第9話 桶は小さな独立国家である
私は、すでに十歩以上歩ける。
一歩。
二歩。
三歩。
そこから先も、条件が整えば進める。
床が平らであること。
周囲に余計な玩具が落ちていないこと。
母が近くにいること。
父が「おお、歩いてる!」などと大声を出して、私の集中を乱さないこと。
それらを満たせば、私は十歩以上の移動が可能である。
もはや、ただ床に座っていたころの私とは違う。
歩行能力を得た一歳児は、家庭内における行動範囲を大きく広げる。
*
そんな私が今日連れてこられたのは、児童館だった。
しかも、屋上である。
「ひーちゃん、今日はプールだよ」
母が言った。
ひよりだ。
そして、プール。
水族館で水の民を視察したことはある。
風呂も経験している。
だが、児童館の屋上に設置されたプールというものは、初めてだった。
屋上には、かなり大きめのビニールプールが広げられていた。
そこには、何人もの赤子が入っている。
水を叩く者。
じょうろを振り回す者。
座ったまま固まっている者。
先生に支えられながら足をばたばたさせている者。
大人たちは楽しそうに見守っている。
私は母に抱かれたまま、その光景を観察した。
これは水域である。
しかも、複数の赤子が同時に投入される共同水域。
危険度は高い。
水は動く。
赤子も動く。
じょうろは予測不能な方向を向く。
誰かが手を振れば水しぶきが飛ぶ。
足をばたつかせれば、周辺国に被害が出る。
あの中に入るということは、治安の安定しない海域へ身を置くに等しい。
「ひーちゃん、楽しそうだね」
母が言った。
楽しそうかどうかは、まだ審査中である。
その時、先生が小さな桶を出してくれた。
「最初はこっちでもいいですよ」
桶。
一人用である。
丸い。
水が入っている。
広すぎない。
深すぎない。
周囲に他の赤子はいない。
私は見た瞬間に理解した。
ここだ。
私の統治すべき水域は、ここである。
母は私を桶の中に座らせた。
水が足に触れた。
冷たい。
だが、悪くない。
私は桶のふちを両手でつかんだ。
安定感がある。
視界もよい。
大きいプールの様子も確認できる。
必要であれば、母にすぐ救援要請も出せる。
完璧である。
「あー……」
意味としては、「本水域を統治区域として承認する」である。
母が笑った。
「ひーちゃん、気持ちいい?」
ひよりだ。
そして、気持ちはよい。
私は手で水面を叩いた。
ぴちゃ。
水が跳ねた。
小さい。
被害範囲が限定的である。
もう一度叩く。
ぴちゃ。
制御できる。
これはよい。
大きいプールでは、水しぶきの発生源が多すぎる。
誰の攻撃か判別しにくい。
その点、桶の中なら、すべての水しぶきは私の管理下にある。
私は桶の中で、しばらく水を叩いた。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
これはただ遊んでいるのではない。
水面挙動の調査である。
その間、大きいプールでは事件が起きていた。
一人の赤子がじょうろを逆さにした。
別の赤子の背中に水がかかった。
かけられた赤子は驚き、少し泣いた。
さらに横では、足をばたばたさせた赤子の水しぶきが、近くの母親に飛んでいた。
ほら見ろ。
共同水域は、すぐに国際問題を起こす。
私は桶のふちを握り直した。
ここは安全だ。
小さいことは弱さではない。
管理が行き届くということである。
「ひより、そろそろ大きいプール行ってみる?」
母が言った。
ひより。
正しい。
だが、内容には賛成できない。
私は母を見た。
「あ」
意味としては、「現状維持を希望する」である。
「みんな入ってるよ。楽しそうだよ」
みんな。
それが問題なのだ。
みんながいる場所は、だいたい混乱する。
児童館の赤い車もそうだった。
保育園の黄色いボールもそうだった。
資源と赤子が複数集まると、必ず何かが起きる。
私は桶の中で座り直した。
移動の意思はない。
母が私を抱き上げようと、脇に手を入れた。
私はすぐに桶のふちをつかんだ。
「だっ!」
断固拒否である。
「え、いや?」
母が驚いた。
いやだ。
今の桶に問題はない。
むしろ非常に良好である。
なぜ安全な統治区域を離れ、不安定な共同水域へ移らなければならないのか。
「ちょっとだけ。足だけ入れてみる?」
母は交渉案を出した。
足だけ。
一見、譲歩に見える。
だが足を入れたら、次は腰である。
腰まで入れば、最終的には全身である。
大人の「ちょっとだけ」は、油断してはならない。
貸してあげようね、と同じくらい危険な言葉だ。
「だあ!」
私はもう一度、明確に拒否した。
母は少し笑って、私を桶に戻した。
「じゃあ、桶で遊ぼうか」
よし。
交渉成立である。
私は水を叩いた。
ぴちゃ。
これは勝利宣言である。
*
その後も、私は桶で遊んだ。
小さなカップで水をすくう。
すぐこぼれる。
もう一度すくう。
またこぼれる。
水は手ごわい。
つかんだと思っても逃げる。
積み木やバナナとは違い、所有の感覚が薄い。
桶の中にある限り私の水だが、手に持った瞬間、すぐに逃亡を始める。
水という資源は、管理が難しい。
私は真剣に研究した。
母は隣で、楽しそうに私を見ていた。
「ひーちゃん、ずっと桶がいいんだね」
ひよりだ。
そして、ずっとではない。
今は、である。
将来的に大きいプールへ進出する可能性はある。
歩行能力も十歩以上に達した。
いずれは共同水域における外交も必要になるだろう。
だが、初回から無理をする必要はない。
国家運営には段階がある。
まずは桶。
次に浅瀬。
次に家庭用ビニールプール。
その後にやっと、大きいプール。
拡張は慎重であるべきだ。
*
遊び終わるころ、他の赤子たちは疲れたり泣いたりしていた。
大きいプールから引き上げられ、タオルに包まれている者もいる。
私は桶から出され、母に体を拭かれた。
少し名残惜しい。
桶は小さいが、良い場所だった。
母は私に服を着せながら言った。
「楽しかったね、ひーちゃん」
ひよりだ。
だが、今日はその呼び方を少しだけ許す。
なぜなら母は、私の統治区域を尊重したからである。
*
帰り道、私はベビーカーの中で少し眠くなっていた。
十歩以上歩けるようになった。
水族館にも行った。
スーパーの補給経路も知っている。
父のちゅん呼びは無視する。
それでも、今日の私は桶を選んだ。
それは後退ではない。
適切な規模の水域を選択しただけである。
「あー……」
私は目を閉じた。
大きいプールへの進出は、いずれ検討する。
だが当面、私の海は桶で十分である。




