第17話 ― 受け継がれるものの重み
リセラは、父親と向かい合う長い食卓に静かに腰掛けていた。
彼女の視線は、父の手にあるワイングラスをさりげなく追っていた。
(もう四杯目……)
そう胸の内でつぶやく。
カエルサル・ヴェイロンはワインをもう一口飲むと、ゆっくりと娘へ視線を向けた。
「さて、リセラ・ヴェイロン。」
リセラは顔を上げる。
「……何でしょう?」
「この国を、お前はどう思う?」
リセラは肉を一切れゆっくり噛み終えてから答えた。
「どう思うか、ですか?」
肩を軽くすくめる。
「停滞している国……だと思います。」
少し間を置いて続けた。
「父上も、それはよくご存じのはずです。」
カエルサルは肘をテーブルについた。
「では、その状況を変えるために、お前なら何をする?」
リセラは一切迷うことなく答えた。
「私の研究を、この国のために役立てます。」
そして続ける。
「そうすれば、私の傍で働く人も増えます。一人より、何倍もの頭脳が集まれば、もっと良い答えを見つけられるはずです。」
バキィッ!!
カエルサルはワイングラスを勢いよくテーブルへ叩きつけた。
その衝撃で、グラスには大きなひびが走る。
リセラは思わず視線をグラスへ向けた。
今にも真っ二つに割れそうだった。
カエルサルは低く言った。
「リセラ。」
「お前は何年も、その『世界』という話をしているな。」
その目が鋭く細められる。
「そろそろ現実を受け入れる時だ。」
「この世界は昔から変わらん。」
「その馬鹿げた理論を追い続ければ……」
さらに目を細める。
「いずれ気が狂うぞ。」
リセラは静かに息を吸った。
「何度も説明しました。」
父を真っ直ぐ見つめる。
「この世界には、確かに異常があります。」
その声に力が宿る。
「理由もなく人が突然死ぬ。」
「遺体には何の異常も見つからない。」
「そして――物が何もない場所から突然現れることさえある。」
ドォン!!
カエルサルの拳がテーブルを激しく叩いた。
皿や食器が一斉に震える。
彼は最後まで言わせることなく、娘の言葉を遮った。
食堂を静寂が包む。
数秒後、カエルサルは再び口を開いた。
「……いいだろう。」
「お前の答えは聞いた。」
感情を一切浮かべない目で娘を見つめる。
「この国を、お前に任せるわけにはいかん。」
リセラは何も言わず、その場に立ち尽くした。
カエルサルは続ける。
「だから、お前には二つの選択肢を与える。」
二本の指を立てた。
「一つ目。」
「結婚することだ。」
「そして、お前の子がこの国を継ぐ。」
一本指を下ろす。
「二つ目。」
「魔族の国を追放される。」
少し間を置く。
「……我らの文化を裏切った罪によってな。」
リセラの瞳が大きく見開かれた。
勢いよく両手をテーブルにつき、そのまま立ち上がる。
「……何ですって!?」
「そんな理不尽な話がありますか!?」
カエルサルは何事もなかったかのようにワインをもう一口飲んだ。
「選択肢はそれだけだ。」
グラスを静かにテーブルへ戻す。
「空虚な理想だけを追う者に、この国を任せることはできん。」
リセラはゆっくりと俯いた。
(どうすれば……。)
(父上と戦えるの……?)
そっとカエルサルを見る。
彼は目を閉じたまま、静かにワインを味わっていた。
(今なら隙があるように見える……。)
彼女は気づかれないよう、片足をわずかに前へ動かした。
「……やめておけ。」
リセラの身体が凍りつく。
視線を父へ戻した。
カエルサルは目を閉じたまま続ける。
「お前では私には勝てん。」
小さく笑みを浮かべた。
「だからこそ、娘であるお前に二つの道を与えているのだ。」
リセラは少し声を落とした。
「ですが……。」
「私の研究は……。」
「もし結婚を選ぶのなら――」
カエルサルが遮る。
「その相手は、私が見定める。」
リセラはしばらく沈黙した後、静かに尋ねた。
「……では。」
「もし追放を選んだら?」
「……もし追放を選んだら?」
カエルサルはようやく目を開いた。
その眼差しは冷たかった。
「お前はこの国を去ることになる。」
「そして、二度とこの地に足を踏み入れたなら……」
その声はさらに重みを帯びる。
「死罪だ。」
彼はグラスに残っていたワインを飲み干した。
満足そうに微笑む。
「ふむ……。」
「このワインは料理によく合うな。」
リセラは眉をひそめた。
「ですが、もし私が追放されたら……」
「父上には後継者がいなくなるではありませんか。」
カエルサルは静かに笑う。
「ああ……。」
「まだ一人いる。」
その笑みはさらに深くなった。
「本来なら第一候補ではなかった。」
「だが、残された選択肢は彼しかいない。」
リセラの目は再び大きく見開かれた。
ゆっくりと口元へ手を当てる。
三秒ほど、完全な沈黙が流れた。
「……そ、そんな。」
首を横に振る。
「本気でおっしゃっているのですか……。」
声が震える。
「……あの人を?」
カエルサルは片眉を上げた。
「実の兄を、そのように呼ぶものではない。」
リセラはすぐさま言い返した。
「兄上にこの国を任せるなんて、なおさら駄目です!」
「そんなことになれば、大惨事になります!」
しかし、カエルサルの表情は微動だにしなかった。
「ドラヴィオンは短気だ。」
「だが、お前とは違い……」
「我らの文化を尊重している。」
リセラは拳を強く握り締めた。
「そんなの……冗談でしょう。」
そして声を張り上げた。
「分かりました!」
「私が後継者になります!」
「王国の慣習にも従います!」
カエルサルはしばらく娘を見つめ続けた。
やがて、小さく笑う。
「お前は本当に分かりやすいな、リセラ。」
彼は再びグラスを口元へ運び、ワインを一口飲んだ。
「お前に、その気などないことくらい見れば分かる。」
その瞳は再び冷え切っていた。
「機会はもう与えた。」
カエルサルはゆっくりと席を立つ。
その表情に迷いはない。
「選択肢は伝えた。」
背を向けながら言った。
「自分の城へ戻れ。」
「そして、どうするかよく考えることだ。」
リセラは歯を食いしばった。
それ以上何も言わず、大きな両開きの扉へ向かって歩き出す。
(父上は正気じゃない……。)
(ドラヴィオンを後継者にするなんて……。)
(それは、この世界全体にとってさえ危険だ。)
重厚な扉が、彼女の背後で静かに閉まった。
数分後。
リセラは紫色のガラスランタンで飾られた馬車へ乗り込んだ。
馬車は峡谷に囲まれ、まばらな木々が立ち並ぶ街道を進んでいく。
彼女は窓の外をぼんやりと見つめ続けていた。
(それを止めるには……。)
小さくため息をつく。
(結婚するしかないのね……。)
頬杖をつく。
(少なくとも、相手だけは自分で選ばせてもらえる……。)
彼女は一瞬だけ目を閉じた。
(でも……。)
(私は一度も結婚なんて望んだことはない。)
(私の研究……。)
(それが私のすべてなのだから。)
馬車は、小さな城へ向かって走り続けた。
その頃――
巨大な峡谷の底では、
一人の衛兵が地下牢の入口を巡回していた。
「落ち着いてください。」
「あなたはここから出られないことをご存じでしょう。」
分厚い鉄格子の向こうから、低い声が響く。
「俺がここを出たら……」
その声には憎悪が満ちていた。
「最初に八つ裂きにするのは、お前だ。」
衛兵は肩を震わせて笑った。
「それも……」
「出られればの話だ。」
腕を組む。
「魔王様でさえ捕らえるのに相当苦労された。」
「この牢へ放り込んだのも、魔王様ご本人だ。」
中からすぐに声が返ってくる。
「俺は必ずここを出る。」
「そして、他の王国をすべて滅ぼしてやる。」
衛兵はため息をついた。
「少し休んだほうがいい。」
「今日はずいぶん気が立っているな。」
彼は松明を掲げ、牢の奥を照らした。
牢の最深部には、
青い髪をした一人の魔族がいた。
両腕、両脚、そして胴体は、
太い鎖によって石壁へ直接つながれている。
衛兵は小さく笑う。
「だからこそ、お前には毎日毒を投与しているんだ。」
「それがお前の力を抑え込める唯一の方法だからな。」
その頃――
レンはガリックの片腕を自分の肩に回し、歩くのを支えていた。
反対側では、ミレリアが同じように支えている。
そのとき、
リセラが地平線の向こうを指差した。
「――あそこ!」
ドラヴェンホールド王国の控えめな制服を着た男が、
一本の木にもたれ、腕を組んで立っていた。
小さな一行に気づくと、
木から身体を離し、そのまま彼らの方へ歩いてくる。
レンは男をじっと見つめた。
「……あいつがレオンの連絡役か?」
ミレリアも男を観察した。
「襲ってくるようには見えないわね。」
リセラは片手を腰に当てる。
「あなたは誰?」
男は一行の前で足を止めた。
「君たちが代わりのメンバーか。」
少し間を置く。
「変更については、レオンから聞いている。」
レンは眉をひそめた。
「代わりって?」
男は頷いた。
「ああ。伝書鷲で知らせを受けた。」
視線を一人ひとりへ向ける。
「……あまり強そうには見えないな。」
肩をすくめる。
「まあ、任務くらいはこなせるだろう。」
ミレリアが一歩前へ出た。
「分かったわ。」
「それで、任務の内容は?」
彼女はガリックを見た。
「私たちの仲間は、一刻も早く解毒薬を見つけなきゃいけないの。」
男は軽く頷いた。
「ブラム・アルダーと呼んでくれ。」
彼もガリックへ目を向ける。
「それと……君の仲間は運が良かった。」
街道の先を指差した。
「この近くに町がある。」
「小さな診療所もあるから、助けてもらえるかもしれない。」
リセラが説明する。
「毒を受けたの。」
ブラムは顎を軽く掻いた。
「毒については詳しくない。」
「だが、その町なら何か情報は得られるだろう。」
再び一同を見渡す。
「さて、よく聞いてくれ。」
「これから任務の説明をする。」
全員が黙った。
ガリックは額から汗を流しながら、ごくりと唾を飲み込む。
ブラムは話し始めた。
「ドラヴェンホールド王国は、ドラクサル王国と魔族の国が秘密裏に同盟を結ぼうとしていると疑っている。」
四人は互いに顔を見合わせた。
ブラムは続ける。
「君たちの任務は、その噂が真実かどうかを確かめることだ。」
レンは小さくうなずいた。
「……わかった。」
ブラムは一行の横を通り過ぎ、そのまま歩き続けた。
「数日後、またこの場所へ戻ってくる。」
そう言って、片手を軽く上げて別れの合図をする。
振り返ることなく、最後に言い残した。
「だが、俺を待つ必要はない。」
「さあ、行け。」
四人は街道を歩き始めた。
しばらく進むと――
何かが視界に入った。
「街だ!」
全員が顔を上げる。
レンは安堵したように笑みを浮かべた。
「やっと……」
「着いたな。」
数分後、一行は街の門へとたどり着いた。
レンは周囲を見回した。
すると、不意にあるものが目に留まる。
「あれは……」
彼は何度か瞬きをした。
「二本足で歩いてる……トカゲ?」
ガリックは小さく笑った。
「あれはリザードマンだ。」
「この世界に存在する多くの種族の一つさ。」
その時、一人のリザードマンが彼らのもとへ歩み寄ってきた。
「こんにちは。」
軽く一礼する。
「ヴェシュカ・ホロウへようこそ。」
「私はスザリク・ヴェシュと申します。」
四人は互いに顔を見合わせた。
最初に口を開いたのはミレリアだった。
「こ、こんにちは……。」
レンは笑顔を見せる。
「はじめまして。」
「俺は松田レンです。」
仲間たちを指しながら紹介した。
「こちらはリセラ、ミレリア、そしてガリックです。」
スザリクは、レンとミレリアに支えられているガリックへ視線を向けた。
その表情がすぐに変わる。
「大丈夫ですか?」
ガリックは苦しそうに息をしていた。
「だ、大丈夫……」
「はぁ……。」
スザリクの目はすぐに、ガリックの顔に浮かぶ黒い血管を捉えた。
その表情は一気に真剣になる。
「これは……ヴェイルスリクスの症状ですね。」
ミレリアが目を見開いた。
「えっ?」
スザリクはすぐに答えた。
「我が国で作られている毒です。」
「あなた方は、シルサラ・エッセンスを探しているのでしょう?」
レンは一歩前へ出る。
「解毒薬ですか?」
「ええ。」
スザリクはうなずいた。
「この街にも、少量なら常備されていることが多いです。」
「ですが、カル=ズル・ドラクサルの町には、もっと多く保管されています。」
レンは迷わず答えた。
「ここに少しでもあるなら……」
ガリックへ視線を向ける。
「それで十分です。」
「仲間を助けたいんです。」
スザリクは大通りを指差した。
「この道をまっすぐ進んでください。」
「突き当たりを左へ曲がると――」
「小さな診療所があります。」
「もしそこで解毒薬が見つからなければ……」
少し間を置いてから続けた。
「カル=ズル・ドラクサルまで行くしかありません。」
穏やかな笑みを浮かべる。
「どうか、ご武運を。」
リセラはリザードマンをしばらく見つめていた。
そして、控えめに微笑む。
「あなたは……」
「とても親切なんですね。」
スザリクは自然な笑みを返した。
「皆さんは、良い人たちに見えますから。」
リセラは静かに視線を落とした。
(……良い人たち……?)
彼女は何も言わなかった。
四人はそのまま小さな診療所へ向かって歩き始めた。
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