第5話 水の向こうの住民たち
その日、父はいなかった。
仕事である。
つまり、家庭内の高所輸送担当は不在。
砂糖探索能力に難がある男とはいえ、高い高い部門では一定の実績があるため、少しだけ戦力低下である。
だが、母は朝から妙に機嫌がよかった。
「ひーちゃん、今日は水族館に行こうね」
ひよりだ。
そして、水族館。
聞き慣れない施設名である。
水。
族。
館。
水に関係する一族を収容した建物、という意味だろうか。
だとすれば、かなり大規模な行政施設である。
母は私に小さな上着を着せ、荷物をまとめ、ベビーカーに私を乗せた。
今日の視察先は、水の民の居住区らしい。
*
到着した建物は、思ったよりかなり大きかった。
入口には魚の絵が描かれ、子どもたちが多い。
ベビーカー、抱っこの赤子、走りそうで走らない幼児、すでに走って怒られている幼児。
多種多様な小型人間が集まっている。
「ひーちゃん、楽しみだね」
ひよりだ。
楽しみかどうかは、現地を確認してから判断する。
中へ入ると、空気が少し変わった。
暗い。
ひんやりしている。
壁の向こうで水が揺れている。
私はベビーカーの中で少し前に起き上がった。
これはただの娯楽施設ではない。
明らかに、陸上とは別の秩序が存在している。
最初の大きな水槽の前で、母がベビーカーを止めた。
「ほら、ひより。お魚さんだよ」
ひより。
正しい。
母は外では正式名称を使うことがある。
家庭内ではひーちゃん、外ではひより。
場面によって呼称を変える高度な運用なのかもしれない。
いや、単に気分かもしれない。
判断は保留する。
私は水槽を見た。
魚がいた。
一匹ではない。
何十匹もいる。
銀色の魚たちが、そろって右へ流れ、左へ流れ、また右へ。
統制が取れている。
誰も泣かない。
誰も玩具を取り合わない。
誰も急に床へ寝転がらない。
これはすごい。
零歳児クラスとは比べものにならない組織力である。
「あー……」
私は感動した。
意味としては、「水中行政の成熟度は高い」である。
「お魚、きれいだねえ」
母が言った。
きれい、で済ませていいのか。
あの集団移動には、何らかの指揮系統があるはずだ。
先頭の魚が意思決定しているのか。
それとも全員が空気を読んでいるのか。
水中には空気がないはずなのに、どうやって空気を読んでいるのか。
謎が多い。
次の水槽には、細長い生き物が砂から顔を出していた。
母がしゃがんで、私の目線に合わせる。
「チンアナゴだよ。ママは水族館でチンアナゴが一番好きなんだー」
私は黙った。
砂から細い体を出し、ゆらゆらしている。
何をしているのだ。
会議か。
全員が半分だけ出ている。
私が手を伸ばすと、一匹がすっと引っ込んだ。
逃げた。
責任を回避した。
チンアナゴ社会には、発言を求められると即座に地中へ戻る文化があるらしい。
父に少し似ている。
母に「砂糖どこ?」と聞いたあとの父も、できれば地中へ逃げたい顔をしていた。
「ひーちゃん、じーっと見てるね。ひーちゃんもチンアナゴ好きかな」
ひよりだ。
そして、見もする。
これだけ堂々と会議中の態度が悪い生物は、なかなか見られない。
さらに奥へ進むと、クラゲの水槽があった。
青い光の中で、透明なものがふわふわ浮いている。
私はしばらく動けなかった。
これは何だ。
魚ではない。
歩いてもいない。
考えているようにも見えない。
ただ、ふわふわしている。
目的地もなさそうだ。
予定もなさそうだ。
責任もなさそうだ。
なんて自由な生き方だ。
「クラゲ、きれいだね」
母が言った。
たしかに、きれいではある。
だが、あの生き方が許されるなら、私もたまにはベビーベッドの中で何も考えずにふわふわしていたい。
現実には、起床、食料要求、呼称制度の正常化、玩具資源の管理、昼寝交渉と、私の一日は忙しすぎる。
クラゲ。
あまりにも無責任。
しかし、少しうらやましい。
私は水槽に向かって手を伸ばした。
「あ」
意味としては、「貴殿らの労働実態について、後日詳しく聞きたい」である。
*
昼近くになると、母は私を休憩スペースに連れていった。
持参された小さな容器から、私の食事が出てくる。
水族館まで来ても、食料配給は通常通り行われるらしい。
母の補給能力は高い。
「はい、あーん」
私は口を開けた。
悪くはない。
ただ、周囲には他の子どもたちがソフトクリームやポテトのようなものを食べている。
明らかに私の配給より華やかである。
格差。
社会には格差がある。
「あれはまだ早いからね」
母が言った。
読まれた。
私の視線から政策要求を読み取るとは、さすが実務担当である。
*
午後、私たちはペンギンの場所へ行った。
ペンギンは歩いていた。
よちよち。
よちよち。
私は固まった。
似ている。
私の歩行と少し似ている。
だが、彼らは堂々としている。
足元が不安定なのに、不安を見せない。
むしろ、これが正式な歩き方であると言わんばかりだ。
見習うべきかもしれない。
歩行に必要なのは、安定性ではない。
自信である。
「ペンギンさん歩いてるねぇ」
「あっ」
ペンギンは一羽、こちらを向いた。
目が合った。
私は手を上げた。
向こうは何も返さなかった。
なかなかの大物である。
*
最後に、母は売店へ寄った。
危険な場所だった。
棚には、魚、イルカ、ペンギン、クラゲなどのぬいぐるみが並んでいる。
色と形で幼児の判断力を奪う、巧妙な商業区域である。
「記念に何か買おうか」
母が言った。
私はペンギンのぬいぐるみを見た。
歩行の師である。
母はそれに気づき、ペンギンを手に取った。
「これにする? ぺんちゃん」
ぺんちゃん。
まただ。
この家はすぐに名を縮める。
魚もペンギンも、入手された瞬間に正式名称を奪われるらしい。
私はペンギンを受け取った。
やわらかい。
抱き心地は良い。
だが、私は心の中で誓った。
お前まで名前を失う必要はない。
少なくとも私だけは、お前をペンギンと呼ぶ。
*
帰りのベビーカーの中で、私はペンギンを抱きながら目を閉じた。
水族館。
魚の組織力。
チンアナゴの責任回避。
クラゲの無責任な自由。
ペンギンの堂々たる不安定歩行。
学ぶことは多かった。
「ひーちゃん、楽しかったね」
母が言った。
ひよりだ。
だが今日は、少しだけ見逃してもいい。
なぜなら私は、水の民との初会談を終え、歩行の師を得たばかりだからだ。
私はペンギンを抱きしめた。
「あー」
新たな外交関係が、ここに成立した。




