第13章 ― 眠れぬ夜
レンはベッドに横になり、片手を頭の下に添えていた。
その視線は、天井へと向けられている。
(……ミハルの瞳は、アオイの瞳とよく似ている……)
彼は一瞬だけ目を閉じた。
(それに、あの光……)
(結局、あれが何だったのか、今でも分からないままだ。)
レンは長く息を吐いた。
(よりによって、今になって思い出すなんてな……)
彼は黙ったまま天井を見つめ続けた。
(あの不思議な輝きのことなんて、すっかり忘れていたのに……)
レンはゆっくりと目を閉じ、眠ろうとした。
だが、眠気が訪れるよりも早く――
「きゃああっ!? だ、誰ですか!?」
悲鳴が廊下中に響き渡った。
レンは即座に目を見開き、勢いよく飛び起きると、そのまま扉へ駆け寄る。
部屋を飛び出した瞬間、自分の部屋の向かいで、まだドアノブに手をかけたまま立ち尽くしているミレイアの姿が目に入った。
二人は驚いたように顔を見合わせる。
「い、今の聞こえたか?」
レンが尋ねると、
ミレイアは素早くうなずいた。
「ガリックさんの部屋から聞こえた!」
二人は時間を無駄にすることなく廊下を駆け、部屋の前で立ち止まる。
レンはドアノブを回し、一気に扉を開け放った。
その瞬間――
二人は完全に固まった。
目を大きく見開いたまま。
ガリックはベッドにうつ伏せになっており、その背中の上にはテッサが腰掛けていた。
彼女は両手のひらを彼の背中へ押し当て、ぐっと体重をかけている。
二人に気づいたテッサは、穏やかに微笑んだ。
「あら、気になって来ちゃった?」
そう言いながら、彼女は手を止めることなくガリックの背中を揉み続ける。
「私の特製マッサージで、痛みを和らげてあげてるの。」
ガリックは必死に片腕を扉のほうへ伸ばした。
「た、助けてくれぇ!」
「この人をどかしてくれぇ!」
テッサは小さく笑う。
「あなたたちは私の大切なお客様なんだから。」
「特別サービスよ。」
レンとミレイアは顔を見合わせた。
そして――
吹き出した。
「ははは……」
ガリックは絶望したような表情になる。
「笑ってないで!」
「早く!」
「助けてくれぇ!」
廊下の反対側で、別の部屋の扉がほんの少しだけ開いた。
ライセラが顔だけをひょこっと覗かせ、こちらの様子をうかがっている。
彼女の視線はレンとミレイアを通り過ぎ、ガリックの部屋へ向かった。
「……何してるの?」
そしてレンを真っ直ぐ見つめる。
「ねぇ、レン?」
レンとミレイアは一瞬だけ顔を見合わせた。
しかし何も答えず、そのまま静かに扉を閉める。
向こう側からは、なおもガリックの叫び声が響いていた。
「いやぁぁぁ!」
「置いていくなぁぁぁ!」
二人は廊下を歩き始める。
ミレイアは笑いが止まらなかった。
「ふふっ……」
笑いすぎて浮かんだ涙を指先でぬぐう。
「今日だけは……ガリックさんの恥ずかしそうな顔が見られたね。」
「ふふふっ!」
レンも思わず笑う。
「ああ。」
「まあ、ガリックもこれで少しは良く――」
そこまで言いかけたところで、
彼の声が止まった。
気づけば視線は、再びミレイアへ向いていた。
彼女は透け感のある薄いパジャマを身にまとっており、シンプルな作りでありながら、その身体のラインはいつも以上にはっきりと浮かび上がっている。
レンは思わず息を呑んだ。
額を冷たい汗がゆっくりと伝う。
ミレイアはその視線に気づいていた。
それでも何事もないように歩き続け、
顔を向けることなく尋ねる。
「……どこ見てるの、レン?」
Ren desviou os olhos tão rápido que quase virou o pescoço.
「お、俺?」
彼は慌てて前方を指差した。
「ほら、ロビーを見てたんだよ!」
ぎこちなく笑う。
「ここからこんなによく見えるなんて知らなかったな……」
それでも誤魔化しきれず、
彼の視線はもう一度だけミレイアへ向いてしまった。
彼女は足を止めていた。
横向きのまま、真剣な表情でレンを見つめている。
レンは小さくため息をついた。
「なあ、ミレイア……」
「さっきのことなんだけど……俺は……」
ミレイアは、不思議そうな表情のままレンを見つめ続けた。
「さっきのことって?」
彼女は小さく首をかしげる。
「さっきって……いつのこと?」
レンは何度か瞬きをした。
「え……」
彼はさりげなくガリックの部屋を指さした。
「ほんの少し前だよ、ミレイア。」
後頭部をかきながら続ける。
「き、君も分かってるだろ……」
しかし、ミレイアの表情はますます困惑していく。
「ほんの少し前に……何かあったの?」
しばらく考え込んだあと、
彼女はふと目を見開いた。
「あっ!」
胸の前で両手を合わせる。
「もしかして、私がレンの足を踏んじゃったこと?」
そう言うと、小さく頭を下げた。
「本当にごめんなさい!」
レンは完全に黙り込んだ。
眉をひそめ、
数秒の沈黙のあと、ゆっくりと口を開く。
「……冗談、だよな?」
ミレイアはぱちぱちと瞬きをした。
「え?」
レンは深く息を吸う。
「俺の部屋に来たこと……覚えてないのか?」
その瞬間、
ミレイアの表情が変わった。
彼女もまた眉をひそめる。
「え?」
「レンの部屋?」
ゆっくりと首を横に振る。
「レン……私、あなたの部屋には行ってないよ。」
レンは返事をしようとして、
ゆっくりと口を開いた。
だが、
言葉は一つも出てこなかった。
(どういうことだ……?)
ミレイアは少しずつ顔を赤くしながら、
ぎこちなく笑って小さな声で尋ねる。
「も、もしかして……」
一瞬だけ視線をそらした。
「……私の夢でも見たの?」
レンは彼女の前まで歩み寄る。
その表情は真剣だった。
「ミレイア……」
深く息を吸う。
「もし期待に応えられなかったなら……ごめん。」
「でも前にも言っただろ。」
「俺には……理由があるんだ。」
ミレイアは、意味が分からないという表情のまま彼を見つめていた。
レンは少しだけ視線を落とす。
「君は綺麗だ。」
「それに……すごく魅力的だ。」
一度だけ目を閉じる。
「でも……俺にはできない。」
声は少し低くなった。
「どうしても……」
「まだ美咲のことを忘れられないんだ。」
数秒間、
廊下は完全な静寂に包まれた。
ミレイアはその場で固まる。
頬は真っ赤に染まり、
ゆっくりと口が開いていく。
「え……」
「えぇっ……?」
片手を口元へ当てる。
「ど、どうして……」
視線を逸らしながら、
身体が小さく左右に揺れ始めた。
「ど、どうしてそんなこと言うの、レン?」
レンは、自分が状況をさらにややこしくしていることに気づいた。
困ったように頭をかく。
「ミレイア……」
「お、俺、もう寝るよ。」
彼女を指差しながら言う。
「き、着替えてきたほうがいいぞ。」
ミレイアは何度か瞬きをした。
「着替える?」
「……何のこと?」
彼女の脳内で、ようやく何かが繋がった。
「え……まさか……」
ゆっくりと自分の身体へ視線を落とす。
薄く透けるパジャマが目に入った瞬間、
顔はさらに真っ赤になった。
「あっ……」
勢いよく顔を上げる。
「ま、また明日ね、レン!」
慌てて彼を指差す。
「な、何も見てないからね!」
バァン!!
勢いよく閉められた扉が、
廊下全体を震わせた。
レンは閉まった扉を数秒見つめ続ける。
やがて、小さくため息をついた。
「……何もなかったことにはできないよ、ミレイア。」
疲れたように微笑む。
「本当に……もう寝よう。」
レンは自分の部屋へ戻り、
ろうそくの火を消してベッドへ横になった。
静寂は数秒しか続かなかった。
その直後――
廊下の向こう側から、
テッサの穏やかな声が聞こえてくる。
「はい、この辺りね……」
ゴキッ。
「ぎゃああああああっ!!」
ガリックの悲鳴が、
宿中へ響き渡った。
レンは静かに目を閉じる。
その口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
「……頑張れ、ガリック。」
それからしばらくして、
時折聞こえてくるガリックの悲鳴と、
落ち着いたテッサの説明を子守歌代わりに、
レンはようやく深い眠りへと落ちていった。
レンの身体は、まるで宙に浮いているかのように軽かった。
どこまでも続く虚空を漂っているような感覚。
(……思っていた以上に疲れてたんだな。)
そう思う。
(あんなに硬いベッドなのに……まるで重さを感じない。)
そのとき――
どこからともなく、遠くで誰かの声が響いた。
「レン……」
少しだけ間が空く。
「あなたの笑顔が……恋しい……」
かすれたような声だった。
今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。
「……また、笑ってほしい。」
レンはわずかに眉をひそめた。
(……誰の声だ?)
気づかないうちに、
その声のほうへと、ゆっくり身体が引き寄せられていく。
近づけば近づくほど、
周囲にはさまざまな音が聞こえ始めた。
誰かの話し声。
笑い声。
食器が触れ合う音。
そして、
温かな料理の香りが辺りに満ちていく。
その瞬間――
誰かがそっと、自分の手を握った。
レンは目を見開いた。
(なっ……!?)
同時に、
心臓が大きく脈打つ。
「はっ……!」
レンは勢いよく目を覚ました。
荒い呼吸を繰り返しながら、ベッドの上で身体を起こす。
慌てて辺りを見回した。
数秒後。
ここが宿の自室であることを思い出す。
聞こえていた話し声は、
一階の食堂からだった。
料理の香りも、
そこから漂ってきている。
少しずつ鼓動が落ち着いていく。
レンは顔を手で覆い、
大きく息を吐いた。
「なんだよ……」
しばらく床を見つめる。
「変な夢だったな……」
頭を軽く振って気持ちを切り替えると、
立ち上がり、扉へ向かった。
そして扉を開けた瞬間――
「あっ!」
目の前にいた少女と危うくぶつかりそうになる。
二人は同時に小さく飛び退いた。
ライセラは胸に手を当てた。
「わっ、レンさん! ご、ごめんなさい!」
レンは苦笑する。
「いや、俺のほうこそごめん。」
「ぶつかるところだった。」
二人は小さく笑い合い、
そのまま廊下を歩き始めた。
階段へ視線を向けると、
ガリックがちょうど階下へ降りていくところだった。
レンは一階へ目を向ける。
そこには、
昨夜の出来事などまるでなかったかのように、
何事もなく席に座っているミレイアの姿があった。
そのとき。
焼きたてのパンの香りが廊下いっぱいに広がる。
ライセラは一瞬目を閉じ、
優しく微笑んだ。
「……いい匂い。」
レンも深く息を吸い込み、
笑みを浮かべる。
「ほんとだ。」
一階を指差した。
「行こう。」
「エドリックが何を作ったのか楽しみだな。」
食堂には、
焼きたてのパンと淹れたてのコーヒーの香りが満ちていた。
エドリックは手際よく朝食を配っている。
レンがカップを口元へ運ぼうとした、そのときだった。
コトッ。
ガリックがグラスをテーブルへ置く。
レンは眉を上げた。
「どうした?」
ガリックは自分の手を見つめ、
ゆっくりと指を握ったり開いたりした。
「……指が少し痺れる。」
ミレイアはすぐに答えた。
「あ……」
「毒だね。」
ライセラの表情が引き締まる。
「急がないと。」
ガリックは深く息を吐き、
小さく微笑んだ。
「……ありがとう。」
「また一緒に来てくれて。」
レンも笑う。
「友達って、そういうもんだろ。」
ガリックはレンへ微笑み返した。
「それに……」
「俺にはもう、帰る場所もないからな。」
数秒間、
誰も口を開かなかった。
そして次の瞬間、
全員が笑い出した。
「ははは!」
レンはどこか落ち着かない様子で、
ミレイアをちらりと見た。
その間も、
テッサは他の客に朝食を運びながら、
いつも通り店の中を歩き回っていた。
ガリックは彼女の姿を見た瞬間、
思わず視線を逸らした。
額には冷や汗が流れる。
その様子に気づいたミレイアは、
いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「ねぇ、ガリック。」
顔を少し近づける。
「テッサのマッサージって、本当にそんなに気持ちよかった?」
「ふふっ。」
ガリックはほとんど囁くような声で答えた。
「ミ、ミレイア……黙ってくれ。」
ライセラは小さく首を傾げた。
「マッサージ?」
ミレイアは待ってましたと言わんばかりに話し始める。
「昨日ね、私たちが見ちゃったの。」
「テッサがガリックの背中をマッサージしてるところ。」
レンも小さく笑った。
「ふふ。」
ガリックは顔を覆う。
「あぁ……」
「あれは思い出さなくていい。」
大きくため息をつく。
「さっさと食べて出発しよう。」
「うんうん。」
レンはまだ笑いながら答えた。
朝食を終えると、
一行は宿の外へ出た。
そのとき、
ガリックが突然足を止めた。
「待ってくれ。」
ポケットへ手を入れる。
「部屋に忘れ物をした。」
ミレイアは腕を組む。
「わかった。」
「ここで待ってる。」
ガリックはそのまま宿の中へ駆け戻った。
階段を上りながら、
心の中で呟く。
(ペンダント……。)
(ちゃんと持っていたはずなんだ。)
(きっとマッサージのときに外されたんだろう。)
部屋へ入ると、
テッサがベッドを整えていた。
彼女はガリックを見ると、
すぐに微笑んだ。
「あ、ガリック。」
小さな金色のペンダントを持ち上げる。
「これ。」
「預かってたわ。」
ガリックは大切そうに受け取る。
「預かってくれてありがとう。」
テッサは優しく笑う。
「マッサージをしてるときに外したの。」
少し首を傾げた。
「それで……」
「腰の具合はどう?」
ガリックは目を見開いた。
数秒間、
完全に固まる。
「ど、どうして……」
「わかったんだ?」
テッサはくすっと笑った。
「エドリックも昔、ひどい腰痛持ちだったの。」
そっと彼を指差す。
「歩き方がそっくりだったから。」
もう一度微笑む。
「まだ痛い?」
ガリックは自分の腰へ手を当てた。
そこで初めて気づく。
痛みがまったく残っていないことに。
自然と笑みがこぼれた。
「……いや。」
軽く頭を下げる。
「もう痛くない。」
「ありがとう、テッサ。」
テッサは満足そうに笑った。
すると突然、
ガリックをくるりと後ろへ向け、
そのまま優しく部屋の外へ押し出す。
「まだ掃除が終わってないの。」
もう一度軽く背中を押す。
「だから、もう行って。」
その笑顔は、
どこか温かかった。
「ちゃんと帰ってくるのよ。」
「また会いたいんだから。」
ガリックは廊下を歩きながら、
静かに目を閉じた。
口元には小さな笑み。
「……わかった。」
「ふっ。」
ガリックが宿から出てくると、
レンはすぐにその様子に気づいた。
「ん?」
「なんだか嬉しそうじゃないか?」
ガリックが答えるより早く、
ミレイアが笑いながら口を開いた。
「きっとテッサにキスでもされたんでしょ。」
ライセラは思わず口元に手を当てた。
「キ、キス……?」
ガリックは危うくつまずきそうになる。
「ち、違う!」
「そんなわけないだろ!」
そう言いながら、
彼は照れ隠しをするように一行の先頭を歩き始めた。
「まったく……」
「ほら、早くレオンの馬車へ行こう。」
◇ ◇ ◇
レンたちが宿を出てから数分後――
一人の客が静かに手を挙げた。
「すみません、お嬢さん。」
テッサはすぐに振り返り、
営業用の笑顔を浮かべた。
「はい!」
「私はテッサです。」
「エドリックの対応はいかがでしたか?」
その男は厚い外套に身を包み、
フードで目元を完全に隠していた。
落ち着いた声で答える。
「コーヒー代を払いたいだけです。」
ゆっくりと立ち上がり、
終始視線を床へ向けたまま、
テッサのもとへ歩いていく。
歩きながら、
片手を懐へ入れた。
男が近づいた瞬間、
テッサは反射的に片腕を前へ出し、
無意識のうちに身構えていた。
男は彼女の前で立ち止まり、
懐から何かを取り出す。
(……なんだろう。)
(嫌な予感が――)
そう思った次の瞬間、
男が取り出したのは一枚の銀貨だった。
それを静かに差し出す。
テッサは何度か瞬きをした。
少しだけ恥ずかしそうな表情になりながら、
銀貨を受け取る。
「た、ただいまお釣りを――」
男は彼女の横を通り過ぎた。
一度も顔を上げることなく言う。
「結構です。」
「取っておいてください。」
「コーヒー、ごちそうさまでした。」
返事を待つこともなく、
そのまま宿を出ていった。
テッサは肩の力を抜き、
しばらく扉のほうを見つめる。
(……なんだか変な人だった。)
◇ ◇ ◇
宿を出た男は、
人気のない通りを歩き、
やがて一本の細い路地へ入っていく。
次の瞬間――
驚異的な跳躍で建物の屋根へ飛び乗った。
着地の衝撃で外套がわずかに揺れ、
その下から赤い瞳が一瞬だけ姿を見せる。
男はそのまま屋根から屋根へと駆け抜けていく。
その口元には、
薄い笑みが浮かんでいた。
「ようやく見つけた……」
「勇者。」
◇ ◇ ◇
数分後。
レンたちは《獅子のギルド》へ到着した。
ギルドの紋章が描かれた馬車が、
すでに入口で待機している。
レオンは腕を組みながら、
彼らを待っていた。
姿を見るなり口を開く。
「やっと来たか。」
馬車を指差した。
「早く乗れ。」
「まだ朝飯を食ってないなら、道中で食えばいい。」
ミレイアは腰に手を当てる。
「あーあ。」
「まずは『おはよう』くらい言えないの?」
レオンは数回まばたきをした。
「あ……」
頭を掻く。
「おはよう。」
「悪かった。」
そう言うと、
再び馬車を指差す。
「ほら、急げ。」
ライセラは思わず吹き出した。
「ふふっ。」
全員が馬車へ乗り込む。
やがて馬車は、
《獅子のギルド》の紋章を掲げたまま、
ヴァルテリスの街を後にした。
街の門を抜けたところで、
レンはガリックへ視線を向けた。
「それで?」
「宿に忘れたものって何だったんだ?」
ガリックはポケットから、
小さなペンダントを取り出した。
「これだ。」
しばらくそれを見つめる。
「母さんがくれたものなんだ。」
レンは興味深そうに眺めた。
「綺麗だな。」
そして自然に尋ねる。
「家族はこの王国にいるのか?」
その瞬間、
ガリックの笑みが消えた。
ミレイアの表情も曇る。
数秒の沈黙。
やがてガリックは静かに答えた。
「俺の家族は……」
「もういない。」
「ああ……」
ガリックは少し照れくさそうに笑った。
「少なくとも、もう腰は楽になるだろ……」
その瞬間だった。
レンの言葉が途中で止まる。
気づけば、視線は再びミレイリアへ向いていた。
彼女は薄手の寝間着姿のままで、
質素な作りでありながら、
その体のラインは普段以上にはっきりと浮かび上がっていた。
レンは思わず息を呑む。
額を一筋の冷たい汗が伝った。
ミレイリアはその視線に気づいていたが、
何事もないように歩き続ける。
顔を向けないまま問いかけた。
「レン、どこ見てるの?」
レンは慌てて視線を逸らした。
勢い余って首まで痛めそうなほどだった。
「お、俺?」
前方を指差す。
「ほら、ロビーを見てただけだよ!」
ぎこちなく笑う。
「ここからでもよく見えるんだなって……」
誤魔化そうとしても、
視線はまたしてもミレイリアへ戻ってしまう。
いつの間にか、
彼女は足を止めていた。
横向きのまま、
真剣な表情でレンを見つめている。
レンは小さくため息をついた。
「なあ、ミレイリア……」
「さっきのことなんだけど……俺……」
ミレイリアは不思議そうな顔で首をかしげる。
「さっきのこと?」
「何のこと?」
さらに首を傾けた。
「さっきって……いつのこと?」
レンは何度かまばたきをした。
「えっ……」
部屋の方をそっと指差す。
「さっきだよ、ミレイリア。」
後頭部をかいた。
「ほ、ほら、その……」
しかし、
彼女はますます困惑した表情を浮かべる。
「さっき何かあったの、レン?」
少し考え込んでから、
ふと目を見開いた。
「もしかして……ガリックのこと?」
そしてすぐに両手を合わせる。
「あっ!」
「足を踏んじゃったこと?」
小さく頭を下げた。
「本当にごめんね!」
レンは完全に黙り込んだ。
眉をひそめる。
数秒の沈黙のあと、
ゆっくりと尋ねた。
「……冗談、だよな?」
ミレイリアは目をぱちぱちさせる。
「え?」
レンは深く息を吐いた。
「俺の部屋に来たこと……」
「覚えてないのか?」
その瞬間、
彼女の表情が変わる。
眉をひそめた。
「え?」
「レンの部屋?」
首を横に振る。
「レン……私、行ってないよ。」
レンは口を開いた。
しかし、
言葉は一つも出てこなかった。
(どういうことだ……?)
ミレイリアは少しだけ頬を赤らめ、
ぎこちなく笑う。
「も、もしかして……」
視線を逸らした。
「私の夢でも見たの?」
レンは彼女の前まで歩み寄る。
その表情は真剣だった。
「ミレイリア……」
深く息を吸う。
「応えられなくて……ごめん。」
「でも前にも言っただろ。」
「俺には……理由があるんだ。」
ミレイリアは何も分からないという顔で見つめ返す。
レンは少しうつむいた。
「君は綺麗だ。」
「本当に魅力的だ。」
目を閉じる。
「でも……」
「俺にはできない。」
声が少し低くなる。
「俺はまだ……」
「ミサキを忘れられないんだ。」
数秒の間、
廊下は静まり返った。
ミレイリアはその場で固まる。
顔は一気に真っ赤になった。
ゆっくりと口を開く。
「え……?」
「えっ……?」
片手で自分の口元を押さえる。
「ど、どうして……」
視線を逸らしたまま、
体が小さく左右に揺れる。
「どうしてそんなこと言うの、レン?」
レンは、
自分が状況をさらにややこしくしていることに気づいた。
頭をかく。
「ミレイリア……」
「お、俺……もう寝るよ。」
彼女を指差す。
「そ、その……」
「着替えておいた方がいいぞ。」
ミレイリアは何度か瞬きをした。
「着替え?」
「何のこと――」
そこで視線を下へ落とす。
自分の薄い寝間着を見た瞬間、
顔はさらに真っ赤になった。
「あっ……」
勢いよく顔を上げる。
「お、おやすみ、レン!」
慌ててレンを指差す。
「な、何も見てないからね!」
バァン!!
扉は勢いよく閉まり、
廊下全体が震えた。
レンは閉まった扉をしばらく見つめる。
そして小さく息をつく。
「何もなかったことにしても……」
「解決にはならないよ、ミレイリア……」
疲れたように微笑む。
「本当に……寝ないとな。」
レンは自室へ戻る。
ランプの火を消し、
ベッドへ横になった。
静寂は数秒しか続かなかった。
その直後――
廊下の向こうから、
テッサの穏やかな声が響く。
「ここですね……」
ボキッ!
「うわあああああっ!!」
ガリックの悲鳴が廊下中に響き渡る。
レンは目を閉じた。
小さく笑う。
「頑張れよ、ガリック……」
やがて、
時折聞こえるガリックの悲鳴と、
落ち着いたテッサの説明を子守歌代わりに、
レンはようやく眠りについた。
レンは、自分の体がふわりと軽くなったような感覚に包まれていた。
まるで、果てしない虚無の中を漂っているようだった。
(思っていた以上に疲れていたのかな……)
(あの硬いベッドが……まるで重さなんてないみたいだ。)
そのとき――
どこか遠くから、一人の声が聞こえてきた。
「レン……」
少しの間が空く。
「あなたの笑顔が……恋しい……」
その声はかすかで、
今にも消えてしまいそうだった。
レンはわずかに眉をひそめる。
(……誰の声だ?)
気づかないうちに、
その声のする方へとゆっくり引き寄せられていく。
近づけば近づくほど、
周囲には様々な音が響き始めた。
誰かの話し声。
笑い声。
食器が触れ合う音。
温かな料理の香りが辺りいっぱいに広がる。
そして次の瞬間――
誰かがそっと、自分の手を握った。
レンは目を見開いた。
(な、何だ……!?)
同時に心臓が大きく跳ね上がる。
「はっ!」
レンは勢いよく目を覚まし、
荒い息をつきながらベッドの上で身を起こした。
慌てて周囲を見回す。
数秒後、
ようやくここが宿屋の部屋だと理解した。
聞こえていた声は一階の食堂から。
料理の香りもそこから漂ってきている。
高鳴っていた鼓動が、
少しずつ落ち着いていった。
レンは顔を手で覆い、
大きく息を吐く。
「はぁ……」
しばらく床を見つめたあと、
苦笑した。
「……変な夢だったな。」
頭を軽く振って気持ちを切り替え、
立ち上がって扉へ向かう。
そして扉を開けた、その瞬間――
「あっ!」
目の前にいた少女と危うくぶつかりそうになった。
二人は同時に小さく飛び退く。
リセラは胸に手を当てた。
「あっ、レン!
ご、ごめんなさい!」
レンも照れくさそうに笑う。
「いや、俺の方こそ。
危うくぶつかるところだった。」
二人は小さく笑い合い、
そのまま廊下を歩き始めた。
階段の方へ目を向けると、
ガリックが食堂へ向かって降りていくところだった。
レンはそのまま一階へ視線を向ける。
そこには、
昨夜何事もなかったかのように、
平然とテーブルへ座っているミレイリアの姿があった。
そのとき、
焼きたてのパンの香ばしい匂いが廊下いっぱいに広がる。
リセラは目を閉じ、
小さく微笑んだ。
「いい匂い……」
レンも深く息を吸い込み、
笑みを浮かべる。
「ああ、本当だ。」
一階を指差した。
「行こう。
エドリックが何を作ったのか見に行こうぜ。」
焼きたてのパンと温かいコーヒーの香りが、
宿全体を包み込んでいた。
エドリックは宿泊客たちへ朝食を運んでいる。
レンがカップを口元へ運んだ、そのとき――
コトッ。
ガリックがコップをテーブルへ置いた音だった。
レンは眉を上げる。
「どうした?」
ガリックは自分の手を見つめ、
ゆっくりと指を開いたり閉じたりする。
「……指が少し痺れた。」
ミレイリアはすぐに答えた。
「ああ……
毒のせいね。」
リセラの表情が引き締まる。
「急がないと。」
ガリックは深く息を吸い、
小さく笑った。
「みんな……
改めてありがとう。
俺について来てくれて。」
レンも笑う。
「友達ってそういうもんだろ。」
ガリックはレンへ小さく微笑み返した。
「それに……
俺にはもう、帰る場所もないから。」
その言葉に、
馬車の中は数秒間静まり返る。
そして――
全員が笑い出した。
「ははは!」
レンは少し照れくさそうにミレイリアを見る。
その間も、
テッサは他の客へ朝食を運びながら、
普段通りに働いていた。
ガリックは彼女を見るなり、
すぐに視線を逸らした。
冷や汗が背中を流れる。
それに気づいたミレイリアの口元に、
いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「ねえ、ガリック。」
彼女は顔を近づける。
「テッサのマッサージ、
そんなに気持ちよかった?」
「ふふっ。」
ガリックは小声で答える。
「し、静かにしろよ……ミレイリア。」
リセラは首をかしげた。
「マッサージ?」
ミレイリアは待ってましたと言わんばかりに笑う。
「昨日ね、
テッサがガリックの背中をマッサージしてるところを見ちゃったの。」
レンも小さく笑う。
「ふふ。」
ガリックは顔を手で覆った。
「はぁ……
思い出させなくてもいいだろ。」
大きくため息をつく。
「さっさと食べて、
ここを出よう。」
「はいはい。」
レンは笑いながら答えた。
朝食を終えると、一行は宿の外へ出た。
そのとき、ガリックが突然立ち止まる。
「ちょっと待ってくれ。」
そう言ってポケットに手を入れた。
「部屋に忘れ物をしてきた。」
ミレイリアは腕を組む。
「いいよ。
ここで待ってる。」
ガリックは宿の中へ駆け戻っていった。
階段を駆け上がりながら、心の中で呟く。
(あのペンダント……
確かに持っていたはずだ。)
(マッサージのときに、テッサが外したんだろう。)
部屋へ入ると、
テッサがベッドを整えていた。
ガリックの姿を見ると、
彼女はにっこり微笑む。
「あ、ガリック。」
小さな金色のペンダントを掲げた。
「あなたのペンダント。
預かってたよ。」
ガリックは丁寧に受け取る。
「預かっていてくれてありがとう。」
テッサは優しく笑った。
「マッサージしてるときに外したから。」
少し首を傾げる。
「それで……
腰の具合はどう?」
ガリックは目を見開いた。
その場で完全に固まる。
「ど、どうして……
分かったんだ?」
テッサは小さく笑う。
「エドリックも昔、
腰痛にずいぶん悩まされてたから。」
そう言ってエドリックの方を指差した。
「歩き方がそっくりだったの。」
もう一度微笑む。
「まだ痛い?」
ガリックは腰へ手を当てた。
その瞬間、
痛みがまったく消えていることに気づく。
自然と笑みがこぼれた。
「いや。」
軽く頭を下げる。
「もう痛くない。」
「ありがとう、テッサ。」
テッサは満足そうに微笑んだ。
そしてガリックの背中をくるりと向けさせ、
優しく部屋の外へ押し出す。
「まだ片付けが終わってないの。」
もう一度軽く背中を押した。
「さあ、行って。」
その笑顔は先ほどよりも柔らかかった。
「また必ず戻ってきてね。」
「またみんなに会いたいから。」
ガリックは廊下を歩きながら、
静かに目を閉じた。
口元に小さな笑みが浮かぶ。
「分かった……」
「へへ。」
宿を出ると、
レンはすぐに違和感に気づいた。
「あれ?」
「なんか機嫌よくないか?」
ガリックが答えるより先に、
ミレイリアが笑顔で言った。
「ねえ、ガリック。」
「テッサにキスでもされた?」
リセラは思わず口元へ手を当てる。
「キ、キス?」
ガリックは危うくつまずきそうになる。
「ち、違う!」
「そんなわけないだろ!」
そう言って、
一人だけ足早に先を歩き始めた。
「まったく……」
「早くレオンの馬車へ行こう。」
レンと皆もその後を追う。
――
レンたちが宿を出て数分後。
一人の宿泊客が静かに手を挙げた。
「すみません、お嬢さん。」
テッサはすぐに振り返り、
営業用の笑顔を浮かべる。
「はい!
私はテッサです。
エドリックの対応はいかがでしたか?」
男は厚手の外套に身を包み、
フードの下に目を隠していた。
落ち着いた声で答える。
「コーヒー代を払いたいだけです。」
ゆっくり立ち上がり、
視線を床へ落としたまま歩いてくる。
そして懐へ手を入れた。
その瞬間――
テッサは本能的に腕を前へ出し、
警戒の構えを取る。
男は彼女の前で立ち止まり、
ポケットから何かを取り出した。
(……嫌な予感。)
だが次の瞬間、
男が差し出したのは銀貨一枚だった。
テッサは何度か瞬きをする。
少し照れくさそうに受け取った。
「お、お釣りをお持ちします。」
男はそのまま彼女の横を通り過ぎる。
一度も顔を上げることなく言った。
「結構です。
取っておいてください。」
「コーヒー、ごちそうさまでした。」
返事を待たず、
そのまま宿を出て行った。
テッサは肩の力を抜き、
しばらく扉を見つめる。
(……変な人だったな。)
宿を出た男は、
人気のない路地へ入る。
次の瞬間、
驚異的な跳躍で建物の屋根へ飛び乗った。
着地の衝撃で外套がわずかにはためく。
その隙間から、
赤く光る瞳が現れた。
男は迷うことなく、
街の屋根を駆け抜けていく。
その口元には、
かすかな笑みが浮かんでいた。
「ようやく見つけたぞ……
勇者。」
数分後、一行は獅子のギルドへと到着した。
ギルドの紋章が刻まれた馬車が一台、入口の前で待機していた。
レオンはすでにそこで彼らを待っていた。
一行の姿を見るなり、腕を組む。
「ようやく来たか。」
馬車を指差した。
「さっさと乗れ。
まだ朝飯を食ってないなら、道中で何か食べればいい。」
ミレイリアは腰に手を当てる。
「あーあ。」
「おはよう、くらい言えないの?」
レオンは何度か瞬きをした。
「あ……」
頭をかく。
「おはよう。」
「無愛想だったな、悪い。」
そして再び馬車を指差す。
「ほら、急げ。」
リセラは小さく吹き出した。
「ふふっ。」
一行は馬車へ乗り込んだ。
やがて、
獅子のギルドの紋章を掲げた馬車は、
ヴァルセリスの街を後にした。
街門を抜けたところで、
レンはガリックへ視線を向ける。
「そういえば。」
「宿に忘れてた物って何だったんだ?」
ガリックはポケットから小さなペンダントを取り出した。
「これだ。」
しばらくそれを見つめる。
「母さんがくれた物なんだ。」
レンはペンダントを眺めた。
「綺麗だな。」
そして自然な口調で尋ねる。
「家族はまだ王国にいるのか?」
その瞬間、
ガリックの笑みが消えた。
ミレイリアの表情も同じだった。
数秒の沈黙のあと、
ガリックは静かに口を開く。
「俺の家族は……
もういない。」
その言葉を聞いた瞬間、
レンの身体が固まる。
一つの記憶が脳裏によみがえった。
全身黒い喪服に身を包み、
二つの墓石の前へ立っている自分。
頬を伝う涙。
震える声で呟く。
「花を……
替えに来たよ。」
「父さん……」
「母さん……」
記憶はそこで途切れた。
レンは深く息を吐く。
「……すまない。」
リセラも俯いた。
「そんな……」
ガリックはなおもペンダントを見つめ続ける。
「リセラ。」
彼女は顔を上げた。
「俺は……
お前にひどい態度を取った。」
彼は静かに息を吸う。
「でも……
あの職業を見た時……」
視線が重くなる。
「俺の家族を殺したのが、
クリムゾン・ヴェールだったんだ。」
ミレイリアとリセラは同時に目を見開いた。
「ガリック!」
ミレイリアが慌てて口を開く。
「そんなこと……
言わなくてもよかったのに。」
ガリックは穏やかに微笑む。
「いや。」
そしてリセラへ深く頭を下げた。
「本当に……
すまなかった。」
馬車の中は静まり返る。
しばらくして、
リセラは慌てたように両手を振った。
「か、顔を上げてください……!」
「わ、私は……
怒ってなんていません。」
レンは苦笑する。
「お前さぁ。」
「真面目すぎるんだよ。」
「はは。」
ガリックも小さく笑った。
「これから一緒に旅をするなら……
互いに信頼しなきゃならない。」
ミレイリアもうなずく。
「そうね……。」
馬車はそのまま街道を進んでいく。
――その頃。
人間族の王国の一つ、
アルセリオン王国・王都。
王の秘書が恭しく一礼した。
「アルセリオン・ドレン陛下。」
「逃亡者についての情報が入りました。」
黄金と宝石で飾られた玉座。
その最奥に座るアルセリオン・ドレン王は、
ゆっくりと目を開いた。
「どこにいる?」
秘書は答える。
「現在、
ドラクサル王国へ向かっているとの情報です。」
アルセリオン・ドレンは眉をひそめる。
「……ほう。」
「あの獣人どもの国か。」
軽蔑するように笑った。
「そこまで落ちぶれるとは思わなかったな。」
秘書は頭を下げたまま尋ねる。
「ご命令を。」
王はゆっくり立ち上がる。
「捕らえろ。」
その目は冷え切っていた。
「たとえあの国へ逃げ込もうとな。」
秘書は再び深く一礼する。
「承知いたしました。」
「傭兵を送り込みます。」
その言葉に、
アルセリオン・ドレンは少し感心したように笑う。
「ほう、あいつらか。」
「悪くない。」
「王国の兵を送れば、
すぐに疑われるだろうからな。」
秘書はうなずく。
「情報提供者には、
何と伝えましょうか?」
アルセリオン・ドレンは傲慢な笑みを浮かべた。
「金だけ渡せ。」
「余計な会話はするな。」
秘書は短く頭を下げる。
「かしこまりました。」
彼が退室すると、
アルセリオンは再び玉座へ腰を下ろした。
天井を見上げながら、
冷たく呟く。
「お前は……
裏切り者として裁かれる。」
――その頃、別の場所。
一人の男が、
長い黒い外套を身にまといながら、
緩やかな丘陵地帯をゆっくりと下っていた。
その顔は完全にフードの奥へ隠されている。
見えているのは、
フードの隙間から赤く光る二つの瞳だけだった。
彼の前方には、
小さな黒い城が姿を現す。
門の前まで来ると、
男は三度扉を叩いた。
コン。
コン。
コン。
重厚な扉は、
大きな軋み音を立てながらゆっくりと開く。
男は中へ入った。
蝋燭だけが灯る長い廊下を進み、
さらに奥にある小さな扉をくぐる。
その部屋には、
青い髪と頭に角を持つ一人の女性がいた。
彼女は金属製の円筒状の器具をいくつも操りながら、
寝台の上に横たわる男の身体を調べていた。
足音に気づくと、
彼女は振り返って微笑む。
「……あ。」
「来てくれたのね。」
男は静かに口を開いた。
「君の言う通りだったよ、
リセラ・ヴェイロン。」
彼女は小さく笑う。
「そんなに堅苦しくしなくていいわ、リオレン。」
男はフードを脱いだ。
鋭い牙が姿を現す。
彼は寝台の上の遺体へ視線を向けた。
「その死体で何をしている?」
リセラはため息をつく。
「また一人。」
「この辺りで見つかった死体よ。」
遺体の胸へそっと手を置く。
「死んでからかなり時間が経っている。」
「でも、
刺し傷は一つもない。」
胸を静かになぞる。
「心臓もそのまま残っている。」
リオレンは腕を組む。
「今月だけでも、
これで三人目だ。」
リセラは顎へ手を添えた。
「ここ数年……
いったい何が起きているのかしら。」
リオレンが答える。
「人間の仕業か?」
「奴らはルミナリア女神の教えを、
あまりにも本気で信じすぎている。」
彼女は首を横に振った。
「違うと思う。」
「私たちの国の者の仕業にも見えない。」
彼を見つめる。
「あなたは?」
リオレンは即座に答えた。
「違う。」
「俺にも分からない。」
皮肉っぽく笑う。
「それに……
俺は四六時中、
血を必要とするわけじゃない。」
リセラも微笑む。
「その通り。」
「もしあなたの仕業なら、
首筋には牙の跡が残るはずだもの。」
しばらく考え込む。
「となると……
残る可能性はエルフくらいかしら。」
リオレンは眉をひそめる。
「だが、
エルフはそんな理由で命を奪う種族じゃない。」
「少なくとも、
必要もなく殺したりはしない。」
彼女は小さく息を吐く。
「私も、
それ以外に思いつかないわ。」
リセラはしばらくリオレンを見つめたあと、
静かに尋ねた。
「それより……
私が探してほしいと言った人は見つかった?」
リオレンはわずかに首を傾げる。
「ああ……
君が『勇者』と呼んでいた男か。」
リセラはうなずく。
「これは特別な出来事なの。」
「ルミナリアの聖域ではなく、
別の場所で現れた勇者。」
「そんな存在は、
あの暴君が治める王国にとって、
大きな脅威になるはずよ。」
リオレンは腕を組んだまま答えた。
「直接接触はしていない。」
「だが、
北へ向かう馬車に乗っていた。」
リセラは目を細める。
「それで?」
「連れて来なかったの?」
リオレンは静かに息を吐く。
「一人じゃなかった。」
「かなり腕の立つ魔導士が一人。」
「それに戦士も一人いた。」
リセラは数秒間、
じっとリオレンを見つめる。
やがて、
挑発するような笑みを浮かべた。
「つまり?」
「戦士一人と魔導士一人に、
あなたが怖気づいたってこと?」
「ふふっ。」
リオレンは首を横へ振る。
「違う。」
「あの勇者も妙だった。」
「ゴブリンだらけのダンジョン近くの森で、
木の上から様子を見ていた。」
「その時、
獣の咆哮が聞こえた。」
「その直後だった。」
「凄まじい轟音とともに、
森全体が揺れた。」
リセラは静かにため息をつく。
「リオレン。」
「あなたなら、
あの程度の相手より強いでしょう?」
「それに、
人間程度では、
あなたに触れることすら難しいはず。」
少し間を置いてから続ける。
「本当に、
他には誰もいなかったの?」
リオレンは眉を寄せた。
「……ああ。」
「他には誰もいなかった。」
少し沈黙してから、
彼は尋ねる。
「その勇者をどうするつもりだ?」
リセラは迷わず答えた。
「きっと、
あの勇者は私たちが求める答えを持っている。」
「この世界についての答えを。」
リオレンは数秒黙り込んだ。
やがて静かに口を開く。
「生きたまま連れて来ればいいのか?」
リセラは嬉しそうに微笑む。
「もし面倒じゃないなら。」
「ふふっ。」
リオレンは扉へ向かって歩き出す。
「任せておけ、
リセラ。」
その眼差しは真剣だった。
「俺も……
答えが欲しい。」
リセラの表情もまた真剣になる。
「私もよ。」
「あの人が何より大切にしている、
無知のまま生きる人生には、
もううんざり。」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「頼んだわ、リオレン。」
「今度は本気よ。」
「必ず……
生きたまま連れて来て。」
リオレンは何も答えない。
静かに扉を開く。
部屋を出る直前、
小さく呟いた。
「……もう、
うんざりだ。」




