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第9話 外れた予報

 浄化池の水面を渡る風だけが、東を向いていた。


 朝日が低い。池の周りにはエリナとサーラ、カイル、染料工房の職人たちが立ち、柵の外では住民が試験の始まりを待っている。外の旗は垂れたままなのに、水際へ落ちた葦の綿毛だけが同じ向きへ滑っていく。


 休息条項どおり朝鐘まで眠った、最初の朝だった。職人たちが有給で組んだ浄化池へ工房排水を通し、砂礫、炭、葦の三層で汚れを除く。今日の水質試験を終えれば、飲用を止めてある新井戸へ処理水を戻し、暮らしへつなぎ直せる。


 寝台を出る前、朝食の薄い麦粥を一椀食べた。舌へ残る塩気が、徹夜の朝にはなかったものだと気づく。休んだ分だけ目盛りを正しく読めると、まだ胸を張っては言えない。それでも足元は、昨日より軽かった。


 ここで見落とせば、泡の残る水が暮らしへ混じる。止めれば、三日延ばしてもらった試験日と臨時雇用の期限が、まとめて背中へ追いつく。


「第一弁、開けるよ」


 サーラの声で、職人が木栓を半分抜いた。


 薄い藍色の水が最初の槽へ入り、砂礫の上で勢いを失う。炭の層を抜けた水を白布へ落とす。色はない。匂いも、舌に残る金属臭もない。


 柵の外から、小さな歓声が上がった。


 水位棒は予定どおり一目盛り上がり、そこで止まるはずだった。


 止まらない。


 葦の陰から乾いた風が走り、表面の細かな炭を片側へ寄せた。白布へ落ちる水が細くなる。水位棒の濡れ跡は、計算より指一本ぶん低い。


 日差しが強くなっただけかもしれない。流入口を増やせば、目盛りだけは予定値へ戻る。けれど、昨夜カイルが残した砂の記録も東向きだった。二つのずれを別々に扱うには、近すぎる。


「新井戸の水を足せば、試験は続けられる」


 職人の一人が青い弁へ手をかけた。


 期限を守るなら、それが早い。予定値に戻した後で、乾風だけ調べる道もある。


 エリナは白布を絞った。布の縁に、洗い流したはずの泡が細く残る。水を足せば薄まる。消えたように見えるだけだ。


「弁から手を離してください」


 声が硬くなった。


「あと半刻で沈殿が揃うんだぞ」


「揃いません」


 赤い停止札を取った。紐が、旗の動かない風景の中で東へ引かれている。


 腕を上げる。


「予報が外れました。今朝の蒸発量と水位を、私は読み違えています。飲用系にはつなげません」


 青い弁が閉じた。


 歓声の後にできた静けさは、池へ落ちる一滴の音まで拾った。


「また延期か」


 工房主が柵の外から言った。補償の席で最後まで責任を認めなかった男だ。


「失敗するたび、公爵家が給金を出すのか。ずいぶん都合のいい仕事だ」


 カイルは返事の前に、閉じた弁と職人の人数を見た。


「停止中の施工給金は契約どおり支払う。試験を続けろと命じた者が、外れた時だけ専門家へ費用を返すわけにはいかない」


「では、成功はいつです」


「今は決めません。原因を見つけてからです」


 自分の口から出た言葉なのに、池へ落ちる水音だけが妙に近かった。


 故国なら、誰かが椅子を引く音から先に聞こえただろう。外れた予報は、次の説明を許されない理由になった。柵の外の靴は動かない。泥の付いた仕事靴も、欠けた木靴も、赤札の方へ爪先を向けたままだった。


 乾風がまた一度、濡れた紐を持ち上げた。



 昼の共同貯水槽前で、赤札は公開配水表の一番上に留められていた。


 エリナは予測値と実測値、足りなかった観測地点をその下へ書いた。浄化池と執務室の窓辺。二点しかない。町のどこから風が入り、どこへ抜けるのか、それでは分からなかった。


 外れを公表し、追加の観測者を募るために来た。ここで誰も手を挙げなければ、地上設備だけを見たまま臨時期限を迎える。


「つまり、明日の水もなし?」


 ニルが水位棒を肩へ担いでいた。尾の曲がった魚印を付けた、住民観測隊の最初の一人だ。


「今日、池を通した水は飲めません。原因が分かるまでです」


「分からないって、札にも書くの」


「書きます」


 炭を渡すと、ニルは赤札の空欄へ魚を描き、その横に大きく「?」を足した。


「字じゃないね」


 サーラが片眉を上げる。


「分からない印」


「そいつは読める」


 集まった住民から笑いが漏れた。朝の歓声より小さい。けれど、誰も配水表から離れなかった。


 風見札を配った。風向きと強さを同じ幅の布で比べる、掌ほどの観測具だ。棒へ結び、鐘が鳴るたび、布が向いた方角と持ち上がった高さを刻む。


「自然の風なら、屋根の旗も同じ向きになるはずです。札だけが動く場所と時刻を探してください」


 桶を抱えた女が、配られた札を裏返した。共同井戸で欠けた櫛の印を残した人だ。


「違う向きなら?」


 エリナが答えるより先に、ニルが赤札の「?」を指で叩いた。


「違う方を先に書く。分からないままも書く」


 女は鼻を鳴らし、風見札を桶の柄へ結んだ。


「じゃあ、櫛印の横を空けときな」


 鐘一つぶんの後、札が戻り始めた。


 住民は観測のためだけに暮らしているわけではない。女はパン窯へ戻る途中で櫛印を刻み、桶屋は配達の荷車へ札を結んだ。屋根へ上れない老婆は窓辺の糸を見た。鐘ごとに一人ずつ違う用事の途中で測るから、町の風には空欄ができにくい。


 市場の屋根では動かないのに、城壁沿いでは西へわずかに揺れた。染料工房の裏手では朝と同じ東向きで、ニルが持ち帰った町外れの札だけは、鐘の直後に高くはためいて、やがて力を失った。


 赤札の周りへ、魚や櫛、槌や桶の印が増えていく。


 時刻を重ねると、逆向きの矢印は一本の道へ寄った。閉鎖された旧鉱道へ続く荷車道だ。


 地上の風だけを測り直す余地は、もうなかった。



 夕方、旧鉱道の入口には熱い石と古い油の匂いがこもっていた。


 旧鉱道は、町外れに残る閉鎖坑道だ。坑口は板で塞がれているが、山腹まで通じる縦坑までは埋められていない。エリナはサーラ、ニル、元坑夫二人と、風の出どころを確かめに来た。地下が原因なら、池の周りへ風除けを立てても試験はまた外れる。


「中へ入る気なら帰んな」


 サーラは坑口の支柱を拳で叩いた。乾いた音が返る。


「塞いでから誰も補強しちゃいない。紙が正しくても、天井は読んじゃくれないよ」


「入口から測ります。縦坑の図と、出る時刻だけ」


 古い換気図を石へ広げ、四隅を釘袋で押さえた。元坑夫が指した縦坑は、町側と山側に一本ずつある。昼に山肌が熱を持つと、上がる空気が坑道の乾いた風を押し出すという。


 ニルが風見札を板の隙間へ差した。


 動かない。


「外れ?」


「鐘を待ちます」


 夕鐘が鳴る。二つ目の音が山腹へ返った時、布が勢いよく町側へ倒れた。坑口の粉塵が細い筋になって走る。浄化池で赤札を引いたのと、同じ乾き方だった。


 別の隙間へ白布を置く。三度目の風で、板の内側から黒い油粉が付いた。自然の谷風なら運んでこない、古い巻上げ機の汚れだ。


「縦坑が煙突になってる」


 元坑夫が換気図を逆さにした。


「日が落ちるまで、同じ間で吐くぞ」


「板で塞げば止まるかい」


「西の支道へ逃げる。あっちは天井が落ちかけてる」


 サーラの皮肉が消えた。


 塞ぐことはできない。このままなら浄化池の水位は揃わない。残ったのは、風の行き先を変えることだけだった。


 図の端には、坑内水を上げていた古い巻上げ輪が描かれている。池までの高低差を指で追うと、工房職人が掘った導水溝の先へ重なった。


「風路をここで受けます」


 木炭で、縦坑から巻上げ輪へ線を引いた。


「塞がずに、水車へ逃がします。浄化池の攪拌と、新井戸の揚水に分けられるかもしれません」


「明朝までに導風板を組むなら、坑夫が二人、工房から四人」


「風の時刻表は、住民の札を使います」


 ニルが魚印の札を図の上へ置いた。朝に掲げた赤札は、失敗した時刻ごと持ってきてある。二枚の布が同じ向きへ持ち上がった。


 失敗した札を隠して、新しい測定だけを並べることもできた。だが、時刻を消せば風の周期まで消える。赤札の紐をほどかず、最初のずれの横へ魚印の時刻を書き足した。


 板の向こうで、錆びた巻上げ輪が軋んだ。


 止まっていた歯が、半目盛りだけ回った。

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