第12話 離してくれない過去
エドリックは静かに宿の外へ歩いていった。
通りに足を踏み出した瞬間――
ブラクの顔面へ容赦なく蹴りを叩き込む。
ドゴォッ!!
衝撃でブラクの身体が二歩ほどよろめいた。
彼は口元に手を当て、流れた血を拭いながら笑う。
「へっ……」
その拳をマナが包み始めた。
腕の血管が浮かび上がり、力が拳へと集中していく。
「――震撃拳!」
ブラクは全力で地面を殴りつけた。
ゴォォォン!!
衝撃波が地面を駆け抜ける。
石畳が激しく震え、半径五メートルほどの範囲が大きく揺れ始めた。
土煙が一気に舞い上がる。
ブラクは笑った。
「終わりだ……」
だが次の瞬間――
彼は眉をひそめた。
「……あれ?」
周囲を素早く見回す。
「どこ行きやがった?」
ドゴォッ!!
煙の中から拳が飛び出し、ブラクの顔面を正面から打ち抜いた。
あまりにも速すぎて、ブラクは反応すらできなかった。
身体が宙で回転し、そのまま重く地面へ叩きつけられる。
数秒間、彼は動かなかった。
やがて横に血を吐き捨て、手の甲で口元を拭いながら立ち上がる。
呼吸は荒い。
憎悪に満ちた目でエドリックを睨みつけた。
「客に対してこんな扱いか?」
宿を指差す。
「後悔するぞ!」
「このボロ宿がどれだけ最低か、王国中に広めてやる!」
返事も待たず、彼は背を向けて去っていった。
レンは通りを遠ざかっていくブラクを見送りながら、頭を軽く掻く。
「なんというか……」
呆れたように小さく笑った。
「めちゃくちゃだな……」
その時だった。
宿のホールから重たい足音が響き始める。
コツ……コツ……コツ……
一歩ごとに妙な圧迫感が漂う。
エドリックは完全に固まった。
笑顔が少しずつ消え、顔色がみるみる白くなる。
「あっ……」
ごくりと唾を飲み込んだ。
「扉を見られた……」
足音はどんどん近づいてくる。
そして、その声の主が姿を現す前に――
「私はずっとここで待ってたのよ……」
女性の声が静かに響いた。
静かすぎるほどに。
「……今ここであなたを殺すかどうか決めるためにね。」
エドリックは完全に真っ青になった。
ゆっくりと振り返る。
「あっ……」
気まずそうな笑みを浮かべる。
「ね、姉さん……」
長い赤髪の少女がホールに立っていた。
彼女はまず、かつて扉があった場所の大きな穴を見つめる。
そしてゆっくりとエドリックへ視線を向けた。
笑顔が消える。
「『姉さん』じゃないわ!」
壊れた入口を指差す。
「あの馬鹿を吹っ飛ばす必要あった!?」
「この扉がいくらしたと思ってるの!?」
早足でエドリックの前まで歩み寄り――
遠慮なく彼の襟首を掴んだ。
「なんであなたは何をやってもこうなのよ!?」
エドリックはすっかり慣れている様子で苦笑する。
「落ち着け、テッサ……」
「緊急事態だったんだ」
レンは状況がまったく理解できず、小声で呟いた。
「このテッサって人……かなり怖いな……」
その時、テッサはようやく周囲に人がいることを思い出したように瞬きをした。
レン、ミレイア、ガリック、リセラへ視線を向ける。
そしてすぐにエドリックの襟を放した。
そのまま彼の方へ向き直る。
何も言わず――
ドゴォンッ!!
拳がエドリックの腹にめり込んだ。
衝撃で彼は完全に息を失う。
「ぐっ……!」
その場に膝をつき、腹を押さえながら必死に呼吸を取り戻そうとする。
テッサはまるで手についた埃でも払うかのように、片方の手のひらをもう片方で軽く払った。
「黙るべき時くらい覚えなさい……」
上から見下ろす。
「……弟くん」
ガリックは目を見開く。
「この人、かなり強そうだったのに……」
再びエドリックを見る。
「一発で沈めたのか?」
ミレイアは慌てて手を挙げた。
「わ、私はこの宿大好きです!」
笑顔は完全に引きつっている。
「『最後の一杯 II』は王国で一番の宿です!」
後ずさりしながら言った。
「わ、私は上に行って……」
「ね、寝ます!」
返事も待たず、階段を駆け上がっていく。
ガリックはその背中を見送りながら呟いた。
「ミレイアがここまで怯えるの、珍しいな……」
レンは小さく笑う。
「多分、あいつも殴られるのが怖くなったんだろ――」
言い終わる前に。
肩のすぐ横に誰かの息遣いを感じた。
全身が凍りつく。
ゆっくりと顔を向ける。
テッサがそこにいた。
笑っている。
目は閉じたままだ。
「今の、どういう意味かしら……?」
レンは完全に固まった。
絶対的な沈黙。
恐る恐る入口へ目を向ける。
床から起き上がろうとしているエドリックしか見えない。
再びテッサを見る。
「て、テッサさん、さっきまで入口に……?」
テッサは笑顔を崩さない。
「まだ質問に答えてもらってませんけど?」
レンは必死にガリックを見る。
次にリセラを見る。
二人とも口笛を吹きながら、わざと宿の天井を眺めていた。
助ける気は一切ない。
レンは大げさに両手を上げる。
「うわあああ!」
「誰か助けてくれぇぇぇ!」
その瞬間――
入口から女性の声が響いた。
「久しぶりに来たけど……」
微笑む。
「相変わらずみたいね」
全員が振り返る。
エドリックがぱっと表情を明るくした。
「あっ!」
「ミハル!」
長い黒髪の女性が静かに宿へ入ってくる。
テッサは彼女を見るなりレンを放した。
「ミハル!!」
駆け寄り、長年会っていなかった親友のように抱きつく。
ミハルは微笑み、レンとガリックへ視線を向けた。
「本当に来たのね」
小さく笑う。
「テッサとエドリックにあまり振り回されてないといいけど」
レンは無言で笑った。
(ミハルに救われた……)
ガリックは腕を組む。
「やっぱりな」
宿の中を見回す。
「ここ、本当にかなり広い」
ミハルはゆっくり彼に近づく。
真正面で立ち止まり、その顔をじっと見つめた。
ガリックは首をかしげる。
「えっと……」
「どうした?」
ミハルは手を上げ、その頬へそっと触れた。
レンとリセラは、彼女の青い瞳が数秒だけ淡く輝くのを見た。
そしてミハルは尋ねる。
「あなた……」
わずかに眉を寄せる。
「具合が悪いの?」
ガリックは少し目を見開いた。
「おお……」
「なんで俺が――」
言い終わる前に。
エドリックが彼の腕を引っ張って後ろへ下がらせた。
「おい!」
ガリックが振り返る。
「何だよ?」
レンは小声で言う。
「ミハル相手にそういう特別待遇受けるのやめろ」
ガリックは瞬きをする。
「特別待遇?」
「何の話だ?」
ミハルはくすくす笑い始めた。
テッサは腕を組み、隣で言う。
「私たち三人が集まると……」
ミハルを見る。
「私とあなたとエドリック」
微笑む。
「子供の頃に戻ったみたい」
ミハルは奥でガリックと口論しているエドリックを見つめ、小さく笑った。
「そうね……」
「変わらないものもある」
テッサが笑う。
「うちの弟、今でもあなたを諦めてないのよ」
ミハルはため息をついた。
「私が何度『誰とも付き合うつもりはない』って言ってもね」
テッサはすぐに彼女の言葉を遮った。
「人生の使命を果たすため、でしょ。」
テッサは呆れたような顔をした。
「もうそれ、千回くらい聞いたわ。」
そう言って小さく笑う。
「私はただ、自分の願いを言っただけ。」
ミハルはくすりと笑った。
「そう…」
そして、その視線はライセラへと向けられた。
優しく微笑みながら尋ねる。
「あなたは?」
「みんなと一緒に旅をしているの?」
そう問いかけた、その瞬間――
彼女の視線はライセラの服の下に隠された小さな違和感を捉えた。
腰に隠された短剣の柄だった。
ライセラは何事もなく答え始める。
「あ…」
「はじめまして。」
「私はライセラ――」
その瞬間だった。
驚くほど素早い反射で――
ライセラは腰の短剣を抜き放つ。
CLANG!!
二本の刃がぶつかり合う鋭い音が宿中に響き渡った。
レンは目を見開いた。
「やめろ!!」
すぐさま二人の間へ駆け出す。
ギャリックとエドリックも驚いて振り向いた。
ミハルとライセラは真正面から向かい合い、
互いの剣を押し合っていた。
どちらも一歩も引かない。
ライセラは短剣の柄を強く握り締める。
「どういうこと!?」
「どうして私を襲ったの!?」
ミハルは冷たい声で答えた。
「テッサ。」
ライセラから一瞬たりとも目を逸らさない。
「何を待っているの?」
「その子を始末して。」
その声色は一気に鋭くなる。
「その子は暗殺者クラスよ。」
全員の視線がライセラへと集まる。
剣の圧力に押され、
ライセラは少しずつ力負けし始めていた。
「また……これか……」
レンは二人の間へ飛び込む。
左右の手で、それぞれの刃を受け止めた。
「もうやめろ!」
テッサが声を張り上げる。
「ミハル!」
「やめて!」
それでもミハルは剣を押し続ける。
「でも、テッサ……」
テッサは迷いなく言い返した。
「この子がそのクラスだってことくらい、この子がここへ入ってきた時から知ってる。」
一歩前へ出る。
「でも――」
「ここは私たちの宿よ。」
真っ直ぐミハルを見据える。
「ここへ来た者は、全員お客様。」
「喧嘩でもしない限り、誰だって同じように扱うわ。」
レンは両手で二本の剣を押さえながら冷や汗を流していた。
「なんだこれ……」
「五分前まで俺を殺そうとしてた人なんだけど……」
ミハルはレンへ視線を向ける。
彼一人だけで、
二人分の力を止めていることに気付いた。
「なんて力なの……」
「……まあ、いいわ。」
ミハルはゆっくりと剣を引いた。
「わかった。」
剣を鞘へ納める。
「あなたたちの好きにして。」
ギャリックはミハルを見つめた。
「その構え……」
小さく笑う。
「さっきの一撃……」
「あなたも騎士だったんだろ?」
ミハルは彼を見る。
「あなたも?」
ギャリックは頷いた。
「君と同じように疑った。」
さりげなくライセラを指差す。
「でも、この子がいなかったら……」
「俺たちは全員、あの洞窟で死んでいた。」
レンが一歩前へ出る。
「どうか……」
「ライセラに一度だけ、チャンスをくれないか?」
ミハルはしばらく黙っていた。
やがて静かに息を吐く。
「私は友達に会いに来ただけ。」
テッサへ視線を向ける。
「あなたの言う通りね。」
そして全員を見回した。
「ここにいる人は、みんな宿泊客。」
小さく頭を下げる。
「さっきはごめんなさい。」
最後にもう一度だけライセラを見つめる。
しかし、それ以上は何も言わなかった。
踵を返し、出口へ向かう。
「私は帰るわ。」
数歩歩いたところで足を止める。
レンの方を振り返った。
「あなた、レンっていうのよね?」
「は、はい……」
レンは頷く。
「どうしたんですか?」
その後ろでは、
エドリックがミハルの背中を見送っていた。
ギャリックは軽く彼の脇腹を肘でつつく。
「落ち着け。」
笑いながら言う。
「好きなんだろ?」
エドリックが答えるより早く――
店の奥から二人の客が声を上げた。
「おーい!」
「俺たちの料理はまだか!」
「料理人は仕事を放棄したのか!?」
エドリックは飛び上がる。
「しまった!」
「厨房だ!」
そう叫ぶと、慌てて厨房へ走って行った。
ミハルはもう一度レンを見る。
「レン。」
小さく微笑む。
「少し外で話せる?」
全員がレンを見る。
テッサはにやりと笑った。
「珍しいわね。」
「ミハルが誰かを話に誘うなんて。」
ミハルは落ち着いた口調で答える。
「すぐ終わるから。」
レンは静かに頷いた。
二人は宿の外へ出て行った。
外へ出ると、
通りは静まり返っていた。
レンはミハルを見る。
「それで……」
「何の話ですか?」
ミハルは腕を組んだ。
「私の酒場で……」
真っ直ぐレンを見つめる。
「あなた、私の目が誰かに似ているって言っていたわよね。」
レンは少し目を見開いた。
「あ……」
「はい。」
小さく笑う。
「覚えてたんですね。」
ミハルは一歩近づく。
「この目……」
その表情が真剣になる。
青い瞳が、先ほどよりも強く輝き始めた。
「その人の目も……」
「こんなふうに輝いていたの?」
レンはしばらく彼女の瞳を見つめていた。
そして静かに微笑む。
「はい。」
「アオイっていう友達の話をしたんです。」
彼女の瞳を見返しながら続ける。
「何年も前……」
「演劇の舞台で、その光を見ました。」
その瞬間――
「しまった……」
「地球のことを話しすぎた……」
「気づかれる……!」
ミハルはレンを見つめ続ける。
「ふーん……」
少し間を置く。
「その子も……」
その眼差しはさらに鋭くなった。
「この世界の人じゃなかった……」
「それとも――」
レンを真っ直ぐ見据える。
「――異世界の人だったの? 勇者。」
レンの動きが止まった。
何も言えない。
ミハルは小さく微笑む。
「前にも勇者と話したことがあるの。」
空を見上げる。
「あなたみたいに、不思議なことばかり言う人だった。」
レンは平静を装った。
「へぇ……」
「そうなんですか?」
ミハルは小さく笑った。
「まあ……」
背を向ける。
「これで確信したわ。」
「あなた、この世界の人じゃない。」
レンは一歩前へ出る。
「お願いです……」
「誰にも言わないでください。」
ミハルは首を横に振った。
「もちろん。」
その表情は再び真剣になる。
「もしアルセリオン・ドレンに知られたら……」
レンは眉をひそめた。
「誰ですか?」
ミハルは微笑む。
「何でもない。」
再び歩き出す。
「じゃあね、レン。」
数歩進んだあと、
再び立ち止まった。
「あ……」
肩越しに振り返る。
「最後に一つだけ。」
レンは頷く。
「どうぞ。」
ミハルは完全に振り返った。
先ほどよりもずっと真剣な眼差しだった。
「あなたは……」
少し間を置く。
「ヒョウレンについて、何を知っているの?」
レンは数秒間、完全に固まった。
そして答える。
「ヒョ、ヒョウレン……?」
首を傾げる。
「それって……何ですか?」
ミハルは小さく首を振った。
再び穏やかな笑みを浮かべる。
「あ……」
「忘れて。」
そのまま歩き去っていった。
「またね、レン。」
レンは困惑したままミハルの後ろ姿を見送り、
やがて宿へ戻っていった。
全員が寝ようと立ち上がる前、
レンはテッサに向かって微笑んだ。
「ご、ごちそうさまでした。」
「スープ、とても美味しかったです。」
テッサは腕を組み、
誇らしげに顎を上げる。
「当然でしょ。」
「ちゃんと時間をかけて作ったんだから。」
ギャリックが椅子から立ち上がる。
「さて……」
「そろそろ寝よう。」
「明日は早い。」
「待って。」
テッサは片手を上げた。
「寝る前に……」
微笑む。
「今日のことのお詫びとして、このスープを作ったの。」
そして店内を見回す。
「もちろん、みんなも同じよ。」
「今日はこのスープ、全員無料!」
店中から歓声が上がる。
「やった!」
「ありがとう、テッサ!」
店の奥にいた男がジョッキを掲げて笑った。
「次は俺もここで喧嘩して、無料スープをもらおうかな!」
テッサは目を閉じたまま微笑んだ。
その瞬間――
店内を重たい空気が包み込む。
「次にこの店で喧嘩をした人は……」
ゆっくりと目を開く。
「私が自分で外へ放り出すから。」
店内は一瞬で静まり返った。
全員が冷や汗を流し、
何も言わずに自分たちのテーブルへ視線を戻した。
その時、
二階の階段の上からミレイリアが姿を見せた。
ぎこちない笑みを浮かべる。
「え、えっと……」
「じゃあ私も降りますね……」
「しょうがないですし……えへへ……」
彼女は再び仲間たちのテーブルへ戻った。
数分後――
全員がスープを味わいながら、
口々に美味しいと褒めていた。
テッサは満足そうに微笑む。
「それくらいの感想じゃないとね。」
レン、ギャリック、ミレイリア、ライセラを指差す。
「レオンの手下たち。」
レンはため息をついた。
「どうしてそんな呼び方をするんです?」
テッサは鼻を鳴らす。
「あの借金王が、この宿に大金を踏み倒してるからよ。」
腕を組む。
「そのくせ、まだ人を送り込んでくるなんて。」
ギャリックはゆっくりと鞄を開けた。
中から一枚の黄金の鱗を取り出す。
「これで、その借金は払えるか?」
店内は再び静まり返った。
テッサは目を大きく見開く。
口を半開きにしたまま固まる。
エドリックも同じだった。
「そ、それ……」
「まさか……」
ミレイリアも驚いて叫ぶ。
「ギャリック!」
「ずっとその鞄を持ってたの!?」
「早くしまって!」
ライセラは周囲を見回した。
「まだお客さんが少なくてよかった……」
ギャリックは鱗を再び鞄へしまう。
テッサは息を呑みながらテーブルへ近づいた。
小声で尋ねる。
「こ、これ……」
「本物の黄金竜の鱗なの……?」
レンが答えようと口を開く。
「はい……」
「ぼ、僕が――」
「いたっ!」
レンは小さく飛び上がった。
ミレイリアがそっと彼の足を踏んでいたのだ。
彼女は作り笑いでレンを見つめる。
レンは冷や汗を流した。
「ぼ、僕が……」
無理に笑う。
「拾ったんです……」
「えへへ……」
テッサの目は完全に輝いていた。
「もっと近くで見たい!」
ギャリックは再び鱗を取り出す。
「どうぞ。」
テッサは宝物でも扱うように慎重に受け取る。
そして急いで厨房へ駆け込んだ。
彼女の姿が消えると、
ミレイリアは腕を組んだ。
「どうして渡したの、ギャリック?」
「旅のお金が必要だって言ってたじゃない。」
ギャリックは笑う。
「またここへ泊まる日が来るかもしれない。」
エドリックを見る。
「この人たちが、いつか力になってくれるかもしれない。」
そして壊れた入口へ目を向ける。
「それに……」
「壊した扉のことも気になってた。」
ミレイリアは苦笑した。
「あぁ……」
頭を掻く。
「そうだった……」
「レンがあの大男と喧嘩しようとしてたんだよね?」
レンはすぐにミレイリアを見る。
「でも投げ飛ばしたのは俺じゃないからな!」
数分後、
テッサが厨房から戻ってきた。
顔は真っ赤。
瞳は輝き、
耳まで届きそうな笑顔を浮かべていた。
ギャリックは笑う。
「これなら扉代くらいにはなるだろ?」
テッサは鱗を胸に抱きしめる。
「ほ、本当に……」
「これを私たちにくれるの?」
ギャリックは頷く。
「もう渡した。」
微笑む。
「扉だけじゃなく……」
「少しでも借金の足しになればいい。」
テッサは数秒の間、口を半開きにしたまま固まっていた。
エドリックも完全に動きを止める。
「そ、そんな……」
「まさか……?」
ミレイリアは目を丸くした。
「ギャリック!?」
「ずっとそのバッグを持ってたの!?」
「早くしまって!」
ライセラはさりげなく周囲を見回した。
「……まだほとんど人がいなくてよかった。」
ギャリックは再び黄金の鱗をバッグへしまった。
テッサは息を呑みながらテーブルへ近づく。
そして小さな声で尋ねた。
「こ、これ……」
「本物の黄金の鱗なの……?」
レンが答えようと口を開く。
「うん……」
「これ、俺が――」
「きゃっ!」
レンは小さく飛び上がった。
ミレイリアがそっと彼の足を踏んでいたのだ。
彼女は引きつった笑顔でレンを見つめている。
レンは冷や汗を流した。
「お、俺が……」
無理に笑顔を作る。
「拾ったんだ……」
「はは……」
テッサの目は完全に輝いていた。
「近くで見せて!」
ギャリックはもう一度黄金の鱗を取り出した。
「どうぞ。」
テッサは壊れ物でも扱うように慎重に受け取る。
そしてそのまま急いで厨房へ駆け込んでいった。
彼女の姿が見えなくなると、
ミレイリアは腕を組んだ。
「どうして渡しちゃったの、ギャリック?」
「旅のお金が必要だって言ってたじゃない。」
ギャリックは微笑んだ。
「またいつか、ここへ戻ってくるかもしれない。」
エドリックへ視線を向ける。
「この人たちが、その時力になってくれるかもしれない。」
それから壊れた入口をちらりと見た。
「それに……」
「あの扉のことも気になってたんだ。」
ミレイリアは苦笑する。
「あぁ……」
頭を掻いた。
「そうだったね……」
「レン、あの大男と喧嘩するところだったもんね?」
レンはすぐにミレイリアを見た。
「でも、あいつを投げ飛ばしたのは俺じゃないからな!」
数分後――
テッサが厨房から戻ってきた。
顔は真っ赤で、
瞳は嬉しさに輝き、
満面の笑みを浮かべていた。
ギャリックは笑う。
「これなら扉代くらいにはなるだろ?」
テッサは黄金の鱗を胸に抱きしめた。
「ほ、本当に……」
「これを私たちにくれるの?」
「うん。」
ギャリックは頷いた。
「もう渡したよ。」
微笑む。
「扉代だけじゃなく……」
「少しでもみんなの助けになればいい。」
テッサはすぐ隣へ腰を下ろした。
ほとんど囁くような声で言う。
「この鱗があれば……」
もう一度それを見つめる。
「宿の大部分を改装できるわ。」
深く息を吸った。
「それに、レオンの借金も全部返せる。」
彼女は疑うような目でギャリックを見た。
「これって……」
「レオンに頼まれたの?」
ギャリックは首を横に振る。
「違う。」
「俺たちが、お礼をしたかっただけだ。」
微笑む。
「レオンは何も知らない。」
テッサは口元を指でなぞり、
まるでファスナーを閉めるような仕草をした。
「私の口はちゃんと閉じてるわ。」
いたずらっぽくウインクする。
そして両手をギャリックの肩へ置いた。
「肩、すごく凝ってそうね。」
「マッサージしてあげようか?」
ギャリックは少し赤くなる。
「い、いや!」
「俺は……」
「スープを飲み終えたいだけだから。」
「ありがとう。」
テッサはくすりと笑った。
「そっか。」
立ち上がる。
「何か必要だったら……」
もう一度ウインクする。
「遠慮なく呼んでね。」
そう言って厨房へ戻っていった。
別の客に料理を運んでいたエドリックは、
一部始終を見ていた。
テーブルの横で立ち止まり、
心からの笑顔を浮かべる。
「こんなに嬉しそうな妹を見るのは……」
厨房へ目を向ける。
「本当に久しぶりだ。」
再び皆を見る。
「ありがとう。」
ミレイリアは微笑んだ。
「どういたしまして。」
ギャリックも続ける。
「俺たち……」
「みんなのことが好きだから。」
「ただ、お礼がしたかっただけだ。」
「本当にレオンとは関係ない。」
エドリックは笑った。
「聞こえてたよ。」
軽く頭を下げる。
「今日から……」
「君たちが望もうと望むまいと……」
「この宿の特別なお客様だ。」
少し間を置いて、
意味ありげに笑う。
「ただし……」
「テッサには気を付けて。」
「機嫌が良くなると……」
「ちょっとやり過ぎることがあるから。」
ギャリックは笑う。
「それ、悪いことみたいに言うんだな。」
エドリックは肩をすくめた。
「まあ……」
「そのうち分かるよ。」
そう言い残し、
厨房へ戻っていった。
一行はスープを飲み終え、
しばらくしてそれぞれ自分の部屋へ向かった。
その夜――
レンも眠る準備をしていた。
その時だった。
**コン……コン……**
扉を叩く音が響く。
レンは扉を見る。
「誰だ?」
返事はない。
レンは頭を掻いた。
「開けるしかないか……」
ゆっくり扉を開けると――
「み、ミレイリア?」
彼女は寝間着姿だった。
頬を真っ赤に染め、
身体を小さく左右へ揺らしている。
レンは彼女の顔へ視線を向ける。
だが無意識に――
ほんの一瞬だけ視線が下へ落ちた。
すぐに慌てて目を逸らす。
一度ぎゅっと目を閉じた。
*「しまった……」*
*「見ちゃダメだった……」*
「ご、ごめん!」
「そんなつもりじゃ――」
最後まで言い切る前に、
ミレイリアが口を開いた。
「ごめんね。」
二人の間に静かな沈黙が流れる。
レンは瞬きをした。
「ごめん?」
「何が?」
ミレイリアは俯いた。
「さっき……」
「スープを飲んでた時に、あなたの足を踏んじゃったこと。」
深く息を吸った。
「それと……」
「あなたに怒ってしまったことも。」
レンは小さく微笑んだ。
「ああ……」
「君だったのか?」
首を横に振る。
「気にしなくていい。」
「むしろ……」
少しだけ笑って、
「あの時、君がああしてくれなかったら……」
「たぶん俺は余計なことを口にしてた。」
「だから、むしろお礼を言わないと。」
ミレリアは少しだけ頬を膨らませた。
「レンは……」
「私には一度も怒らないよね……」
「どうして?」
レンは静かに息を吐いた。
「ほら……」
「外は寒いし。」
「続きは明日話そう。」
しかしミレリアはそのまま扉を押して開け、
部屋の中へ入ってきた。
レンは目を見開く。
「み、ミレリア!」
「待って!」
ミレリアは部屋の中央まで歩いていき、
振り返ってレンを見た。
「さっき……」
「外でリセラと何を話してたの?」
レンは何度か瞬きをした。
「ああ……」
頭をかきながら答える。
「ただ将来のことを話してただけだよ。」
ミレリアは少し首を傾げた。
「将来のこと?」
「う、うん……」
レンはうなずく。
「例えば……」
「全部終わったら、それぞれ何をしたいかとか……」
「そんな話。」
ミレリアはしばらく黙っていた。
やがて視線を逸らし、
ゆっくりとレンに背を向ける。
小さな声で尋ねた。
「レンは……」
「リセラのことが好きなの?」
レンはわずかに口を開いたが、
すぐには言葉が出なかった。
沈黙が数秒続いたあと、
どこか気まずそうに答える。
「す、好きっていうか……仲間としては好きだよ。」
「だって、君を助けてくれたじゃないか。」
ミレリアはその場から動かなかった。
顔はどんどん赤くなり、
震える瞳で再びレンを見つめる。
「そ、そういう意味じゃなくて……」
レンは落ち着かない様子で視線を泳がせた。
「あ、ああ……そういう意味?」
後頭部をかきながら苦笑する。
「たぶん……違うかな。」
ミレリアは一歩近づいた。
そしてもう一歩。
「それ……」
「私の目を見て言える?」
レンはごくりと唾を飲み込んだ。
「あ、あの……」
また視線を逸らす。
「パジャマ姿だから、その……」
「あんまり見ないほうがいいかなって……」
ミレリアはさらに一歩近づく。
気づけば二人の距離はすぐ目の前だった。
「私は気にしない。」
レンの顔は一気に熱くなる。
思わず視線が、
ミレリアの薄いパジャマへ一瞬だけ落ちてしまった。
「み、ミレリア……」
ミレリアはまっすぐレンを見つめたまま言った。
「レンは……」
「私のこと、好きじゃないの?」
レンはしばらく、
赤く染まった彼女の顔だけを見つめていた。
やがて深く息を吐き、
一歩だけ後ろへ下がる。
「ミレリア……」
目を閉じ、
静かに言った。
「ごめん。」
声は少しだけ低くなる。
「俺には……」
「いろいろ抱えてるものがある。」
もう一度目を開け、
ゆっくり続けた。
「それに……」
「まだ忘れられない人がいるんだ。」
ミレリアはゆっくりとうつむいた。
両手を背中に隠したまま、
しばらく黙って立ち尽くす。
そして小さな声で尋ねた。
「レンは……」
「元の世界で、誰かを愛してたの?」
レンは静かに息を吐いた。
「う、うん……」
窓の外へ目を向ける。
「事故に遭った頃には……」
「もう、その人との繋がりはなくなっていたけど……」
ミレリアは悲しそうに微笑んだ。
本当に小さく、
気づかないほど儚い笑みだった。
「もう繋がりがなかったなら……」
ゆっくり顔を上げる。
「それなのに……どうして?」
レンはもう一度目を閉じた。
「難しいんだ……」
寂しそうに笑う。
「ごめん、ミレリア。」
ゆっくり顔を上げた。
「今の俺は……」
「君を利用してしまう気がする。」
少し間を置く。
「まだ心の中に残っている空白を……」
「君で埋めようとしてしまう気がするんだ。」
ミレリアはしばらく動かなかった。
そしてうつむいたまま、
ゆっくり扉のほうへ歩いていく。
レンはその背中を見つめながら言った。
「もし怒ったなら……」
悲しそうに微笑む。
「それでも仕方ないと思う。」
ミレリアはドアノブに手をかけたまま立ち止まった。
振り返ることなく、
小さな声で答える。
「ありがとう……」
「私のことを考えてくれて。」
扉を開ける。
部屋の外へ出たあとも、
背中を向けたまま小さく笑った。
「でも……」
「もし受け入れてくれてたとしても……」
「私は嫌じゃなかったよ。」
扉はゆっくりと閉まった。
部屋は再び静寂に包まれる。
レンは髪をかき乱すように頭へ手をやった。
「ごめん……ミレリア……」
しばらくその場に立ち尽くしたあと、
壁へ視線を向ける。
その表情はどこか遠くを見つめていた。
「……美咲。」
ゆっくりと目を閉じる。
「もしあいつが……」
「俺があのトラック事故で死んだって聞いたら……」
深く息を吐く。
「どんな反応をしたんだろう……」
……
再び、記憶が蘇る。
あれは賑やかな夜だった。
レンは新井美咲や仲間たちと一緒にカラオケへ来ていた。
部屋の中は笑い声で溢れている。
坂本アオイ。
高瀬ヒナ。
神崎ミオ。
山田リク。
山本ソウマ。
藤本タケオ。
篠原舞。
タクミ。
ハナエ――
みんなが思い思いに楽しい時間を過ごしていた。
レンはマイクをリクへ向ける。
「次はリクの番だ。」
リクは嫌そうな顔をした。
「えー、もう歌ったって!」
タケオが吹き出す。
「いいじゃねえか、松田。」
「こいつ、歌は下手なんだから。」
リクは腕を組んだ。
「でも、お前ほどじゃない。」
笑いながら言う。
「タケオは演技は上手いけどさ。」
「歌はそうでもないよな。」
舞が小さく笑った。
「まあまあ。」
「今日は楽しもうよ。」
ヒナは持っていたノートを掲げる。
「新しい漫画を描き始めたの。」
笑顔で続ける。
「今度の主人公は大学生なんだ。」
アオイは少し首を傾げた。
「大学生……」
微笑む。
「私たちと同じだね。」
ミオはいたずらっぽく笑った。
「ヒナ。」
「もうバレバレじゃん。」
さりげなくリクを指差す。
「いっそのこと山田との結婚生活を漫画にしちゃえば?」
ヒナは勢いよく立ち上がった。
顔は真っ赤だ。
「み、ミオっ!」
みんなの視線がリクへ集まる。
当の本人は子どものような笑顔を浮かべていた。
アオイがくすっと笑う。
「山田くん、嬉しそう。」
ソウマは腕を組む。
「山田があんな笑い方したの、一度しか見たことない。」
「好きなバンドのライブチケットが当たった時だ。」
レンは思わず笑った。
「確かに。」
「ゲーム機を買った時も。」
「まったく同じ顔してたな。」
リクは肩をすくめた。
「なんでみんな俺をいじるんだよ。」
そう言ってヒナを見る。
笑みはさらに大きくなった。
「だって俺は……」
「世界で一番可愛い子と結婚するんだから。」
ヒナは完全に固まってしまった。
テーブルの上にあった雑誌を手に取り、
顔を隠す。
ミオは笑い転げる。
「ちょっと山田!」
「そんなこと言ったらヒナが心臓止まるって!」
タクミはマイクを持って立ち上がった。
「さて……」
「次は俺かな。」
すぐ後ろからハナエも立ち上がる。
「一緒に歌おう!」
タクミは笑った。
「まだ息を合わせる練習が必要だよ、ハナエ。」
ハナエは腕を組み、
わざと不満そうな顔をする。
「もう十分息は合ってるもん。」
笑いながら言った。
「気づいてないのはタクミだけ。」
二人が曲を選び始めたその時――
レンは何気なくアオイへ目を向けた。
その一瞬だった。
何かが目に留まる。
アオイの瞳に、
青い光が不思議に反射していた。
レンはわずかに眉をひそめる。
隣に座っていたソウマの脇腹を軽く肘でつついた。
「なあ、ソウマ。」
ソウマは顔を向ける。
「どうした?」
レンはアオイから目を離さないまま言った。
「気づいたか?」
「アオイ……」
ソウマはレンを見る。
「アオイがどうした?」
レンは少し言葉をためらう。
「いや……」
「あいつの目なんだけど……」
ソウマはもう一度アオイを見る。
そして再びレンへ視線を戻した。
首をかしげる。
「目?」
「何言ってるんだ?」
レンは小さく息を吐いた。
(本当に……誰も見えてないのか?)
みんなが笑いながら話し続ける中、
レンは部屋の中を見渡した。
その時だった。
篠原舞が目に入る。
彼女は部屋の反対側にいた。
誰とも話さず、
ただレンだけを見つめている。
その瞳は真剣だった。
そして――
本当にわずかに、
首を横へ振った。
まるで、
「そのことは口にしないで。」
そう伝えているかのように。
レンはわずかに目を見開く。
(篠原……?)
数秒間、
彼は完全に固まっていた。
「おい、レン!」
ソウマの声で我に返る。
「どうしたんだよ?」
「早く言え。」
レンは二度瞬きをした。
深呼吸してから、
苦笑いを浮かべる。
「ああ……」
後頭部をかく。
「いや。」
「お前ら二人のデュエット、いつ聴けるのかなって思ってさ。」
ソウマは数秒レンを見つめた。
「……は?」
そしてアオイを見る。
二人の視線が重なる。
アオイは微笑み、
ソウマも笑い返した。
それから再びレンを見る。
「そのうちな。」
「あとで歌うよ、松田。」
笑顔で言う。
「聞いてくれてありがとな。」
レンは小さく笑った。
「そっか。」
「楽しみにしてる。」
何気なく、
レンはテーブルの上で美咲の手にそっと触れた。
美咲は驚いたように彼を見る。
「どうしたの、レンくん?」
レンはただ微笑んだ。
「なんでもない。」
優しく彼女の手を握る。
「俺たちが結ばれて……」
「本当に良かったなって思って。」
美咲は一瞬で真っ赤になった。
慌ててテーブルへ視線を落とす。
「こ、こんなところで言わないで……」
声は囁くように小さかった。
「は、恥ずかしいよ……」
レンはくすっと笑う。
「ごめん。」
「つい口に出ちゃった。」
美咲も思わず笑顔になった。
みんなが楽しそうに話し続ける中――
レンはもう一度、
さりげなく篠原へ目を向けた。
しかし彼女はもうレンを見ていなかった。
その視線は、
アオイへ向けられていた。
レンも再びアオイを見つめる。
だが、
そこには何の違和感もない。
ヒナやミオと笑い合う、
いつものアオイだった。
レンはわずかに眉を寄せる。
(間違いない……)
(あの目に、何かあったはずなんだ……)
……
記憶はゆっくりと薄れていく。
カラオケ。
笑い声。
仲間たちの声。
すべてが静かに溶けて消えていった。
レンは再び目を開く。
そこは宿屋の自室だった。
部屋には静寂だけが残っている。
彼はベッドに腰掛け、
床を見つめたまま動かなかった。
やがて、
寂しそうに微笑む。
「もう一度……」
「十九歳に戻れたらな……」
ゆっくり目を閉じる。
「もう一度……」
「あのカラオケに戻りたい……」




