第10話 ラスト・ドリンク II
レオンは戦闘態勢のまま立っていた。
その全身は濃密な魔力のオーラに包まれ、鋭い視線は一切揺らぐことなく、ただ返答を待っていた。
レンは心の中で呟く。
(最悪の展開になったら……ここから全力で逃げるしかない。)
隣では、ギャリックも静かに考えていた。
(今ここで戦うのは最悪だ……まして、こんな化け物が相手じゃな。)
ミレイリアは何も言わず、ただレオンを見つめていた。
その時――
ライセラが一歩前へ出た。
「待ってください、ギルドマスター。」
レオンは視線を逸らさなかった。
「君たちが嘘をつけば、すぐに分かる。」
その声には一切の揺らぎがなかった。
「この部屋を閉め切ったのも、この部屋全体に魔法を施したからだ。」
短く間を置き、再び問いかける。
「――それで?」
レンは深く息を吸い込んでから答えた。
「俺たちは潜入者なんかじゃありません! そんな奴ら、誰一人知りません!」
レオンは二秒ほど四人をじっと見つめ続けた。
そして再び口を開く。
「いいだろう……」
その眼差しはいっそう鋭くなった。
「では教えてくれ。」
「あのダンジョンにいたドラゴンから、どうやって逃げ延びた?」
レンは迷わず問い返した。
「……あのドラゴンのことを知っていたんですか?」
レオンは即座に言った。
「質問をするのは私だ。」
ミレイリアは小さく頭を下げる。
「は、はい……」
レンはごくりと唾を飲み込んだ。
「……逃げました。」
レオンはわずかに目を細めた。
「情報を隠すな。」
声が一段低くなる。
「正直に話せ。」
レンがもう一度答えようとした、その瞬間――
ミレイリアが一歩前へ出て、両腕を広げる。
まるでレンを守るように、その前へ立った。
「私たちは敵ではありません、ギルドマスター。」
レオンはレンへ視線を戻す。
「君がレンだな?」
数秒間、じっと彼を見つめた。
「魔力をまったく持たない者など、私は見たことがない。」
レンは居心地悪そうに肩をすくめた。
「そ、それが……何か?」
レオンは遠回しな言い方をしなかった。
「答えろ。」
「あのドラゴンを、どうやって対処した?」
レンは大きく息を吐く。
そして正直に答えた。
「ドラゴンを殴りました。」
少しだけ間を置く。
「倒れたところで……」
「俺たちは逃げました。」
執務室は静まり返った。
レオンは長い間、四人を見つめ続ける。
そして、不意に――
口元に笑みが浮かんだ。
「私の魔法は、嘘を一つも検知しなかった……」
小さく首を振る。
「だが、どうしてこんなにも信じがたい話なんだ?」
短く笑う。
「ははは……」
その次の瞬間――
レオンの周囲から再び莫大な魔力が溢れ出した。
室内は一瞬で重苦しい圧力に包まれる。
時間が経つごとに、その威圧感はさらに増していった。
ミレイリアは目を見開く。
マリは困惑した表情を浮かべた。
「レ、レオン様……?」
レオンはすぐに彼女の方を向いた。
そして、自分が何をしていたのかに気付いたように頭を掻く。
「ああ……」
照れくさそうに笑う。
「すまない、マリ。」
「君もここにいたのを忘れていた。」
そう言うと、彼の魔力は元の程度まで静まった。
部屋の空気もようやく元に戻り、呼吸がしやすくなる。
レオンは再びレンへ視線を向けた。
「レン。」
「君は一体、何者なんだ?」
レンが答えるより早く、ミレイリアが口を開く。
「レンは……」
深く息を吸う。
「私が……召喚した勇者です。」
その瞬間――
執務室は完全な沈黙に包まれた。
誰一人として動かなかった。
数秒後――
静寂を破ったのはライセラだった。
「……そういうことだったの?」
彼女はレンを見る。
「だから、あなたは自分の世界の話をしていたのね……」
レオンは二人を静かに見つめる。
やがて視線をミレイリアへ移した。
「アルセリオン王国の外で勇者を召喚したのか?」
表情が険しくなる。
「この儀式を手伝ったのは誰だ?」
ギャリックはすぐに答えた。
「ミレイリアは一日中、床一面にルーンを描いていた。」
一瞬だけミレイリアを見る。
「魔力を限界まで高めるためにな。」
腕を組みながら続けた。
「その間、俺は見張りをしていた。」
レオンはしばらく黙っていた。
やがて小さく呟く。
「ルーン……」
わずかに眉をひそめた。
「その魔法体系は……とうの昔に失われたはずだ。」
ミレイリアは静かに拳を握り締める。
俯いたまま、一言も発しなかった。
レオンは再び彼女を見る。
「なるほど……」
落ち着いた口調で続ける。
「これで君は、私にとって疑わしい魔導士になった。」
わずかに笑う。
「おめでとう。」
そして今度はレンを見る。
「そして君は……」
ゆっくりと歩み寄る。
「魔力を持たない。」
「それなのに、常識外れの力を持っている。」
深く息を吐いた。
「……いくつか納得できた。」
少し間を置き、レンを真っ直ぐ見据える。
「勇者。」
「本当に勇者なら、魔王軍と戦うべきではないのか?」
レオンはギャリックをまっすぐ見つめたまま、しばらく沈黙していた。
やがて――
部屋中を満たしていた魔力が、ゆっくりと完全に消えていった。
重苦しかった空気も、ようやく元に戻る。
レオンは静かに息を吐いた。
「……よし。」
その口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「お前たちは真実を話した。」
四人を順番に見回しながら続けた。
「必要以上にな。」
ギャリックが眉をひそめる。
「……それで?」
レオンは机に肘をつき、広げられた地図へ視線を落とした。
「本当は――」
少し間を置く。
「ギルドの一番腕の立つ冒険者たちが戻ってくるのを待っていた。」
地図から目を上げ、ギャリックを見た。
「この依頼は、本来なら奴らに直接渡すつもりだった。」
しかし、そのまま静かに続ける。
「だが――」
小さく笑った。
「この依頼は、お前たちに任せる。」
そしてギャリックの顔を見つめた。
「それに……」
視線を少し下げる。
「お前も、あまり時間がないんじゃないか?」
ギャリックは困惑した表情を浮かべた。
「……どういう意味だ?」
レオンはその表情を見つめたまま答える。
「その毒には見覚えがある。」
静かに続けた。
「この部屋にかけた魔法には、そういうものを感知する効果もある。」
その表情が再び真剣になる。
「ドラクタール王国特有の毒だ。」
再び部屋が静まり返る。
レオンは古びた木箱の前まで歩いていった。
中に入っていた書類を一枚ずつ探し始める。
しばらくして――
一本の巻物を取り出した。
「これだ。」
そう言ってギャリックへ差し出す。
「これがお前たちの依頼だ。」
続いて地図の一点を指差した。
「この場所に集合地点がある。」
さらに指を滑らせながら説明する。
「そこには帝国近衛兵が待っている。」
「ドラクタール王国への潜入方法については、そこで詳しく説明してくれる。」
ガリックは地図をじっと見つめた。
そして、小さくつぶやく。
「……多種族王国か。」
レオンは静かにうなずいた。
「その通りだ。」
ガリックはそのままライセラへ視線を向けた。
彼女の答えを聞く必要があった。
ライセラは数秒間、黙ったままだった。
やがて、ガリックが口を開く。
「俺は……」
一度言葉を切る。
「ミレイアの家族を助ける。」
ミレイアは少し視線を落とした。
「家族は……魔王国が最近制圧した領地にいます。」
ライセラは目を見開く。
「ま、魔王国……?」
ミレイアは静かに息を吸った。
そして落ち着いた声で言う。
「はい。でも、その前に……レン。」
一瞬だけ視線を逸らす。
「ごめんなさい。」
少し間を置いて続けた。
「でも……」
「あなたも分かっているように……」
再びレンを見つめる。
「全部が終わったあとでも……たぶん、私はあなたを元の世界へ帰すことはできません。」
その瞳は真剣だった。
「ほとんど不可能なんです……。」
「そんなことをすれば、自殺行為です。」
レンはすぐに答えた。
「俺は二十八歳だった。」
苦笑いを浮かべる。
「何一つ成し遂げないまま……死んだんだ。」
ライセラは少し目を見開いた。
「……レン。」
ガリックは腕を組む。
「お前の力。」
レンへ視線を向ける。
「それに……魔力をまったく持っていないこと。」
真剣な表情のまま続ける。
「少なくとも、普通じゃない。」
レオンは再び椅子に腰を下ろした。
両手を机の上で組み、静かに言う。
「では、決まりだな。」
四人を見回した。
「お前たちはこの場所へ向かえ。」
地図の一点を指差す。
「到着したら、帝国兵の指示を待て。」
「任務の詳細は、そこで説明される。」
少し間を置く。
「今ここで話すことはできない。」
椅子にもたれかかる。
「もう行っていい。」
マリが扉へ近づき、それを開けながら四人を見た。
ライセラはレオンへ視線を向ける。
「……今すぐ出発しなければならないんですか?」
レオンは首を横に振った。
「いや。」
「今夜は『ラスト・ドリンクⅡ』に泊まるといい。」
「ここから近い、大きな宿兼酒場だ。」
ミレイアは少し視線を落とす。
「でも……お金を用意しないと……。」
レオンは小さく笑った。
「俺の紹介だと言えばいい。」
「獅子ギルドのギルドマスター、レオンからだと。」
「宿代も食事代も、全部俺のツケにしてくれる。」
そう言うと、四人を指差した。
「ただし……」
「やりすぎるなよ。」
レンは小さく笑う。
レオンは続けた。
「明日の朝、馬車を用意しておく。」
「途中までは送ってやる。」
「そこから先は、自力で進め。」
少し間を置く。
「もちろん……まだこの依頼を受ける気があるなら、だが。」
ガリックは窓の外を見た。
空はすでに夕暮れへと変わり始めていた。
「出発は明日にしたほうがいい。」
「夜に移動するのは危険すぎる。」
レオンは静かにうなずく。
「同感だ。」
四人はそれ以上何も言わず、執務室を後にした。
全員が外へ出ると、マリは静かに扉を閉めた。
そして四人へ向き直る。
「『ラスト・ドリンクⅡ』の場所は分かりますか?」
四人はそろって首を横に振った。
ガリックは額に手を当てる。
「聞くのを忘れてた……。」
小さくため息をつく。
「本当に頭まで毒が回ってきたみたいだ。」
マリは優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。」
軽く笑って続ける。
「この道をまっすぐ二ブロック進んで、右へ曲がればすぐです。」
「迷うことはありません。」
レンは小さく頭を下げた。
「分かりました。」
「ありがとうございます。」
四人はヴァルテリスの街を歩き始めた。
街の賑わいは、少しずつ落ち着きを見せ始めていた。
露店の商人たちは商品や木箱、布を片付けながら店じまいをしている。
店先に吊るされたランタンの火を消す者もいれば、重い木の扉をゆっくり閉める者もいた。
営業を終えようとしていたパン屋からは、焼きたてのパンの香ばしい香りが漂ってくる。
少し先では、果物売りが最後の果物を大きな籠へ丁寧にしまっていた。
石畳の通りにはまだ人影が多く残っていたが、そのほとんどは家路につく住民や、宿を探す冒険者、ゆっくりと通りを進む馬車ばかりだった。
やがて太陽が地平線へ沈み始めると、街中のランタンに次々と明かりが灯る。
柔らかな橙色の光が石畳を照らし、夕暮れの街を静かに包み込んでいた。
数分ほど歩くと――
ミレイアが目の前に建つ大きな建物を見上げる。
「わあ……。」
思わず小さく笑みを浮かべた。
「『ラスト・ドリンクⅡ』って、本当に大きいんですね。」
ガリックも建物を見上げた。
「ここは知らなかったな……。」
口元をわずかに緩める。
「見たところ、悪くなさそうだ。」
ライセラも建物へ視線を向ける。
「宿にも泊まれるんですね……。」
少しだけ表情が和らぐ。
「よかった。」
レンも笑みを浮かべた。
「じゃあ……。」
入口へ視線を向ける。
「入ろうか。」
四人は酒場の中へ足を踏み入れた。
扉を開けた瞬間、何十人もの話し声が一斉に耳へ飛び込んでくる。
店内は広々としており、多くの客で賑わっていた。
あるテーブルでは冒険者たちがジョッキを掲げ、大声で笑い合っている。
別の席では静かに食事を楽しむ者たちの姿もあった。
店員たちは料理や飲み物を両手いっぱいに抱え、忙しそうにテーブルの間を行き来している。
四人はしばらく店内を見回したあと、空いている席を見つけて腰を下ろした。
ガリックは肘をテーブルにつく。
「明日出発する前に……。」
ドラゴンの鱗が入った袋へ目を向ける。
「この鱗を早く売らないといけない。」
ミレイアも小さくうなずいた。
「はい。」
小さくため息をつく。
「ギルドマスターのレオンに、ずいぶん長く引き止められてしまいましたから。」
「ギルドを出た頃には、お店はもう閉まっていました。」
レンは店内を興味深そうに見回した。
「本当に広い場所だな……。」
小さく笑う。
「へぇ。」
そのときだった。
赤い髪を後ろで軽くまとめたウェイトレスが、元気よくこちらへ駆け寄ってきた。
満面の笑みを浮かべながら軽く一礼する。
「いらっしゃいませ!」
「私はテッサです。」
四人を順番に見回した。
「皆さん、初めてお見かけしますね。」
ガリックは丁寧に答える。
「獅子ギルドのギルドマスター。」
「レオンさんの紹介で来ました。」
その瞬間――
テッサの笑顔がすっと消えた。
腕を組み、呆れたような表情になる。
「はぁ……。」
大きく目を逸らした。
「よりによって、あのツケ常習犯ですか。どうせ宿にも泊まるつもりなんでしょう?」
四人は思わず顔を見合わせた。
「えっ?」
するとテッサは何事もなかったかのように、再びにこりと笑う。
「あっ、ごめんなさい。」
軽く手を振った。
「あのクズの借金は皆さんには関係ありませんから。」
そう言うと、破れかけた小さなメモ用紙を取り出した。
「それで――」
「ご注文は何になさいますか?」
レンは思わず冷や汗を流した。
(天使みたいな笑顔で、あんなことを平然と言うなんて……。)
(この人、ちょっと怖い……。)
最初に注文したのはミレイアだった。
「私はビーフシチューとパン、それからハーブティーをお願いします。」
ライセラは少し考えてから答える。
「私は……焼き魚とご飯、お水をお願いします。」
ガリックは笑顔で言う。
「肉料理を一番大きいサイズで。」
「それと、大きなジョッキ一杯のジュースを。」
レンはちらりとミレイアを見る。
「じゃあ、俺もミレイアと同じものを。」
「あと、ジュースも一杯お願いします。」
テッサは手際よく書き留める。
「はいはい。」
レンを見ながらにやりと笑う。
「お子様用ジュースがお一つですね。」
レンは一瞬眉をひそめた。
しかし彼女の圧に押され、何も言い返せなかった。
「では、すぐお持ちします。」
そう言うと、来たときと同じ勢いで厨房へ駆けていった。
しばらくして――
テッサが再びホールへ戻ってきた。
優しく微笑みながら言う。
「お待たせしました。」
店内を見回して苦笑する。
「ご覧の通り、今日はかなり混んでいるので。」
四人へ視線を戻した。
「お部屋の準備はできています。」
「お料理ももうすぐ運ばれてきますよ。」
再び笑顔になる。
「もちろん全部レオンさんのツケです。」
肩をすくめながら笑った。
「明後日には、支払いを待ってくださいって土下座しに来るでしょうけどね。」
四人はしばらく顔を見合わせた。
やがてミレイアがテッサへ小さく微笑む。
「私たちのためにありがとうございます。」
少しだけ頭を下げた。
そのとき――
カウンター脇の扉から、一人の男性が姿を現した。
白髪交じりの髪に、穏やかな笑みを浮かべている。
「こんばんは。」
軽く一礼した。
「私はエドリックと申します。」
「二階にお風呂がありますので、ご自由にお使いください。」
そう言って階段の方を指差した。
ガリックは軽く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけします。」
「エドリックさん。」
エドリックは穏やかに笑った。
「そんなに気を遣わなくて大丈夫ですよ。」
軽く手を振る。
「どうぞ、ごゆっくり。」
四人を順番に見回した。
「レオンが送り込んできた方たちなら……」
優しい笑みを浮かべたまま続ける。
「きっと信頼できる方たちでしょう。」
二階を指差す。
「よろしければ、先にお風呂をお使いください。」
「夕食の準備ができたら、お声を掛けしますので。」
それだけ言うと、エドリックは再び厨房へ戻っていった。
四人も階段を上がり、それぞれの部屋へ向かう。
レンは自分の部屋へ入り、周囲を見渡した。
そして、大きく息を吐く。
「やっと……。」
小さく笑みを浮かべた。
「少し休めるな。」
浴室の扉へ視線を向ける。
「でも、その前に……。」
「風呂に入ろう。」
それから――
「何か食べる。」
レンは部屋の扉を開けた。
その瞬間――
思わず肩を震わせる。
「ライセラ!」
部屋の前にはライセラが立っていた。
ライセラはまっすぐレンを見る。
「レン。」
少し視線を落とす。
「お願いがあるの。」
再び顔を上げた。
「あとで……」
少し間を置く。
「少し話せる?」
レンは何度か瞬きをした。
「え?」
首を少し傾げる。
「どうして?」
ライセラはすぐに答えた。
「あとで。」
少しだけ強い口調になる。
「……いい?」
レンは数秒間、彼女を見つめた。
やがて深く息を吐き、
静かに答える。
「分かった……。」
ライセラは小さく頭を下げると、そのまま廊下を歩いて行った。
レンはしばらくその場に立ったまま、彼女が去っていった方向を見つめていた。
「何の話なんだろう……。」
軽く頭をかく。
「まあ……。」
「あとで分かるか。」
それ以上考えるのをやめると、
再び部屋へ戻り、
タオルを手に取る。
そのまま浴場へ向かった。
・・・
約一時間後――
宿の中には食欲をそそる料理の香りが広がっていた。
四人は再び一階の食堂へ降りてくる。
エドリックが料理をテーブルへ運んできた。
「どうぞ。」
穏やかに微笑む。
「精一杯お作りしました。」
レンは目の前の料理を見つめた。
「うわぁ……。」
自然と笑みが浮かぶ。
「こんな料理を見るのは久しぶりだ。」
エドリックは小さく笑う。
「それなら、たくさん召し上がってください。」
四人は食事を始めた。
しばらくの間――
誰も口を開かなかった。
聞こえるのは木製の食器が触れ合う音だけだった。
皿の半分ほどを食べ終えた頃、
レンは満足そうに息を吐く。
「あぁ……。」
「生き返った。」
ガリックが小さく笑う。
「腹が満たされると、まるで別人だな。」
レンも笑い返した。
「腹が減るほうが、ドラゴンと戦うよりきつい気がする。」
ミレイアが思わず笑う。
「それ、すごく具体的ですね。」
レンは肩をすくめた。
「実際にそうだったからな。」
四人は再び静かに食事を続けた。
数分後――
全員が食べ終えると、
エドリックが皿を下げに来た。
「お口に合いましたか?」
ミレイアは礼儀正しく微笑む。
「とても美味しかったです。」
「ありがとうございました。」
エドリックは軽く一礼した。
「そう言っていただけて嬉しいです。」
そう言うと、再び厨房へ戻っていった。
食堂には人もかなり少なくなっていた。
向こう側では数人の冒険者がまだ談笑していたが、
全体としてはとても静かな空気が流れていた。
その時――
ライセラがそっとレンを見つめる。
「レン……。」
レンは顔を上げた。
「ん?」
ライセラはすぐに視線を逸らした。
「少し……。」
深く息を吸う。
「話せる?」
レンは数秒間黙っていたが、
やがて微笑む。
「もちろん。」
椅子から立ち上がる。
「行こう。」
二人はゆっくりと宿の外へ出た。
夜はすっかり更けていた。
通りは静まり返り、
街灯だけが石畳を淡く照らしている。
二人はしばらく並んで歩き続けた。
どちらも口を開かない。
静寂だけが二人の間を流れていた。
そして――
やがてライセラが、その沈黙を破った。
「レン……。」
レンはライセラの方を見た。
「うん?」
ライセラは前を見つめたまま言った。
「あなたは……。」
少し言葉を切る。
「本当に、自分の世界へ帰るつもりなの?」
レンは数秒間、黙っていた。
そして静かに答える。
「前までは……。」
少し視線を落とす。
「絶対に帰るつもりだった。」
苦笑を浮かべる。
「でも今は……。」
小さく肩をすくめた。
「それが本当にできるのかも分からない。」
「ミレイアも言ってただろ。」
「そんなことを試すのは、自殺行為だって。」
ライセラは歩き続けながら、
レンの方を見ずに尋ねた。
「もし……。」
少しだけ声を弱める。
「本当に帰れたら……。」
ようやくレンを見つめる。
「この世界のこと、恋しくなったりする?」
レンは少し考え込んだ。
そして正直に答える。
「まだ分からない。」
夜空を見上げる。
満天の星が静かに輝いていた。
「ここへ来て、まだそんなに時間は経ってないから。」
小さく笑う。
「でも……。」
ライセラの方へ視線を向ける。
「いい人たちには出会えた。」
少し照れくさそうに笑う。
「前の世界の友達と少し似てる気がするんだ。」
「いつも騒ぎばかり起こしてた山田みたいなやつもいたしな。」
ライセラは何も言わず、
静かに歩き続けた。
レンは再び前を向く。
「でも、どうしてそんなことを聞くんだ?」
ライセラは深く息を吸う。
服の裾を握る指先に、少し力が入った。
しばらくしてから、
静かに口を開く。
「だって……。」
少し俯く。
「私は今まで……。」
声が少し小さくなる。
「異世界から来た人に会ったことなんて、一度もなかったから。」
ゆっくりと顔を上げる。
真っすぐレンを見つめた。
「だから……。」
少し間を置く。
「あなたのことを、もっと知りたかったの。」
レンは少し眉を下げて笑う。
「俺なんて、本当に普通の人間だよ。」
肩をすくめる。
「この世界じゃ勇者なんて呼ばれてるけど……。」
首を横に振る。
「特別な人間じゃない。」
自分の拳を見つめる。
「この力がどこから来たのかも分からないし。」
ライセラが再び口を開いた。
「じゃあ……。」
しばらくレンを見つめる。
「あなたは、本当に魔王を倒すつもりなの?」
レンは静かにうなずく。
「うん。」
視線は前を向いたままだった。
「約束したから。」
ライセラはゆっくりと目を伏せる。
「でも……どうして?」
少し間を置く。
「あなたは、その戦いに関わる必要なんてなかった。」
再びレンを見る。
「だって……。」
「あなたは王国の外で召喚されたんでしょう?」
レンは少し沈黙したあと、静かに答えた。
「ミレイアは……。」
ライセラを見る。
「家族を助けたくて、俺をこの世界へ呼んだ。」
深く息を吸う。
「あの時の彼女は……。」
表情が少し真剣になる。
「本当に必死だった。」
少し間を置く。
「その気持ちは、目を見れば分かった。」
ライセラは小さくつぶやく。
「……そう。」
レンは再び前を見る。
「それに……。」
少し苦笑する。
「元の世界へ帰る方法だって、本当にあるのか分からない。」
首の後ろを軽くかく。
「そもそも……。」
「俺は、あの事故で死んだはずなんだから。」
ライセラは何度か瞬きをした。
「転落して……。」
「死んだの?」
レンは肩をすくめる。
「たぶん。」
少し眉をひそめる。
「でも、それが一番不思議なんだ。」
夜空を見上げる。
「死んだ人間が……。」
「どうやって別の世界へ来ることができたんだろうな。」
二人はしばらく無言で歩き続けた。
しばらくして――
ライセラが突然立ち止まる。
後ろを振り返った。
「……少し離れすぎたわね。」
レンへ視線を向ける。
「戻りましょう。」
レンは小さく笑う。
「ああ。」
「そうだな。」
二人は来た道を戻り始めた。
その時だった。
ライセラは、数ブロック先に一つの人影を見つけた。
全身を大きなマントで覆い隠し、
見えているのは――
透き通るような翠色の瞳だけ。
ライセラはすぐに足を止めた。
「待って!」
鋭い声が夜道に響く。
「あなた、誰!?」
その瞬間――
その人物は一歩後ろへ下がると、
路地裏へ姿を消した。
レンはライセラが見ていた方向を見る。
「どうした?」
そして彼女を見る。
「誰かいたのか?」
ライセラはまだその場所を見つめていた。
「うーん……。」
少し眉をひそめる。
「誰かが……。」
「私たちを見張っていた気がする。」
レンは考え込む。
「変だな……。」
顎に手を当てる。
「俺も似たようなことがあった。」
ライセラはレンを見る。
レンは続けた。
「ヴァルテリスへ来たばかりの頃。」
「フードを被った女を見かけた。」
表情が少し引き締まる。
「ずっと俺を見てるような気がしたんだ。」
ライセラは目を見開いた。
「早く戻りましょう。」
その声には不安が滲んでいた。
「この王国で、そんな気配を感じるのは嫌な予感しかしない。」
少し間を置く。
「もう……。」
「あなたの存在が知られているんじゃない?」
レンは首を横に振る。
「いや……。」
「まだだと思う。」
ライセラは数秒間黙っていた。
そして口を開く。
「だったら……。」
「どうして、あの老人――」
「ゴロは。」
真っすぐレンを見る。
「戦う前から、あなたのことを知っていたの?」
レンはすぐには答えなかった。
顎に手を当てたまま歩き続ける。
しばらく沈黙が続く。
隣を歩くライセラが静かに言う。
「今になって思ったの。」
「私も、さっき気付いた。」
レンの表情が真剣になる。
「そう言われてみれば……。」
眉をひそめる。
「確かに。」
しばらく考え込む。
「どうして……。」
「ゴロは、最初から俺が誰なのか知っていたんだ?」
その答えは出ないまま、
二人は静かに歩き続けた。
数分後――
二人は再び**《ラスト・ドリンクⅡ》**へと戻ってきた。
エドリックは軽く一礼した。
「私はエドリックです。」
再び穏やかに微笑む。
「二階の浴場は自由に使っていただいて構いませんよ。」
さりげなく階段の方を指差した。
ギャリックは少し頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしてすみません……」
「エドリックさん。」
エドリックは小さく笑った。
「おやおや……」
ひらひらと手を振る。
「そんなことは気にしなくて大丈夫です。」
にこやかに続けた。
「どうぞごゆっくり。」
四人を見回す。
「レオンが送り込んだ方々なら……」
その穏やかな笑みは変わらない。
「きっと信頼できる方々なのでしょう。よければ先にお風呂でもどうぞ。夕食の準備ができたらお知らせしますので。」
それ以上は何も言わず――
全員が階段を上り始めた。
レンは自分の部屋へ向かう。
部屋に入ると――
周囲を見回した。
そして大きく息を吐く。
「やっと……」
小さく微笑んだ。
「少し休めるな。」
浴室の扉を見る。
「でもその前に……」
「風呂に入ろう。」
それから――
再び微笑む。
「何か食べたいな。」
レンは部屋の扉へ歩いた。
扉を開けた瞬間――
少し驚いた。
「リセラ!」
彼女は扉のすぐ前に立っていた。
リセラは真っ直ぐレンを見る。
「レン。」
少し視線を落とした。
「お願いがあるの。」
再び目を上げる。
「もう少しちゃんと……」
少し間を置いた。
「……後で話せる?」
レンは何度か瞬きをした。
「でも……」
少し首を傾げる。
「どうして?」
リセラはすぐに答えた。
「後でよ、レン。」
少しだけ強い口調になる。
「いい?」
レンは数秒間彼女を見つめた。
そして――
静かに息を吐く。
「わかった……」
リセラは小さくお辞儀をした。
そのまま廊下の奥へ去っていく。
レンは数秒間その場に立ったまま、
彼女がいた場所を見つめていた。
「何を話したいんだろうな……」
頭を軽くかく。
「まあ……」
「その時になればわかるか。」
それ以上考えるのをやめ、
再び部屋へ戻った。
タオルを手に取り、
浴場へ向かった。
……
約一時間後――
宿中に料理の香りが広がっていた。
四人は再び一階のホールへ降りてくる。
エドリックが料理をテーブルに並べた。
「どうぞ。」
穏やかに微笑む。
「精一杯作らせていただきました。」
レンは皿を見た。
「おお……」
笑みがこぼれる。
「こんな料理を見るの、久しぶりだ。」
クメは笑った。
「それならたくさん食べなさい。」
全員が食事を始めた。
数分間――
誰も何も話さなかった。
聞こえるのは木製の食器が触れ合う音だけだった。
皿の半分ほどを食べ終えた頃――
レンは満足そうに息を吐いた。
「ああ……」
「これだよ。」
ギャリックが小さく笑う。
「食べた後のお前は別人みたいだな。」
レンも笑った。
「餓死する方がドラゴンと戦うより痛そうだからな。」
ミレイアが小さく吹き出した。
「ずいぶん具体的ね。」
レンは肩をすくめる。
「実際そうだったからな。」
四人は再び食事を続けた。
数分後――
食事を終えると、
エドリックが皿を片付けた。
「お気に召していただけましたか?」
ミレイアは礼儀正しく微笑む。
「とても美味しかったです。」
「ありがとうございました。」
エドリックは軽く一礼した。
「それは良かった。」
それ以上は何も言わず、
厨房へ戻っていった。
ホールにはほとんど人が残っていなかった。
向こう側で数人の冒険者がまだ話していたが、
全体としては静かな空気が流れていた。
その時――
リセラがそっとレンを見た。
「レン……」
レンは顔を上げる。
「ん?」
リセラはすぐに視線を逸らした。
「少し……」
深く息を吸う。
「話せる?」
レンは数秒黙った後、
微笑んだ。
「もちろん。」
椅子から立ち上がる。
「行こう。」
二人はゆっくりと宿の外へ出た。
夜はすっかり更けていた。
通りは静かで、
いくつかの街灯だけが道を照らしている。
二人はしばらく並んで歩いた。
誰も口を開かなかった。
そして――
ついにリセラが沈黙を破る。
「レン……」
レンは彼女を見る。
「うん?」
リセラは通りを見つめたまま言った。
「あなた……」
少し間を置く。
「本当に元の世界へ帰ろうと思ってるの?」
レンは数秒沈黙した。
そして静かに答えた。
「前までは……」
「絶対に帰るつもりだった。」
少し視線を落とす。
「でも今は……」
苦笑した。
「もうそれが可能なのかすらわからない。ミレイアも、自殺行為だって言ってたしな……」
リセラは前を向いたまま歩き続ける。
「もし……」
「本当に帰れたら……」
少しだけ声を落とした。
「ここが恋しくなる?」
レンはしばらく考えた。
そして正直に答える。
「まだわからない。」
空を見上げる。
星々が静かに輝いていた。
「来たばかりだからな。」
小さく笑う。
「でも……」
リセラを見る。
「いい人たちには出会えたよ。」
微笑む。
「昔の友達を思い出すくらいにな。」
軽く笑った。
「あの山田なんて、いつも問題ばっかり起こしてたしな。」
リセラは黙ったまま歩いていた。
レンは再び前を見る。
「どうしてそんなこと聞くんだ?」
リセラは深く息を吸った。
服の裾をそっと握る。
数秒迷ってから答えた。
「だって……」
少し俯く。
「私……」
声が少し小さくなる。
「異世界から来た人なんて、会ったことがないから。」
そしてレンを真っ直ぐ見た。
「だから……」
少し間を置く。
「あなたのことを、もっと知りたいと思ったの。」
リセラはわずかに眉をひそめた。
レンは苦笑する。
「俺は普通の人間だよ。」
肩をすくめる。
「こっちじゃ勇者って呼ばれてるけど、特別なところなんて何もない。」
自分の手を見る。
「この力以外はな。」
「しかも、その力がどこから来たのかすらわからない。」
再び沈黙が流れた。
そしてリセラが口を開く。
「それで……」
レンを見つめる。
「本当に魔王を倒そうとしているの?」
レンは頷いた。
「うん。」
前を向いたまま答える。
「その約束をしたから。」
リセラはゆっくり視線を落とした。
「でも……どうして?」
少し間を置く。
「あなたは巻き込まれる必要なんてなかったのに。」
再びレンを見る。
「だって……」
「王国の外で召喚されたんでしょう?」
レンは少し黙ってから答えた。
「ミレイアが両親を助けるために俺を呼んだんだ。」
リセラをちらりと見る。
「二人は魔族に支配された地域にいる。」
深く息を吐く。
「その話をしていた時……」
表情が真剣になる。
「彼女、本当に必死だったんだ。」
少し間を置く。
「目を見ればわかった。」
リセラは小さく呟いた。
「そう……」
レンは再び前を見る。
「それに元の世界へ帰ることについても……」
苦笑する。
「本当に可能なのかわからない。」
首の後ろをかく。
「というか……」
「俺、本当ならあの時死んでるはずだったんだ。」
リセラは何度か瞬きをした。
「落ちて……死んだの?」
レンは肩をすくめた。
「多分な。」
眉をひそめる。
「でもそこがおかしいんだ。」
空を見上げる。
「死んだ後に異世界へ来るなんて……そんなことあり得るのか?」
二人は再び黙って歩いた。
しばらく進んだ後――
リセラが突然立ち止まる。
後ろを振り返った。
「少し離れすぎたわね。」
レンを見る。
「戻りましょう。」
レンは軽く笑った。
「ああ。」
「そうだな。」
「はは。」
二人は来た道を引き返し始めた。
その時だった。
リセラは何かに気付く。
数ブロック先――
大きなマントを全身にまとった人影が、
二人を静かに見つめていた。
見えているのは目だけ。
透き通るような翠色の瞳。
リセラは即座に立ち止まる。
「おい!」
鋭い声が響く。
「誰なの!?」
その瞬間――
人影は一歩後ろへ下がり、
街の暗がりへ消えていった。
レンはその方向を見る。
「どうした?」
そしてリセラを見る。
「誰がいたんだ?」
彼女はまだその場所を見つめていた。
「うーん……」
少し眉をひそめる。
「誰かに見られていた気がする。」
レンは考え込む。
「妙だな……」
顎を軽くさする。
「俺も似たような感覚があった。」
リセラはレンを見る。
レンは続けた。
「ヴァルセリスに来たばかりの頃――」
「フードを被った女を見たんだ。」
表情が真剣になる。
「ずっと俺を見ている気がした。」
リセラは目を見開いた。
「は、早く戻りましょう。」
不安そうな声だった。
「この国でそんな気配を感じるのは良くないわ。」
少し間を置く。
「もしかして……」
「もうあなたのことが知られているんじゃ……?」
レンは首を横に振る。
「いや。」
「多分違う。」
リセラはしばらく黙った。
そして尋ねる。
「それなら……」
「どうしてあの老人――」
「ゴロは……」
レンを見つめる。
「戦う前から、あなたが誰なのかわかっていたの?」
レンはすぐには答えなかった。
顎に手を当てたまま歩き続ける。
完全に沈黙した。
その隣でリセラが再び口を開く。
「今になって思ったけど……」
少し視線を落とす。
「私も後になって気付いたの。」
レンの表情が真剣になる。
「言われてみれば……」
眉をひそめた。
「確かにそうだ。」
数秒考え込む。
「どうして……」
「俺のことを知っていたんだ?」
二人はそのまま黙って歩き続けた。
数分後――
ようやく二人は再び
『ラスト・ドリンク II』




