第3話 うさぎちゃんとは誰のことだ
私は気づいてしまった。
この家の呼称制度は、根本から崩壊している。
*
発端は、朝のリビングだった。
私は床に座り、積み木をひとつずつ横に並べていた。
積むのではない。
今日は国境線を作っている。
赤い積み木からこちらが私の領土、その向こうはいずれ私のものになる予定の土地である。
母は台所にいた。
父は食卓でコーヒーを飲んでいた。
休日の朝である。
警備は緩み、大人たちは油断している。
こういう時こそ、家庭内の真実が露呈する。
「うさぎちゃん、砂糖どこだっけ?」
父が言った。
私は手を止めた。
うさぎちゃん。
誰だ。
私はすばやく周囲を確認した。
床。
ソファ。
テーブルの下。
カーテンの影。
いない。
少なくとも、私の見える範囲に耳の長い小動物はいない。
「上の棚。昨日、あなたが戻したでしょ」
母が答えた。
答えた。
母が。
私はゆっくり母を見た。
私の記憶が確かなら、母の名は、さおり、だ。
父が「さおり」と呼んでいたのを、私は何度か聞いている。
宅配便の紙にも、おそらくそう書いてあった。
祖母も「さおりさん」と呼んでいた。
つまり、母の正式名称はさおりで間違いない。
にもかかわらず、父は今、母をうさぎちゃんと呼んだ。
そして母は、何事もなかったかのように返事をした。
おかしい。
頭がおかしい。
父だけではない。
母もだ。
この家では、ひよりをひーちゃんと呼び、さおりをうさぎちゃんと呼ぶらしい。
ならば父は何なのだ。
きつねさんか。
たぬきちか。
もはや戸籍とは何のために存在するのか。
「ひーちゃん、どうしたの? 固まってる」
母が言った。
ひよりだ。
そして、固まりもする。
目の前で母がうさぎに改名されたのだ。
この家の総理大臣として、見過ごせる事態ではない。
「あっ」
私は母を指差した。
これは確認である。
お前はさおりなのか、うさぎなのか。
「あら、ママのこと呼んだ?」
違う。
呼称問題について正式な回答を求めている。
父が笑った。
「ひーちゃんは、うっちゃんが好きだなぁ」
私は父を見た。
やはり、頭がおかしい。
母は人間である。
少なくとも、私を抱き上げ、離乳食を作り、おむつを替え、夜泣きした私をあやすため、夜中に起きる能力を持つ大型の人間である。
うさぎにしては激務だ。
「違うでしょ!」
そうだ、違う。
父は頭がおかしい。
「うっちゃんじゃなくて、うさぎちゃんでしょ!」
母が言った。
私は開いた口が塞がらなかった。
「あー……」
違った。
母は正気に戻ったのではない。
より壮絶な狂気を要求しただけだった。
うっちゃんではなく、うさぎちゃん。
問題は、略称が間違っていることではなかった。
正式な異常呼称が別に存在していただけだった。
「ああ、うさぎちゃん。ごめんね」
「もう。間違えないでよね」
間違えないでよね、ではない。
母よ。
私の記憶が確かなら、あなたの名は、さおり、だ。
うっちゃんでもない。
うさぎちゃんでもない。
そもそも、なぜ少し誇らしげなのだ。
私は母を見つめた。
母は台所で砂糖の袋を取りながら、なぜか満足そうな顔をしている。
だめだ。
母も完全にあちら側の人間である。
この家の呼称制度は、私の想定をはるかに超えて崩壊していた。
「ひーちゃん、どうした? ボーっとして」
父が言った。
ひよりだ。
そして、この顔にもなる。
目の前で、さおりがうさぎちゃんとして再承認されたのだ。
戸籍、住民票、マイナンバー、すべての制度が泣いている。
私は床に座ったまま、父を指差した。
「あっ」
意味としては、「では、お前は何なのだ」である。
父は自分を指差した。
「パパ?」
違う。
役職ではなく、正式名称を問うている。
母が笑った。
「パパはくまちゃんでしょ」
私は二度目の衝撃を受けた。
くまちゃん。
出た。
父まで獣化した。
この家は何だ。
人間が一人もいないではないか。
うさぎちゃん。
くまちゃん。
ひーちゃん。
もはや家庭ではない。
動物園と略称の複合施設である。
「いや、俺はくまじゃないだろ」
父が言った。
よし。
父よ。
そこは正気なのか。
私はわずかに父を見直した。
「じゃあ何?」
母が聞く。
「パパ」
「それはひーちゃんから見た呼び方でしょ」
「じゃあ……たかしくん?」
たかし。
私は父を見た。
初耳である。
この男、たかしと言うのか。
私は床に手をついた。
情報量が多すぎる。
父はたかし。
母はさおり。
しかし父は母をうさぎちゃんと呼び、母はそれを正しいものとし、母は父をくまちゃんと呼ぼうとしている。
そして私はひよりなのに、ひーちゃんと呼ばれている。
この家の名前管理は、明らかに破綻している。
行政文書なら即日差し戻しである。
*
その後も、父は何事もなかったようにコーヒーへ砂糖を入れ、母は当然の顔で朝食の支度を続けていた。
二人にとっては、うさぎちゃんもくまちゃんも日常の範囲内らしい。
私は積み木の国境線を見下ろしながら、この家庭の統治難度をひとつ上方修正した。
食料配給、睡眠管理、おむつ替え交渉だけでも手いっぱいだというのに、正式名称の正常化まで私の管轄に入ってくるとは思わなかった。
「ひーちゃん、ごはんにしようか」
母が言った。
ひよりだ。
だが今、私はそれどころではない。
さおりがうさぎちゃんとして生きることを選び、たかしがくまちゃんになるかどうかで揺れている。
この家では、誰一人として自分の名を守りきれていない。
私は小さく息を吐いた。
「あー……」
先は長い。
まずはこの家に、名前とは何かを教えるところから始めなければならない。




