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第5話 水の向こうの住民たち

 その日、父はいなかった。

 仕事である。


 つまり、家庭内の高所輸送担当は不在。

 砂糖探索能力に難がある男とはいえ、高い高い部門では一定の実績があるため、少しだけ戦力低下である。


 だが、母は朝から妙に機嫌がよかった。


「ひーちゃん、今日は水族館に行こうね」


 ひよりだ。


 そして、水族館。


 聞き慣れない施設名である。


 水。

 族。

 館。


 水に関係する一族を収容した建物、という意味だろうか。

 だとすれば、かなり大規模な行政施設である。


 母は私に小さな上着を着せ、荷物をまとめ、ベビーカーに私を乗せた。


 今日の視察先は、水の民の居住区らしい。



 到着した建物は、思ったよりかなり大きかった。

 入口には魚の絵が描かれ、子どもたちが多い。

 ベビーカー、抱っこの赤子、走りそうで走らない幼児、すでに走って怒られている幼児。

 多種多様な小型人間が集まっている。


「ひーちゃん、楽しみだね」


 ひよりだ。


 楽しみかどうかは、現地を確認してから判断する。


 中へ入ると、空気が少し変わった。


 暗い。

 ひんやりしている。

 壁の向こうで水が揺れている。


 私はベビーカーの中で少し前に起き上がった。

 これはただの娯楽施設ではない。

 明らかに、陸上とは別の秩序が存在している。


 最初の大きな水槽の前で、母がベビーカーを止めた。


「ほら、ひより。お魚さんだよ」


 ひより。


 正しい。


 母は外では正式名称を使うことがある。

 家庭内ではひーちゃん、外ではひより。

 場面によって呼称を変える高度な運用なのかもしれない。

 いや、単に気分かもしれない。

 判断は保留する。


 私は水槽を見た。


 魚がいた。


 一匹ではない。

 何十匹もいる。


 銀色の魚たちが、そろって右へ流れ、左へ流れ、また右へ。

 統制が取れている。


 誰も泣かない。

 誰も玩具を取り合わない。

 誰も急に床へ寝転がらない。


 これはすごい。


 零歳児クラスとは比べものにならない組織力である。


「あー……」


 私は感動した。

 意味としては、「水中行政の成熟度は高い」である。


「お魚、きれいだねえ」


 母が言った。


 きれい、で済ませていいのか。


 あの集団移動には、何らかの指揮系統があるはずだ。

 先頭の魚が意思決定しているのか。

 それとも全員が空気を読んでいるのか。

 水中には空気がないはずなのに、どうやって空気を読んでいるのか。


 謎が多い。


 次の水槽には、細長い生き物が砂から顔を出していた。

 母がしゃがんで、私の目線に合わせる。


「チンアナゴだよ。ママは水族館でチンアナゴが一番好きなんだー」


 私は黙った。


 砂から細い体を出し、ゆらゆらしている。


 何をしているのだ。


 会議か。


 全員が半分だけ出ている。

 私が手を伸ばすと、一匹がすっと引っ込んだ。


 逃げた。


 責任を回避した。


 チンアナゴ社会には、発言を求められると即座に地中へ戻る文化があるらしい。

 父に少し似ている。

 母に「砂糖どこ?」と聞いたあとの父も、できれば地中へ逃げたい顔をしていた。


「ひーちゃん、じーっと見てるね。ひーちゃんもチンアナゴ好きかな」


 ひよりだ。


 そして、見もする。


 これだけ堂々と会議中の態度が悪い生物は、なかなか見られない。


 さらに奥へ進むと、クラゲの水槽があった。

 青い光の中で、透明なものがふわふわ浮いている。


 私はしばらく動けなかった。


 これは何だ。


 魚ではない。

 歩いてもいない。

 考えているようにも見えない。


 ただ、ふわふわしている。


 目的地もなさそうだ。

 予定もなさそうだ。

 責任もなさそうだ。


 なんて自由な生き方だ。


「クラゲ、きれいだね」


 母が言った。


 たしかに、きれいではある。


 だが、あの生き方が許されるなら、私もたまにはベビーベッドの中で何も考えずにふわふわしていたい。

 現実には、起床、食料要求、呼称制度の正常化、玩具資源の管理、昼寝交渉と、私の一日は忙しすぎる。


 クラゲ。


 あまりにも無責任。


 しかし、少しうらやましい。


 私は水槽に向かって手を伸ばした。


「あ」


 意味としては、「貴殿らの労働実態について、後日詳しく聞きたい」である。



 昼近くになると、母は私を休憩スペースに連れていった。

 持参された小さな容器から、私の食事が出てくる。

 水族館まで来ても、食料配給は通常通り行われるらしい。

 母の補給能力は高い。


「はい、あーん」


 私は口を開けた。


 悪くはない。


 ただ、周囲には他の子どもたちがソフトクリームやポテトのようなものを食べている。

 明らかに私の配給より華やかである。


 格差。


 社会には格差がある。


「あれはまだ早いからね」


 母が言った。


 読まれた。


 私の視線から政策要求を読み取るとは、さすが実務担当である。



 午後、私たちはペンギンの場所へ行った。


 ペンギンは歩いていた。


 よちよち。

 よちよち。


 私は固まった。


 似ている。


 私の歩行と少し似ている。


 だが、彼らは堂々としている。

 足元が不安定なのに、不安を見せない。

 むしろ、これが正式な歩き方であると言わんばかりだ。


 見習うべきかもしれない。


 歩行に必要なのは、安定性ではない。


 自信である。


「ペンギンさん歩いてるねぇ」


「あっ」


 ペンギンは一羽、こちらを向いた。

 目が合った。


 私は手を上げた。


 向こうは何も返さなかった。


 なかなかの大物である。



 最後に、母は売店へ寄った。


 危険な場所だった。


 棚には、魚、イルカ、ペンギン、クラゲなどのぬいぐるみが並んでいる。

 色と形で幼児の判断力を奪う、巧妙な商業区域である。


「記念に何か買おうか」


 母が言った。


 私はペンギンのぬいぐるみを見た。


 歩行の師である。


 母はそれに気づき、ペンギンを手に取った。


「これにする? ぺんちゃん」


 ぺんちゃん。


 まただ。


 この家はすぐに名を縮める。

 魚もペンギンも、入手された瞬間に正式名称を奪われるらしい。


 私はペンギンを受け取った。


 やわらかい。

 抱き心地は良い。


 だが、私は心の中で誓った。


 お前まで名前を失う必要はない。


 少なくとも私だけは、お前をペンギンと呼ぶ。



 帰りのベビーカーの中で、私はペンギンを抱きながら目を閉じた。


 水族館。


 魚の組織力。

 チンアナゴの責任回避。

 クラゲの無責任な自由。

 ペンギンの堂々たる不安定歩行。


 学ぶことは多かった。


「ひーちゃん、楽しかったね」


 母が言った。


 ひよりだ。


 だが今日は、少しだけ見逃してもいい。


 なぜなら私は、水の民との初会談を終え、歩行の師を得たばかりだからだ。


 私はペンギンを抱きしめた。


「あー」


 新たな外交関係が、ここに成立した。

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