」
その表情が真剣なものへ変わる。
「世界全体の話だ、蓮」
ライセラは困惑したまま父を見る。
「……本当に、私のお父様なの?」
カエルタールはライセラを見る。
「そうだ」
数秒の沈黙。
「私は、この世界にもう希望など残されていないと思っていた。だからこそ……与えられた役割を演じ続けることにしたのだ」
カエルタールの口元に小さな笑みが浮かぶ。
「だが……状況は本当に変わったようだな」
その瞬間――
ドォォォォォン!
巨大な爆発音が広間を揺るがした。
カエルタール以外の全員が驚く。
リセラが周囲を見回した。
「今の音、何!?」
カエルタールは窓の方へ顔を向ける。
「外からだな」
ゆっくりと窓へ歩いていく。
そして外を覗き込む。
「どうやら、吸血鬼が少人数の集団と戦っているようだ」
カエルタールは蓮を見る。
「お前の仲間か?」
蓮は目を見開く。
「外に!?」
全員が一斉に窓へ駆け寄る。
城の外。
そこでは、ミレリャ、ダルガン、シルヴァラが必死に戦っていた。
そして――
ゴローが吸血鬼と一対一で激しくぶつかり合っている。
拳と拳が衝突するたびに――
ドォン!
またしても城全体に轟音が響き渡る。
ガリックは即座に振り返った。
「ミレリャァァァ!」
そして走り出す。
リセラもその後を追った。
「待って!」
カエルタールはその場に残ったまま、二人の背中を見送る。
「私は……お前たちと共に行くことはできない」
一度言葉を切る。
「……本当は、行きたいところだがな」
ライセラは父を見つめる。
「さっき言ってた……お兄様のこと、本当だったの?」
カエルタールはライセラを見る。
「本当に王位をあいつへ譲るつもりだったのか、と?」
「……うん」
ライセラは黙り込む。
カエルタールは続けた。
「そうだ」
「……」
「私は知っていた。あいつなら、すべてを動かし、最後にはこの国を灰にしてしまうだろうとな」
そして、再び窓の外を見る。
「私はただ……すべてが崩れ落ちていくところを見たかった」
声が少しだけ低くなる。
「与えられた役割を演じ続けることに……疲れていたのだ」
そして蓮を見る。
「だが、お前が現れてから……何もかもが変わった、蓮」
蓮はすでに出口へ向かって走り出していた。
「感謝すればいいのか、蹴飛ばせばいいのか分からないけど……今は仲間を助けなきゃならない!」
ライセラも後を追う。
「蓮!」
カエルタールが呼び止めた。
「蓮。最後に一つだけ」
蓮は扉の前で足を止め、振り返る。
「何だ?」
カエルタールの表情が変わる。
「――あの殺人鬼の女……お前が仲間にしたのか?」
蓮の背筋に悪寒が走った。
「殺人鬼……?」
蓮は真剣な表情でカエルタールを見る。
「……リセラのことか?」
蓮は生唾を飲み込む。
「も、もちろん。俺が仲間にした」
カエルタールは蓮をじっと見つめる。
「そうか……」
目を細める。
「なら、気をつけろ」
蓮は眉をひそめる。
「……あんたまで?」
「彼女の魔力が……妙なのだ」
カエルタールは一度言葉を切る。
「それに、彼女の行動もな。あの状況でも、私は彼女が力を抑えているのを感じた」
蓮は困惑する。
「え? どういう意味だ?」
二秒ほどの沈黙。
そしてカエルタールは静かに答えた。
「……ただ、彼女から目を離すな」
低く、真剣な声だった。
そして出口を指差す。
「それより、お前は仲間を助けなくていいのか?」
蓮は目を見開く。
「しまった!」
蓮は勢いよく振り返り、そのまま走り去っていった。
カエルタールは窓の前に立ったまま、外の戦いを見つめる。
そして、口元に小さな笑みを浮かべた。
「……どうやら、チェックメイトは近いようだな、ルミナリア」
ライセラは黙って、走り去った蓮の背中を見つめていた。
(……蓮)
四人はリオレンとの戦いへ向かい、全速力で走っていく。
その頃――
ゴローはリオレンと真正面から向かい合っていた。
吸血鬼は目を細める。
「お前たちはライセラの気を逸らしている。さっさと消えてもらおう!」
ゴローは拳を強く握り締めた。
「だったら、俺を倒してから行け。単純な話だ!」
ダルガンは傷ついた自分の盾を見つめる。
「こいつ……俺の鋼鉄の盾を壊しやがった……!」
シルヴァラは巨大な矢をつがえ、リオレンへ狙いを定める。
「速すぎる……私でも捉えきれない!」
ミレリャは注意深く吸血鬼の動きを観察していた。
「でも……あいつ、少しずつ疲れてきてる!」
ゴローは戦闘態勢を取る。
「集中しろ。これが決着をつける一撃になるかもしれない!」
しかし、ゴローの心の中には警戒心が残っていた。
(……この二人、どうにも信用できないな……)




