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第3話 うさぎちゃんとは誰のことだ

 私は気づいてしまった。

 この家の呼称制度は、根本から崩壊している。



 発端は、朝のリビングだった。


 私は床に座り、積み木をひとつずつ横に並べていた。

 積むのではない。

 今日は国境線を作っている。

 赤い積み木からこちらが私の領土、その向こうはいずれ私のものになる予定の土地である。


 母は台所にいた。

 父は食卓でコーヒーを飲んでいた。

 休日の朝である。


 警備は緩み、大人たちは油断している。

 こういう時こそ、家庭内の真実が露呈する。


「うさぎちゃん、砂糖どこだっけ?」


 父が言った。


 私は手を止めた。


 うさぎちゃん。


 誰だ。


 私はすばやく周囲を確認した。

 床。

 ソファ。

 テーブルの下。

 カーテンの影。


 いない。


 少なくとも、私の見える範囲に耳の長い小動物はいない。


「上の棚。昨日、あなたが戻したでしょ」


 母が答えた。


 答えた。


 母が。


 私はゆっくり母を見た。


 私の記憶が確かなら、母の名は、さおり、だ。

 父が「さおり」と呼んでいたのを、私は何度か聞いている。

 宅配便の紙にも、おそらくそう書いてあった。

 祖母も「さおりさん」と呼んでいた。

 つまり、母の正式名称はさおりで間違いない。


 にもかかわらず、父は今、母をうさぎちゃんと呼んだ。

 そして母は、何事もなかったかのように返事をした。


 おかしい。


 頭がおかしい。


 父だけではない。

 母もだ。


 この家では、ひよりをひーちゃんと呼び、さおりをうさぎちゃんと呼ぶらしい。

 ならば父は何なのだ。

 きつねさんか。

 たぬきちか。

 もはや戸籍とは何のために存在するのか。


「ひーちゃん、どうしたの? 固まってる」


 母が言った。


 ひよりだ。


 そして、固まりもする。

 目の前で母がうさぎに改名されたのだ。

 この家の総理大臣として、見過ごせる事態ではない。


「あっ」


 私は母を指差した。


 これは確認である。


 お前はさおりなのか、うさぎなのか。


「あら、ママのこと呼んだ?」


 違う。


 呼称問題について正式な回答を求めている。


 父が笑った。


「ひーちゃんは、うっちゃんが好きだなぁ」


 私は父を見た。


 やはり、頭がおかしい。


 母は人間である。

 少なくとも、私を抱き上げ、離乳食を作り、おむつを替え、夜泣きした私をあやすため、夜中に起きる能力を持つ大型の人間である。

 うさぎにしては激務だ。


「違うでしょ!」


 そうだ、違う。


 父は頭がおかしい。


「うっちゃんじゃなくて、うさぎちゃんでしょ!」


 母が言った。


 私は開いた口が塞がらなかった。


「あー……」


 違った。


 母は正気に戻ったのではない。

 より壮絶な狂気を要求しただけだった。


 うっちゃんではなく、うさぎちゃん。


 問題は、略称が間違っていることではなかった。

 正式な異常呼称が別に存在していただけだった。


「ああ、うさぎちゃん。ごめんね」


「もう。間違えないでよね」


 間違えないでよね、ではない。


 母よ。


 私の記憶が確かなら、あなたの名は、さおり、だ。

 うっちゃんでもない。

 うさぎちゃんでもない。


 そもそも、なぜ少し誇らしげなのだ。


 私は母を見つめた。

 母は台所で砂糖の袋を取りながら、なぜか満足そうな顔をしている。


 だめだ。


 母も完全にあちら側の人間である。

 この家の呼称制度は、私の想定をはるかに超えて崩壊していた。


「ひーちゃん、どうした? ボーっとして」


 父が言った。


 ひよりだ。


 そして、この顔にもなる。

 目の前で、さおりがうさぎちゃんとして再承認されたのだ。

 戸籍、住民票、マイナンバー、すべての制度が泣いている。


 私は床に座ったまま、父を指差した。


「あっ」


 意味としては、「では、お前は何なのだ」である。


 父は自分を指差した。


「パパ?」


 違う。


 役職ではなく、正式名称を問うている。


 母が笑った。


「パパはくまちゃんでしょ」


 私は二度目の衝撃を受けた。


 くまちゃん。


 出た。


 父まで獣化した。


 この家は何だ。

 人間が一人もいないではないか。


 うさぎちゃん。

 くまちゃん。

 ひーちゃん。


 もはや家庭ではない。


 動物園と略称の複合施設である。


「いや、俺はくまじゃないだろ」


 父が言った。


 よし。


 父よ。


 そこは正気なのか。


 私はわずかに父を見直した。


「じゃあ何?」


 母が聞く。


「パパ」


「それはひーちゃんから見た呼び方でしょ」


「じゃあ……たかしくん?」


 たかし。


 私は父を見た。


 初耳である。


 この男、たかしと言うのか。


 私は床に手をついた。


 情報量が多すぎる。


 父はたかし。

 母はさおり。

 しかし父は母をうさぎちゃんと呼び、母はそれを正しいものとし、母は父をくまちゃんと呼ぼうとしている。

 そして私はひよりなのに、ひーちゃんと呼ばれている。


 この家の名前管理は、明らかに破綻している。

 行政文書なら即日差し戻しである。



 その後も、父は何事もなかったようにコーヒーへ砂糖を入れ、母は当然の顔で朝食の支度を続けていた。

 二人にとっては、うさぎちゃんもくまちゃんも日常の範囲内らしい。


 私は積み木の国境線を見下ろしながら、この家庭の統治難度をひとつ上方修正した。

 食料配給、睡眠管理、おむつ替え交渉だけでも手いっぱいだというのに、正式名称の正常化まで私の管轄に入ってくるとは思わなかった。


「ひーちゃん、ごはんにしようか」


 母が言った。


 ひよりだ。


 だが今、私はそれどころではない。

 さおりがうさぎちゃんとして生きることを選び、たかしがくまちゃんになるかどうかで揺れている。

 この家では、誰一人として自分の名を守りきれていない。


 私は小さく息を吐いた。


「あー……」


 先は長い。


 まずはこの家に、名前とは何かを教えるところから始めなければならない。

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