第8話 とんちゃんは私を信用していない
この家には、私以外にも住民がいる。
犬である。
名前はポプリ。
少なくとも、私の記憶が確かなら、正式名称はポプリである。
動物病院から届いた紙にも、母が呼ぶ声にも、たしかにポプリという音があった。
だが、家庭内ではほとんどそう呼ばれていない。
「とんちゃん」
父が言う。
「とんちゃん、ごはんだよ」
母も言う。
とんちゃん。
誰だ。
ポプリではないのか。
私はひーちゃんと呼ばれ、最近では父にちゅんと呼ばれる。
母はさおりなのに、父からうさぎちゃんと呼ばれる。
父はたかしだが、くまちゃん候補でもある。
そして犬のポプリは、とんちゃんである。
この家の呼称制度は、もはや原形をとどめていない。
ただし、とんちゃんという呼び方について、当のポプリは特に抗議していないようだった。
呼ばれると耳を動かし、気が向けば顔を上げる。
つまり、ある程度は受け入れている。
柔軟である。
いや、諦めているのかもしれない。
ポプリは、基本的に寝室にいる。
リビングにはあまり来ない。
私の活動範囲に、ほとんど入ってこない。
理由は分かっている。
ポプリは、私を敵認定している。
私はポプリのことが好きだ。
ふわふわしている。
あたたかい。
歩くと爪の音がする。
たまにしっぽが動く。
とても良い。
だが、ポプリの方はそうではないらしい。
私がリビングを歩くと、ポプリは遠くからじっと見ている。
私が近づくと、一歩下がる。
さらに近づくと、寝室へ去る。
まるで、未知の小型台風を警戒する住民のようである。
失礼な話だ。
私はただ、友好関係を築きたいだけである。
「ひーちゃん、とんちゃんに優しくね」
母が言った。
ひよりだ。
そして、優しくしている。
*
ただ、五、六ヶ月のころの私は、まだ距離感というものを十分に理解していなかった。
あのころ、私は今ほど歩けなかった。
寝返り。
ずりばい。
少し移動。
その程度である。
だが、ポプリが近くで寝ていると、私はどうしてもそちらへ行きたくなった。
ふわふわした大きなものが床にある。
しかも、あたたかい。
あれは枕ではないか。
当時の私はそう判断した。
そして、よく転ぶふりをした。
正確には、転ぶふりというより、移動の途中で力尽きたように見せかけ、自然な流れでポプリの体に頭を乗せていた。
ポプリは毎回、困った顔をした。
犬にも困った顔がある。
私はその時に知った。
ポプリは逃げたかったのだろう。
だが、当時の私はまだ小さく、母も近くで見ていたため、ポプリは大きく動けなかった。
結果として、私はポプリを枕にすることに成功していた。
柔らかかった。
非常に良かった。
今思えば、あれはかなり一方的な領土利用だったかもしれない。
だが、私は赤子である。
当時の判断能力には限界があった。
*
今日もポプリは寝室にいた。
私はリビングから寝室の入口を見た。
少し開いた扉の向こうに、茶色い背中が見える。
ポプリである。
いや、とんちゃんである。
いや、正式にはポプリである。
ややこしい。
私は立ち上がった。
一歩。
二歩。
三歩。
発語はここぞという場面の外交カードとして温存しているが、すでに十歩以上歩ける私にとって、寝室への移動は不可能ではない。
ただし、途中で母に見つかる可能性が高い。
母は私の移動音に敏感である。
床をぺた、ぺた、と歩くだけで振り返ることがある。
私は慎重に進んだ。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
寝室の入口に近づく。
ポプリの耳が動いた。
気づかれた。
私は止まった。
ポプリも動かない。
互いに相手を観察する。
外交の時間である。
「あ」
私は言った。
意味としては、「敵意はない。友好目的で接近している」である。
ポプリは無言だった。
そして、ゆっくり立ち上がった。
逃げる気だ。
待て。
まだ交渉は始まったばかりである。
私は手を伸ばした。
「あっ」
ポプリは一歩下がった。
完全に警戒されている。
そこへ母が来た。
「ひーちゃん、とんちゃん追いかけないよ」
ひよりだ。
そして追いかけてはいない。
これは接近外交である。
しかし母は私を抱き上げた。
強制終了である。
私は母の腕の中からポプリを見た。
ポプリは寝室のさらに奥へ移動し、こちらを見ている。
安全圏を確保した顔である。
少し悔しい。
私はポプリが好きなのに。
ふわふわしているのに。
枕としての実績もあるのに。
「とんちゃん、ひーちゃんのこと怖いんだよ」
母が言った。
怖い。
私が。
心外である。
私は一歳児である。
確かに、近くで奇声をあげることもある。
手を伸ばすこともある。
しっぽを触ろうとしたことも、耳を確認しようとしたこともある。
過去には枕運用も行った。
なるほど。
怖いかもしれない。
私は少し反省した。
友好とは、一方的に頭を乗せることではない。
ポプリにはポプリの生活圏があり、寝室は彼の避難区域なのだろう。
私がリビングを統治するように、ポプリは寝室を守っているのかもしれない。
母は私をリビングへ戻した。
ポプリは寝室に残った。
距離がある。
だが、完全に断絶しているわけではない。
しばらくして、母がポプリのごはんを用意した。
「とんちゃん、ごはんだよ」
ポプリが出てきた。
食料の力は強い。
私もバナナがあれば多少の呼称問題を保留する。
ポプリもごはんがあれば、安全圏から出てくる。
私はリビングの端に座って、ポプリを見た。
近づかない。
今日は近づかない。
先ほど反省したばかりである。
ポプリはごはんを食べた。
私は見守った。
すると、ポプリが一瞬だけこちらを見た。
目が合った。
私は小さく手を上げた。
「あ」
意味としては、「本日は不可侵とする」である。
ポプリはまたごはんに戻った。
承認されたかどうかは不明である。
だが、逃げなかった。
これは前進だ。
*
夕方、父が帰ってきた。
「とんちゃん、ただいま」
父がポプリを撫でる。
ポプリはおとなしくしている。
次に父は私を見た。
「ちゅん、ただいま」
ちゅんではない。
だが、今日はそれより大きな問題がある。
私は父に抱き上げられながら、寝室の方を見た。
ポプリがこちらを見ている。
やはり距離はある。
けれど、この家にポプリがいることはよい。
私が生まれる前から、きっとポプリはこの家にいたのだろう。
そこへ突然、私という新しい住民が来た。
泣く。
動く。
手を伸ばす。
しっぽを狙う。
枕にする。
たしかに、ポプリから見れば大事件である。
敵認定されても仕方ない部分はある。
*
夜、私は布団の中で考えた。
母はさおり。
父はたかし。
私はひより。
犬はポプリ。
だが家庭内では、とんちゃん。
呼称制度は崩壊している。
けれど、ポプリがポプリであっても、とんちゃんであっても、ふわふわであたたかいことに変わりはない。
私はポプリが好きだ。
今はまだ逃げられる。
寝室に避難される。
活動範囲には入ってきてもらえない。
それでも、いつかもう一度、そばに来てくれるかもしれない。
ただし、その時は枕にしない。
たぶん。
できるだけ。
「あー……」
私は小さく息を吐いた。
ポプリとの和平交渉は、長期戦になりそうである。




