第十五章 迫り来る危機
リセラは、小さな城の廊下を歩いている途中で、二人の衛兵とすれ違った。
「おはようございます、リセラ様。」
彼女は軽く微笑む。
「おはよう。」
そのうちの一人が彼女をしばらく見つめたあと、少し心配そうに口を開いた。
「リセラ様……あまりお顔の色が良くありませんが。ちゃんとお休みになっていますか?」
リセラは驚いたように瞬きをした。
「え? もちろんよ。……あ、そういえば、使者は来た?」
二人の衛兵は顔を見合わせた。
「はい。数時間前に使者が参りました。明日の夕食に、お父上がお待ちだとのことです。」
リセラは目を見開いた。
「な、なんで今まで教えてくれなかったの!?」
衛兵は気まずそうに頭をかいた。
「それは……リセラ様のご命令でしたので。お仕事中は決して邪魔をするな、と。」
リセラは両手で頭を抱えた。
「ああぁ……本気?」
彼女は深く息をつく。
「今度は何の用なのかしら……」
「お城まではここから数時間ほどです。まだ時間はあります。」
リセラはため息を漏らした。
「よりによって今なんて……。まだ片付けなきゃいけないことが山ほどあるのに……。それに、もしリオレンが来たら?」
一人の衛兵が眉をひそめる。
「ああ……あの吸血鬼ですか?」
もう一人は腕を組んだ。
「姫様。あの男とは、もう関わらない方がよろしいかと。」
リセラは目を丸くし、すぐに人差し指を口元へ当てた。
「シッ! 声が大きいわ!」
「も、申し訳ありません。」
彼女はもう一度深呼吸した。
「私は明日出発するわ。今日はまだ仕事がたくさん残ってるから。」
それ以上何も言わず、彼女は城の中へ戻っていった。
自室へ入ると、窓際に丁寧に掛けられた上品な青いドレスが目に入った。
その鮮やかな青は、彼女の銀色の髪によく映えていた。
リセラは小さく微笑む。
「……夕食会なら、きっとこれを着ろって言うんでしょうね。」
やがて彼女の視線は窓の外へと向けられる。
「いい知らせを持って、早く帰ってきて……リオレン。」
獅子のギルド近くにある建物の屋根の上。
リオレンは身じろぎ一つせず、人々の動きを静かに見下ろしていた。
ギルドの正面扉は、絶え間なく開いては閉じている。
しばらくすると、一人の女性職員が建物から出てきた。
しかも一人で。
(あの女なら、勇者がどこへ向かうのか知っているはずだ。)
リオレンは音もなく屋根伝いに彼女の後を追い始めた。
数区画進んだところで、女性は質素な一軒家へ入っていく。
リオレンはそのまま屋根の上で、何時間も辛抱強く待ち続けた。
やがて周囲の家々の明かりが一つ、また一つと消えていく。
標的の家の灯りも、ついに消えた。
(今だ。)
物音一つ立てず、開け放たれたままの窓へと滑り込む。
女性はすでにベッドで眠っていた。
リオレンはゆっくり近づき、そっと彼女の脚に触れる。
「驚かないでくれ……」
女性は飛び起きた。
「きゃああああ――!」
叫び終える前に、リオレンは彼女の口を手で塞ぐ。
「シッ。聞きたいことが一つあるだけだ。」
女性は必死にもがき、拳で彼を殴ろうとする。
「君を傷つけるつもりはない。ただ……俺を信じてほしい。」
そう話す間にも、彼の深紅の瞳が静かに輝き始める。
彼には、彼女の心臓が激しく脈打つ音がはっきりと聞こえていた。
視線が、無意識に彼女の首筋へ吸い寄せられる。
脈動。
血の香り。
一瞬だけ、本能が理性を上回った。
女性は、その赤く光る瞳に気付き、凍りつく。
リオレンは大きく息を吸った。
次の瞬間、壁際まで数歩後ずさる。
「はぁ……はぁ……くそ……。」
片手で顔を覆う。
「ここを……離れないと……。」
女性は怯えきった表情で彼を見つめていた。
「あ、あなた……吸血鬼なの?」
リオレンはゆっくり顔を上げる。
「勇者がドラクターへ向かっていることは知っている。だが、そこで何をするつもりなのかを知りたい。」
女性はベッドのそばで震える声を漏らした。
「あなた……私を殺しに来たの?」
「勇者はドラクター王都に用があるのか?」
二人の間に数秒の沈黙が流れる。
やがてリオレンはため息をついた。
「このままじゃ話が進まないな。」
女性は静かに息を整える。
「私は……何年も吸血鬼について研究しています……。どの文献にも怪物だと書かれていました。でも……あなたは今、こうして私の目の前にいます……。」
リオレンは苦笑を浮かべた。
「まあ……確かに俺は吸血鬼だ。でも――」
コン。
コン。
コン。
三度のノックが会話を遮った。
扉の向こうから男の声が聞こえる。
「マリ、大丈夫か!? 悲鳴が聞こえたぞ!」
リオレンは彼女を見る。
「……マリ?」
「大丈夫です! ただの悪夢でした! ありがとうございます!」
数秒の沈黙が流れた。
やがて、扉の向こうから再び声が返ってくる。
「何かあったらすぐ呼ぶんだぞ、いいな?」
「はい。ありがとうございます、グレン。」
足音が少しずつ遠ざかっていく。
リオレンはさらに数秒待ってから口を開いた。
「……行ったな。」
再びマリへ視線を向けると、彼女はまるで子どものような好奇心に満ちた目で彼を見つめていた。
「……吸血鬼。」
リオレンの額に冷や汗が浮かぶ。
「いいか。俺はただ、古竜を倒した勇者を探しているだけだ。今が動くべきタイミングなのか知りたいだけなんだ……だから、答えてくれ。」
マリは何度か瞬きをした。
「え……? 勇者……?」
リオレンの深紅の瞳が、一瞬だけ鋭く輝く。
「とぼけるな。戦士と上級魔導士を連れて旅をしていた勇者のことだ。三人で行動していたはずだ。」
マリは口を開けたまま固まっていた。
数秒間、彼女はただリオレンを見つめ、自分の考えを整理しようとしていた。
やがて、ごくりと唾を飲み込んで答える。
「わ、分かりました……。彼の名前は松田レンです。か、彼はギルドから特別任務を与えられた勇者で……」
リオレンは、その名をゆっくりと繰り返した。
「……松田、レン。」
――それが、あの男の名前か。
「俺が知りたいのは、あいつがあそこで何をするつもりなのかだけだ。あの王国は……入国審査がかなり厳しいからな。」
マリは少しためらった。
「……その人に何をするつもりなんですか? 傷つけるんですか?」
リオレンは眉をひそめた。
「いや。」
短く答えたあと、続ける。
「生きたまま、別の場所へ連れて行く必要がある。」
一瞬だけ間を置く。
「……死んでいるより、生きている方がずっと価値がある。」
マリはしばらく彼を見つめていた。
「吸血鬼に会うなんて……こんなこと、一生に一度あるかどうかです。それに……あなたは嘘をついているようには見えません。」
リオレンは眉を上げた。
「……俺が怖くないのか?」
マリは困ったように笑う。
「さっきまでは、あのベッドで殺されるんだと思っていました。でも……あなたが自分から下がったのを見て……気になったんです。」
リオレンは視線を逸らした。
「普段は本能を抑えられるんだ……。だが、もうここを離れなければならない。協力してくれないか?」
マリは数秒考え込んだ。
そして、静かに口を開く。
「レンさんたちはヴァルドロスへ向かっています。ギルドマスターから与えられた任務です。今朝、ここを出発しました。」
「まだ旅の途中か……。くそっ、王都へ向かっているのか……!」
マリは胸の前で両手を握り締める。
「……お願いです。彼を傷つけないでください。」
リオレンは小さく笑った。
「本当に変わった女だな。俺があいつを傷つけると思っていたなら、そんなことは絶対に教えなかったはずだ。」
マリは胸に手を当てる。
「まだ頭が追いついていないんです……。じゃあ、本当にレンさんがドラゴンを倒したんですね……。」
その頃には、リオレンはすでに窓際まで移動していた。
「……俺はここへ来ていない。分かったな?」
マリは微笑んだ。
「ま、またいつか来てください。あなたたちの種族のことをもっと知りたいんです。」
「……ん?」
「この国の本には……吸血鬼についての記録がほとんど残っていないんです。本当のことを知りたいんです。」
その夜、リオレンは初めて自然な笑みを浮かべた。
「……本当に変な女だ。」
勢いよく窓から飛び出し、隣家の屋根へ着地すると、そのまま夜の街へと姿を消した。
(ヴァルドロスか……くそっ。あいつらが王都に入ってしまったら……勇者を捕まえる手段がなくなる。)
マリは立ち上がり、窓辺まで歩いて外を見渡した。
しかし、そこにはもうリオレンの姿はなかった。
しばらく夜の景色を眺めたあと、彼女は胸の内でそっと呟く。
(あの人は怪物なのに……あまりにも綺麗だった……。)
空が少しずつ白み始めていた。
最初の小鳥たちが、夜明けの訪れを告げるようにさえずり始める。
レンはゆっくりと目を開け、地面から体を起こした。
「うあぁ……いてぇ……。」
隣では、ギャリックが自分の首をさすっている。
「こんなに痛かったなんて忘れてたぜ……くそっ……。」
そのとき、馬車の扉が開いた。
リセーラとミレイリアが、大きなあくびをしながら降りてくる。
「ふぁ……ありがとう、二人とも。」
ギャリックは疲れたように笑った。
「礼なんていいから……立つのを手伝ってくれ。」
ミレイリアは彼の手を取り、ゆっくりと立たせる。
「ひどい顔……本当に大丈夫?」
一方で、リセーラはレンへ手を差し伸べた。
「れ、レン……。」
レンは微笑む。
「ありがとう、リセーラ。」
その時だった。
御者が大きなあくびをしながら目を覚ました。
「ふわぁぁぁ! よし、出発だ! 魔獣どもは今ぐっすり寝てる!」
一行は再び馬車へ乗り込む。
ギャリックが小声で呟いた。
「あの御者、どう見てもだらしない奴だけど……思ったより頭は切れるな。」
御者は手綱を勢いよく鳴らした。
「今日中には着くぞ! しっかりつかまってろ!」
馬車は再び勢いよく走り始めた。
レンはギャリックへ笑いかける。
「聞いただろ? 今日こそ治るぞ。」
ギャリックは首に手を当てた。
「そう願いたいな……。」
レンは黙ってギャリックを見つめる。
黒い筋のような血管は、今もゆっくりと彼の顔へ広がり続けていた。
時間が経つごとに、呪いは少しずつ進行している。
レンはしばらくその様子を見つめていた。
黒い血管は首を這うように広がり続けている。
「その黒い血管……やばいな。」
ギャリックは眉をひそめた。
「ん?」
自分の首を見ようと顔を傾けるが、当然見えるはずもない。
ミレイリアはため息をついた。
「まずいわ……もっと急がないと。」
レンは肘を窓枠に乗せる。
「それにしても……あのジジイのゴロ、一体何が目的だったんだろう。」
ギャリックは拳を握り締めた。
「あのジジイの卑怯さを思い出さない日は一日もねぇ。刃に毒を塗るなんて……卑怯者のやることだ。」
リセーラは窓の外の景色を眺めたまま静かに言った。
「……でも、戦いではとても有効な戦術よ。自分の体力を温存しながら、相手を少しずつ弱らせられるから……。」
彼女は少し俯く。
「……ごめんなさい。」
ギャリックはため息を漏らした。
「だったら、お前もあいつに毒を使えばよかったじゃねぇか、リセーラ。」
リセーラは再び窓の外へ目を向けた。
「相手が速すぎたの。そんな余裕はなかったわ。」
馬車の中に数秒間、静かな沈黙が流れる。
やがて、ギャリックはゆっくりと立ち上がった。
「ミレイリア……悪いが、前の席に座ってくれないか? 後ろ向きの席はもううんざりだ。揺れるたびに前へ放り出されそうになる。」
「も、もちろんです、ギャリックさん。」
彼女は優しく微笑んだ。
「ちゃんと休まないといけませんから。」
二人は席を入れ替えた。
ギャリックは馬車の奥の席へ移り、レンはそのままミレイリアの隣に座っていた。
その瞬間、レンの脳裏に、透けるような寝間着姿のミレイリアを見てしまったあの夜の光景がよみがえる。
思わず額にうっすらと汗が滲んだ。
そんな中、レンの視線は自然とリセラへ向いていた。
彼女は足を組み、窓の外へ流れる景色を静かに眺めている。
レンは自分でも気づかないまま、その姿を見つめ続けていた。
すると――
リセーラがゆっくりとこちらへ顔を向ける。
二人の視線が重なった。
「……レン。」
レンは瞬きをした。
「え?」
「何を見ているの?」
ミレイリアとギャリックも、何事かと二人へ視線を向ける。
レンは後頭部をかいた。
「え、えっと……どういう意味?」
リセーラは小さく首を傾げた。
「どうして私を見ていたの?」
レンは慌てて窓の外へ目を逸らす。
「み、見てないよ! ただ景色を見ていただけだ。」
少しでも自然に見せようと、そのまま外を見続ける。
「そ、それより……リセラこそ、なんで俺を見てるんだ?」
口元を覆う布の下で、小さな笑みが浮かんだ。
「私があなたを見ているって……どうして分かったの?」
彼女は少しだけ目を細める。
「もしかして……」
「本当はずっと、私を見ていたの?」
レンは完全に言葉を失った。
馬車の奥では、ギャリックが腕を組み、壁にもたれかかる。
「着いたら起こしてくれ。」
そう言って目を閉じた。
「誰が先に目を逸らすかなんて勝負を、旅の間ずっと見せられるのは勘弁だからな。」
「ギャリック……。」
ミレイリアは困ったように呟いた。
リセーラは視線を逸らし、腕を組む。
「……分かった。」
彼女は小さな声で続けた。
「ごめんなさい。」
再び馬車の中を静寂が包む。
その静けさを破るのは、街道を進む馬車の木製の車輪が、一定のリズムで軋む音だけだった。




