第16話 忍び寄る影
カエルサー・ヴェイロンは、巨大な峡谷を囲むように築かれた漆黒の城の回廊を、一人静かに歩いていた。
彼の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「今夜の晩餐が楽しみだ……娘よ。」
そのとき、長い髪をなびかせた一人の女性が音もなく背後へ近づき、そっと彼の胸に手を添えた。
彼女もまた、カエルサーと同じように角を持っていた。
「何を考えているの?」
カエルサーは口元を少しだけ緩めた。
「この国を誰に継がせるべきか、考えていた。」
彼女は小さく首を傾げる。
「あなたには娘がいるじゃない。」
彼は静かにため息をついた。
「だが、あの子は一度もそれを望んだことがない。」
しばらく沈黙が流れる。
「……だが、もう決めた。」
彼は彼女の方へ向き直った。
「今夜は上品な服を着てくれ、レナ。」
返事を待つことなく、そのまま廊下を歩き去り、自室の大きな両開きの扉を押し開けた。
その頃――
獅子のギルドでは、マリがいつも通り受付で冒険者たちの対応をしていた。
いつもと変わらない一日。
そこへ突然、金髪の女性弓使いと、重厚な鎧を身にまとった大柄な戦士が受付へ歩いてくる。
二人の姿を見た瞬間、マリの表情がぱっと明るくなった。
「わぁっ! シルヴァラ・ナイトヴェールさんとダーガン・ストーンハートさん! お、お会いできて嬉しいです! 獅子のギルド最強のお二人じゃないですか!」
しかし、シルヴァラは冷たく言い放つ。
「お世辞はいいわ、マリ。」
ダーガンは大きな腕を受付に乗せた。
「レオンはいるか?」
「はい。執務室にいます。」
シルヴァラは軽く頷く。
「ちょうどいい。今すぐ会いに行きましょう。」
マリは苦笑した。
「少し休まれなくても大丈夫なんですか?」
「いや。」
ダーガンは即答した。
「問題ない。」
マリは驚いたように目を見開く。
「でも、お二人とも魔族領に一週間もいたんですよ……?」
すでに階段へ向かって歩き始めていたダーガンは、振り返ることなく答えた。
「マリ。」
「俺たちはダイヤモンドランクの冒険者だ。」
自信に満ちた笑みを浮かべる。
「俺たちがどれほど強いか、お前も知ってるだろ。」
マリは小さく笑った。
「ふふっ……そうですね。」
軽く手を振る。
「お気をつけて!」
二人の姿が階段の向こうへ消えると、マリは大きく息を吐いた。
「ふぅ……。」
そこへ、新人の女性職員が遠慮がちに近づいてくる。
「せ、先輩……さっきの人たちは誰なんですか?」
マリは首を傾げた。
「え?」
少女は階段の方を指差す。
「今、上へ行ったお二人です。」
マリは優しく笑った。
「ああ……あなた、ギルドに入ってまだ数週間だったわよね?」
新人はこくりと頷いた。
マリは腕を組む。
「ダイヤモンドランクは、ギルドマスターの一歩手前の階級なの。」
少し間を置く。
「そして、あの二人はまさにそのランクにいるのよ。」
さらに続けた。
「二人が力を合わせれば、魔王軍の幹部クラスを何人も倒せるほど強いわ。」
新人は目を輝かせた。
「す、すごい……!」
マリは少し疲れたような笑みを浮かべる。
「ええ……。」
ため息をついた。
「本当に、すごい人たちなのよ。」
レオンの執務室――
シルヴァラとダーガンは腕を組み、机の前に立っていた。
レオンは深く息を吸う。
「君たちには、ある件を調べてもらうつもりだった……。」
少し間を置く。
「だが、もう心配はいらない。すでに別のチームを派遣した。」
シルヴァラは眉をひそめた。
「……は?」
鋭い視線を向ける。
「誰を送ったの?」
その表情は真剣そのものだった。
「またギルドの仲間を失うのが怖くないの?」
ダーガンは率直に言う。
「任務の場所だけ教えろ。」
薄く笑う。
「お前が送った連中なら、俺たちが交代してやる。」
レオンは数秒間、窓の外を見つめていた。
シルヴァラは腕を組み直す。
「レオン。」
「私たちの名に泥を塗らないで。」
ようやくレオンは二人へ向き直った。
「任務先はドラクサールだ。」
二人は黙って続きを待つ。
「四人の小隊を派遣した。」
「そのうち一人が毒を受けている。」
「調査の結果、その解毒薬はドラクサールにある可能性が高い。」
ダーガンは顎に手を当てた。
「ふむ……。」
「その毒については聞いたことがある。」
レオンは頷く。
「君たちも裏社会の噂くらいは耳にしているだろう。」
二人を見渡す。
「魔王軍がドラクサール王国と同盟を結ぼうとしている……そんな噂だ。」
シルヴァラは片眉を上げた。
「それで?」
レオンは落ち着いた口調で答える。
「派遣した部隊には、その噂が事実かどうかを確かめてもらっている。」
シルヴァラは肩をすくめた。
「へぇ……。」
「そういうことだったのね。」
薄く微笑む。
「でも、その手の任務なら私の方がずっと得意よ。」
ダーガンは首を横に振る。
「俺は遠慮しておく。」
「潜入や諜報は性に合わない。」
シルヴァラは彼を見た。
「援護だけでいいわ。」
「あなたが必要なの。」
ダーガンは大きくため息をついた。
「その代わり、丸焼きの豚を一頭おごれよ。」
レオンは笑みを浮かべた。
「構わない。」
「君たちの任務は単純だ。」
「私の部隊を支援すること。」
「そして、あの噂が本当かどうか確認してくれ。」
「君たちは他国でも多少は顔が知られている。」
「だが、私が送った部隊は誰にも知られていない。」
「……理由は分かるな?」
シルヴァラはため息をついた。
「私たちを馬鹿だと思わないで。」
扉へ向かう。
「目立たないように、あなたの部隊を支援するだけよ。」
レオンは満足そうに頷いた。
「それでいい。」
「彼らは今朝出発した。」
ダーガンは笑う。
「一日あれば追いつけるな。」
レオンは眉を上げた。
「一日で?」
シルヴァラはくすりと笑った。
「どうせ、あの怠け者の御者を使ったんでしょう?」
「魔獣領域を抜ける前に居眠りしてるに決まってるわ。」
レオンは肩をすくめる。
「仕事のやり方までは口出しできない。」
苦笑する。
「……だが、その通りだ。」
「ジャックだよ。」
シルヴァラは背を向けた。
「それじゃ、行きましょう。」
「またね。」
扉が静かに閉まる。
レオンは再び窓の外へ目を向けた。
(どうか、すべてが無事に終わりますように……。)
数時間後――
気づけば、あっという間に時間は過ぎ去り、辺りは夕暮れから夜へと変わり始めていた。
馬車の中では、ギャリックが扉にもたれかかりながら眠っている。
今にもよだれを垂らしそうなほど深い眠りだった。
ミレイリアは心配そうにレンを見た。
「レン……。」
「ギャリックの様子、かなり悪そう。」
レンはギャリックの肩を支え、座り直させる。
「おい、しっかりしろ。」
「もう少しだ。」
ギャリックはゆっくりと頭を揺らした。
「あぁ……。」
「くそ……。」
「みんな、悪い……。」
「なんだか……体に力が入らねぇ……。」
リセーラは窓の外を眺めながら呟く。
「まだ着かないのかしら……。」
その瞬間――
ガタンッ!!
馬車が突然急停止した。
勢いで全員が前へ投げ出される。
ミレイリアはギャリックの上へ倒れ込み、
リセーラはそのままレンの胸へ倒れ込んだ。
ミレイリアは二人を一瞬見つめたが、すぐに視線を逸らす。
「えっ……。」
「な、何があったの?」
「どうして急に止まったの!?」
外から御者の明るい声が響く。
「着いたぞー!」
全員が驚いて目を見開いた。
急いで馬車を降りる。
そこに広がっていたのは、木々に囲まれた一本の土道だけだった。
レンは辺りを見回す。
「……ここ?」
ジャックは頷く。
「俺が受けた指示は、お前たちをここまで連れて来ることだった。」
一本の道を指差した。
「この道を真っすぐ進め。」
「帝国の兵士は、この先の近くにいる。」
ミレイリアが尋ねる。
「あとどれくらいで着きますか?」
ジャックは少し考えてから答えた。
「普通に歩けば……。」
「十分くらいだ。」
ギャリックへ目を向ける。
「だが、その兄ちゃんは怪我してるだろ。」
「二十分は見ておいた方がいい。」
ギャリックは眉をひそめる。
「え……。」
「どうして分かった?」
ジャックは笑った。
「歩き方を見れば分かるさ。」
「少し不自然だからな。」
肩をすくめる。
「それに、この辺へ遊びに来る物好きなんていない。」
再び馬車へ乗り込んだ。
「さて。」
「俺は戻る。」
「レオンに報告しないとな。」
「じゃあな。」
レンは慌てて手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと待――!」
しかし、その言葉を最後まで言う前に、
ギャリックはゆっくり歩き始めていた。
「だ、大丈夫だ……。」
「ぐっ……。」
「とにかく……。」
「先へ行こう……。」
ミレイリアが慌てて支える。
「ギャリック……!」
「あなた……。」
ギャリックは苦しそうに息を吐く。
「早く着けば……。」
「ぐっ……。」
「その分早く……解毒薬を飲める……。」
「はぁ……はぁ……。」
リセーラも歩き出した。
「彼の言う通りね。」
「でも、私たちは私たちを毒にかけたあの老人がどこにいるのかすら分からない。」
レンとミレイリアは顔を見合わせる。
二人は同時にため息をついた。
そして、ゆっくりと歩き始める。
(本当に……あの町に解毒薬なんてあるのだろうか……。)
レンはそんな不安を胸に抱いていた。
夜――
リセラは、闇に包まれた巨大な城の前で立ち止まっていた。
その身には、上品な青いドレスが美しく揺れている。
重厚な両開きの扉が、ゆっくりと音を立てて開かれた。
その先には、青い髪と顔に刻まれたわずかな皺、そして彼女とよく似た一本角を持つ男が立っていた。
男は穏やかな笑みを浮かべる。
「娘よ……。」
「来てくれて嬉しい。」
「会えて本当に良かった。」
リセラは落ち着いた口調で答えた。
「お呼びになったのは、お父様でしょう。」
カエルサーは微笑む。
「ああ。」
「それでも……。」
「来てくれたことが嬉しいのだ。」
彼は近くに控えていた、大きな戦斧を持つ悪魔へ視線を向けた。
「誰も通すな。」
「今から娘と話がある。」
悪魔は深く頭を下げる。
「かしこまりました、カエルサー・ヴェイロン様!」
父娘は磨き上げられた石で造られた広間へと歩いていく。
部屋の中央には、巨大な素朴な木製のテーブルが置かれていた。
カエルサーはその上座へ腰を下ろす。
「座りなさい、リセラ。」
両手を机の上に置く。
「この国の新たな計画について話しておきたい。」
静かに微笑んだ。
「もちろん……。」
「お前自身の未来についてもな。」
リセラはゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
一筋の汗が頬を伝う。
彼女は小さく唾を飲み込む。
(……お父様は、一体何を企んでいるの?)




