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第9話 桶は小さな独立国家である

 私は、すでに十歩以上歩ける。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 そこから先も、条件が整えば進める。


 床が平らであること。

 周囲に余計な玩具が落ちていないこと。

 母が近くにいること。

 父が「おお、歩いてる!」などと大声を出して、私の集中を乱さないこと。


 それらを満たせば、私は十歩以上の移動が可能である。

 もはや、ただ床に座っていたころの私とは違う。

 歩行能力を得た一歳児は、家庭内における行動範囲を大きく広げる。



 そんな私が今日連れてこられたのは、児童館だった。


 しかも、屋上である。


「ひーちゃん、今日はプールだよ」


 母が言った。


 ひよりだ。


 そして、プール。


 水族館で水の民を視察したことはある。

 風呂も経験している。

 だが、児童館の屋上に設置されたプールというものは、初めてだった。


 屋上には、かなり大きめのビニールプールが広げられていた。

 そこには、何人もの赤子が入っている。


 水を叩く者。

 じょうろを振り回す者。

 座ったまま固まっている者。

 先生に支えられながら足をばたばたさせている者。


 大人たちは楽しそうに見守っている。


 私は母に抱かれたまま、その光景を観察した。


 これは水域である。


 しかも、複数の赤子が同時に投入される共同水域。


 危険度は高い。


 水は動く。

 赤子も動く。

 じょうろは予測不能な方向を向く。

 誰かが手を振れば水しぶきが飛ぶ。

 足をばたつかせれば、周辺国に被害が出る。


 あの中に入るということは、治安の安定しない海域へ身を置くに等しい。


「ひーちゃん、楽しそうだね」


 母が言った。


 楽しそうかどうかは、まだ審査中である。


 その時、先生が小さな桶を出してくれた。


「最初はこっちでもいいですよ」


 桶。


 一人用である。


 丸い。

 水が入っている。

 広すぎない。

 深すぎない。

 周囲に他の赤子はいない。


 私は見た瞬間に理解した。


 ここだ。


 私の統治すべき水域は、ここである。


 母は私を桶の中に座らせた。


 水が足に触れた。


 冷たい。


 だが、悪くない。


 私は桶のふちを両手でつかんだ。

 安定感がある。

 視界もよい。

 大きいプールの様子も確認できる。

 必要であれば、母にすぐ救援要請も出せる。


 完璧である。


「あー……」


 意味としては、「本水域を統治区域として承認する」である。


 母が笑った。


「ひーちゃん、気持ちいい?」


 ひよりだ。


 そして、気持ちはよい。


 私は手で水面を叩いた。


 ぴちゃ。


 水が跳ねた。


 小さい。


 被害範囲が限定的である。


 もう一度叩く。


 ぴちゃ。


 制御できる。


 これはよい。


 大きいプールでは、水しぶきの発生源が多すぎる。

 誰の攻撃か判別しにくい。

 その点、桶の中なら、すべての水しぶきは私の管理下にある。


 私は桶の中で、しばらく水を叩いた。


 ぴちゃ。

 ぴちゃ。

 ぴちゃ。


 これはただ遊んでいるのではない。


 水面挙動の調査である。


 その間、大きいプールでは事件が起きていた。


 一人の赤子がじょうろを逆さにした。

 別の赤子の背中に水がかかった。

 かけられた赤子は驚き、少し泣いた。


 さらに横では、足をばたばたさせた赤子の水しぶきが、近くの母親に飛んでいた。


 ほら見ろ。


 共同水域は、すぐに国際問題を起こす。


 私は桶のふちを握り直した。


 ここは安全だ。


 小さいことは弱さではない。


 管理が行き届くということである。


「ひより、そろそろ大きいプール行ってみる?」


 母が言った。


 ひより。


 正しい。


 だが、内容には賛成できない。


 私は母を見た。


「あ」


 意味としては、「現状維持を希望する」である。


「みんな入ってるよ。楽しそうだよ」


 みんな。


 それが問題なのだ。


 みんながいる場所は、だいたい混乱する。

 児童館の赤い車もそうだった。

 保育園の黄色いボールもそうだった。

 資源と赤子が複数集まると、必ず何かが起きる。


 私は桶の中で座り直した。


 移動の意思はない。


 母が私を抱き上げようと、脇に手を入れた。

 私はすぐに桶のふちをつかんだ。


「だっ!」


 断固拒否である。


「え、いや?」


 母が驚いた。


 いやだ。


 今の桶に問題はない。

 むしろ非常に良好である。

 なぜ安全な統治区域を離れ、不安定な共同水域へ移らなければならないのか。


「ちょっとだけ。足だけ入れてみる?」


 母は交渉案を出した。


 足だけ。


 一見、譲歩に見える。


 だが足を入れたら、次は腰である。

 腰まで入れば、最終的には全身である。

 大人の「ちょっとだけ」は、油断してはならない。

 貸してあげようね、と同じくらい危険な言葉だ。


「だあ!」


 私はもう一度、明確に拒否した。


 母は少し笑って、私を桶に戻した。


「じゃあ、桶で遊ぼうか」


 よし。


 交渉成立である。


 私は水を叩いた。


 ぴちゃ。


 これは勝利宣言である。



 その後も、私は桶で遊んだ。


 小さなカップで水をすくう。

 すぐこぼれる。

 もう一度すくう。

 またこぼれる。


 水は手ごわい。


 つかんだと思っても逃げる。

 積み木やバナナとは違い、所有の感覚が薄い。

 桶の中にある限り私の水だが、手に持った瞬間、すぐに逃亡を始める。


 水という資源は、管理が難しい。


 私は真剣に研究した。


 母は隣で、楽しそうに私を見ていた。


「ひーちゃん、ずっと桶がいいんだね」


 ひよりだ。


 そして、ずっとではない。


 今は、である。


 将来的に大きいプールへ進出する可能性はある。

 歩行能力も十歩以上に達した。

 いずれは共同水域における外交も必要になるだろう。


 だが、初回から無理をする必要はない。


 国家運営には段階がある。


 まずは桶。

 次に浅瀬。

 次に家庭用ビニールプール。

 その後にやっと、大きいプール。


 拡張は慎重であるべきだ。



 遊び終わるころ、他の赤子たちは疲れたり泣いたりしていた。

 大きいプールから引き上げられ、タオルに包まれている者もいる。


 私は桶から出され、母に体を拭かれた。


 少し名残惜しい。


 桶は小さいが、良い場所だった。


 母は私に服を着せながら言った。


「楽しかったね、ひーちゃん」


 ひよりだ。


 だが、今日はその呼び方を少しだけ許す。


 なぜなら母は、私の統治区域を尊重したからである。



 帰り道、私はベビーカーの中で少し眠くなっていた。


 十歩以上歩けるようになった。

 水族館にも行った。

 スーパーの補給経路も知っている。

 父のちゅん呼びは無視する。


 それでも、今日の私は桶を選んだ。


 それは後退ではない。


 適切な規模の水域を選択しただけである。


「あー……」


 私は目を閉じた。


 大きいプールへの進出は、いずれ検討する。


 だが当面、私の海は桶で十分である。



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