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第10話 初登園ともも組


 朝から、母の動きがいつもと違っていた。


 着替えが早い。

 荷物が多い。

 私の服も、いつもより少し整っている。


 そして玄関には、見慣れない袋がいくつも並んでいた。

 着替え。

 おむつ。

 タオル。

 エプロン。

 シーツ。


 母はそれらを一つずつ確認しながら、少し真剣な顔をしている。


「ひーちゃん、今日から保育園だよ」


 ひよりだ。


 そして、今日から。


 その言葉には重みがある。


 見学ではない。

 一時的な視察でもない。

 今日から、私は途中入園という形で、零歳児クラスへ正式に配属されるらしい。


 私は一歳である。


 この点については、今なお異議を申し立てている。

 制度上、四月時点で零歳だったため零歳児クラスになるという説明は受けた。

 だが、説明を受けたことと納得したことは別である。



 母に抱かれ、保育園へ向かった。


 門の前に着くと、私は以前の見学時とは違う空気を感じた。

 母が靴を脱がせ、先生に荷物を渡し、何やら説明をしている。


「今日からよろしくお願いします」


「こちらこそ。ひよりちゃん、よろしくね」


 先生が言った。


 ひよりちゃん。


 正しい。


 この先生は、やはり呼称制度が安定している。

 そこは評価できる。


 だが、問題はその直後だった。


 母が私を先生に預けた。


 私は先生に抱かれた。


 抱っこ自体は悪くない。

 安定している。

 先生の腕には経験値がある。


 だが、母の腕ではない。

 匂いも違う。

 肩の位置も違う。

 背中に添える手の角度も違う。


 私は母を見た。


 母は笑っていた。


「ひーちゃん、夕方迎えに来るからね」


 ひよりだ。


 そして、夕方。


 今、夕方と言ったか。


 私は先生の腕の中で固まった。


 母が一歩下がる。

 さらに一歩。

 扉の方へ向かう。


 待て。


 政務官一号。


 どこへ行く。


「あ……」


 私は声を出した。

 意味としては、「貴殿の離脱手続きは承認されていない」である。


「ひーちゃん、大丈夫だよ」


 大丈夫ではない。


 母はさらに下がった。


 その瞬間、私は理解した。


 これは一時的な抱っこ交代ではない。


 政務官一号の離脱である。


「ああああああ!」


 私は泣いた。


 全力で泣いた。


 寂しいからではない。


 いや、寂しくないと言えば嘘になる。

 だが、それだけではない。

 これは家庭内政権の中核を担う実務担当者が、私の承認なく現場を離れるという業務違反である。


 食料配給。

 睡眠調整。

 呼称問題。

 おむつ替え交渉。


 そのすべてを誰が担当するのか。


「ひよりちゃん、大丈夫だよ。」


 先生がやさしく揺らしてくれる。


 揺れは悪くない。


 しかし問題の本質は揺れではない。


 母が見えなくなった。


 扉が閉まった。


 私はさらに泣いた。


「あああああ!」


 これは抗議である。


 正式な抗議である。



「ひよりちゃん、今日はお散歩行こうね」


 先生が言った。


 ひよりちゃん。


 正しい。


 私は先生を見た。


「あ」


 意味としては、「外部視察を承認する」である。


 しかし、散歩の方法には少し問題があった。


 私はカートに入れられた。


 保育園の散歩用カートである。


 大きな箱のような乗り物に、もも組の赤子たちが次々と乗せられていく。

 座る者。

 立とうとする者。

 柵を握る者。

 すでに眠そうな者。


 私はその中の一角に配置された。


 これは散歩ではない。


 集団輸送である。


 個人の歩行権は制限され、もも組全体が一つの車両にまとめられる。

 安全面では合理的なのだろう。

 だが、十歩以上歩ける私としては、やや納得しがたい部分もある。


「あー……」


 私はカートの柵を握った。

 意味としては、「自力歩行による参加も検討はされたのか」である。


「ひよりちゃん、しっかり持っててね」


 先生は笑っている。


 検討されていないらしい。


 カートが動き出した。


 ごと。

 ごと。


 園庭を抜け、門を出る。


 保育園の外へ出ると、空気が変わった。

 車の音。

 自転車の音。

 遠くの犬の声。

 道端の花。

 知らない大人。

 知らない子ども。


 スーパーへ行く時とも、水族館へ行く時とも違う、もも組としての外界である。


 先生が二人、前と後ろについている。


 周囲確認。

 安全確認。

 歩道の段差確認。


 すべてが素早い。


 もも組の遠征部隊は、思ったより厳重に守られている。


 隣の赤子が、カートの柵を叩いた。


 ばん。


 もう一人がそれを見て、同じように叩く。


 ばん。


 連鎖である。


 私は少し考え、参加しなかった。


 ここで不用意に叩けば、もも組全体の統制が乱れる可能性がある。

 私は窓際、いや柵際の観察官として、外界の情報収集に集中することにした。


 道の途中で、犬がいた。

 ポプリより少し大きい犬である。


 犬はこちらを見た。

 私も見た。


 同じ犬類でも、ポプリとは違う。

 ポプリは私を敵認定しているが、この犬はまだ私を知らない。

 つまり、外交関係は白紙である。


「あ」


 私は軽く手を上げた。


 犬はすぐに飼い主に連れられて行った。


 交渉不成立。


 だが、敵対もしていない。


 初回接触としては悪くない。


 公園の前で、カートは少し止まった。

 先生が花を指差す。


「見て、きれいなお花だよ」


 もも組の何人かが花を見た。

 何人かは見ていない。

 一人は自分の脱げかけの靴下を見ている。


 統率は難しい。


 私は花を見た。

 黄色が混ざっている。


 良い。


 色としては評価できる。

 特に黄色は、バナナとの親和性が高い。


 しばらく進むと、強い風が吹いた。


 私の髪が揺れた。

 隣の赤子が驚いた顔をした。


 私は空を見た。


 風。


 見えないのに、触ってくる。


 雨ほど分かりやすくなく、掃除機ほど音も大きくない。

 だが確かに存在する。

 外界には、まだ分類できないものが多い。



 カートは保育園へ戻った。


 帰還である。


 もも組遠征部隊は、全員無事。


 途中で泣いた者はいた。

 靴下を脱ごうとした者もいた。

 鼻水を舐め続けている者もいた。


 だが、全体としては成功と言っていいだろう。


 私は保育園に戻ると、十時半の昼食を食べ、ミルクを飲み、少し遊び、昼寝をした。


 もも組の一日は忙しい。


 外へ出て、戻って、食べて、寝て、また起きる。

 家庭とは違う時間制度。

 十時半昼食については今も疑問があるが、出される食料に罪はない。



 夕方。

 扉が開いた。


「ひより」


 母の声だった。


 その後ろには父もいる。


 政務官一号と高所輸送担当である。


 私は母に抱き上げられた。


「今日はお散歩行ったんだって。カートに乗ったんだね」


 そうだ。


 集団輸送された。


 犬と初回接触し、黄色い花を確認し、風という見えない存在を観測した。

 もも組遠征部隊の一員として、十分に任務を果たしたと言える。


 父が私の頭を撫でた。


「ちゅん、頑張ったね」


 ひよりだ。


 行政施設内だということを忘れているようだ。



 家に帰ると、玄関の匂いがした。


 見慣れた床。

 見慣れた棚。

 寝室に逃げるポプリの気配。

 台所のベビーゲート。

 父のリモコンが置かれがちな場所。

 母の洗濯物の山。


 全部、私の知っているものだった。


 私は母の腕の中で、小さく息を吐いた。


「あー……」


 保育園は悪くない。


 カートでの外部視察も、一定の価値があった。


 だが、やっぱり家が一番だな。


 私はひよりだ。


 ひーちゃんでも、ちゅんでもない。


 この家の呼称制度は相変わらず崩壊しているし、父はリモコンを探し、母は妙な小躍りをし、ポプリにはまだ警戒されている。


 それでも、ここが私の国である。


 本日の政務は、これにて終了とする。


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