第10話 名前で呼ばれる
三枚目の導風板が、坑口から吐き返された。
夜明けの旧鉱道には、エリナとサーラ、元坑夫が二人、染料工房の職人が四人いる。東の空は白み始めたが、板で塞がれた坑口の内側はまだ夜の色を残し、乾いた風だけが鐘より早く目を覚ましていた。
昨日、浄化池の公開試験は止まった。予報にない風で水位と沈殿がずれ、エリナ自身が赤い停止札を上げたのだ。その後、住民が持ち寄った風見札から、この縦坑が一定の間隔で風を吐くと分かった。
今朝のうちに旧鉱道水車を回せなければ、臨時雇用の期限までに再試験は終わらない。浄化池も、飲用を止めた新井戸も、町の暮らしへつなげないままだ。
旧鉱道水車は、縦坑の乾風を導風板で受け、止まっていた巻上げ輪を動かす設備だ。その力を浄化池の攪拌と井戸の揚水へ分ける。図には線が二本。現物を前にすると、紙の上で簡単だった仕事が急に重くなった。
現物の風は、図を読んでくれない。
「押さえろ!」
職人が二人がかりで板へ体重をかけた。油を含ませた麻縄が軋み、古い留め具から赤錆が散る。
「手を離してください」
語尾が短くなった。
「離したら板が割れるぞ」
「押さえ続ければ、風が西支道へ逃げます。あちらは天井が落ちかけています」
魚印の風見札を見た。昨日、ニルが赤札の横へ付けた時刻と同じ間で、布が高く跳ねている。
「今は受けない。次の弱い風で角度を変えます」
サーラが職人の肩を引いた。
「聞こえただろ。板より先に腕を折る気かい」
力が抜けた途端、導風板は麻縄を引きずって外へ倒れた。土煙が上がる。誰かが悪態をついたが、板は割れていない。
元坑夫が坑口の柱へ耳を当てた。
「西は鳴ってない。逃がせたな」
次の風まで、鐘の四分の一ほどしかない。
エリナは板の下端を一段低い穴へ移した。サーラが支保工を締め直し、工房職人は麻縄を二本に分ける。一人が押さえる形をやめ、両側から少しずつ角度を変えられるようにした。
「魚印が下がったら、一枚目。槌印で二枚目。三枚目は、布が水平になるまで待ちます」
「失敗した札が、ずいぶん偉くなったね」
サーラが袖で額を拭った。
「時刻だけは、外れていませんでした」
「そこを拾うのが仕事さ」
風見札が一度、萎んだ。
一枚目を開く。風が板の裏を滑り、巻上げ輪の羽根へ当たった。二枚目。錆びた軸が低い声で回り始める。
三枚目は急がない。
布が水平になったところで、職人たちが左右の縄を引いた。今度は板が跳ねず、風を細く絞って羽根へ送った。
止まっていた輪が、一歯、二歯と進む。古い油の匂いに、温まった木の匂いが混じった。
「回転、一定」
元坑夫が軸の印を数えた。
エリナは魚印の札へ新しい時刻を書き足した。赤い停止札を掲げた昨日が消えず、その続きに今朝の回転が並んだ。
水車は回った。
けれど、町へ水を渡せるかは、ここからだった。
◇
午前の浄化池では、水車から延ばした二本の軸へ青と白の麻紐が結ばれていた。
青は新井戸の揚水。白は浄化池の攪拌。サーラが白の弁を開くと、炭と葦を入れた槽がゆっくり混ざり始めた。工房職人が青の弁を半分開き、井戸のポンプが水を吸い上げる。
二つを同時に動かした途端、軸の音が低くなった。
「落ちるよ」
サーラが白の弁を戻す。
井戸側の桶へ水が届く前に、羽根が止まりかけた。旧鉱道から来る風には波がある。強い時だけ両方へ力を分けても、弱い時に同じ負荷をかければ、どちらも半端になる。
「片方ずつ仕上げた方が早い」
工房の職人が青い麻紐を引いた。
「池を先に終えりゃ、井戸は午後でもいいだろ」
「午後には臨時期限が切れます」
「じゃあ井戸を先にするか」
どちらを選んでも、もう片方を待つ人がいる。
エリナは軸へ指を添えた。強い風が来る前には、古い歯がわずかに浮く。昨日の風見札では、鐘の直後に布が高く上がり、その後ゆっくり下がっていた。
「同じ強さで分け続ける必要はありません」
白い弁を閉じ、青を一段だけ開く。
「風が上がる最初の四目盛りは揚水へ。桶が満ちたら青を戻し、残りを攪拌へ渡します。次の周期では順番を逆にします」
「水車に仕事の交代表を持たせる気かい」
「休息条項も必要でしょうか」
サーラは一拍、軸の油染みを眺めた。
「油をやれば、あんたより素直に休むよ」
次の風が来た。
青い麻紐が張り、ポンプが水を吸う。桶の底を叩く音が、やがて途切れない流れへ変わった。職人が合図し、青を戻す。白の弁を開くと、浄化池の水面にゆるい渦ができ、浮いていた炭が中央へ寄った。
一度目は、切替が遅れて泡が白布の縁へ残った。
成功を待つ住民の声が、柵の向こうで揺れる。職人が青い飲用札へ手を伸ばした。
「まだです」
エリナは白布を新しいものへ替えた。
「色は消えています。匂いも弱い。でも泡が残りました。もう一周期、別々に見ます」
「見た目は水だよ」
「見た目だけで飲ませた昨日を、今日の成功にはできません」
工房主は顔を背け、責任を認める言葉を飲み込む。それでも、職人の手から青い札を取り上げはしなかった。
二度目の周期では、サーラが弁を受け持つ。エリナは処理水と井戸水を別の白布へ落とし、炭の匂い、泡、沈殿の速さを一つずつ確かめた。工房の職人も指へ一滴取り、染料のぬめりを探す。
白布の縁は、乾いたままだった。
「サーラさん」
「泡なし。軸も持ってる」
同じ結果を二人の欄へ書く。
それからようやく、エリナは飲用札を裏返した。
青が朝の光を受けた。
浄化池の水が水路へ落ち、新井戸の桶が持ち上がる。二つの音は最初こそずれていたが、次の風では同じ間で町へ続いた。
◇
午後、共同貯水槽の前には、欠けた木杯を持った人が列を作っていた。
城下と貧民区、染料工房の職人、旧鉱道の元坑夫。公開配水表には、ニルの魚印、槌印、桶印が並ぶ。その横へ、導風板を組んだ者と軸を直した者、浄化池を設計したサーラの名が書き足されていた。
エリナの名は、その最後にあった。
木杯へ落ちる水は澄んでいた。小さな女の子が両手で受け取り、一口飲んで母親を見上げる。
「女神様のお水だ」
列のどこかで声がした。
祝う言葉だ。以前なら、できないことを説明するために、すぐ口を開いたはずだった。
「女神じゃないよ」
水位棒を肩へ担いだニルが、先に言った。
「雨読みのエリナ。外れたって札に書いた人」
褒めているのか、説明しているのか、ニルの顔からは分からない。
桶を持った女の頬が緩む。
「じゃあ、雨読みのエリナに一杯もらおう」
「水車を直したサーラにもだ」
「あたしは井戸から酒が出る方がいいね」
サーラの返事に、列の緊張がほどけていく。
名前がもう一度呼ばれた。今度は一人の声ではなかった。魚印も、油で黒くなった坑夫の名も、青い指の職人名も、同じ板の上に残っている。
次に頼まれる作業を探して、配水表の余白へ目を移しかけた。
「エリナ」
カイルが人垣の外に立っていた。隣の通商書記が、封のない報告紙を持っている。
「故国からの定期通商報だ。君へ渡すかどうか、先に概要を聞いてほしい」
「お願いします」
「東堤防に細い亀裂。補修記録と観測時刻は空欄だ」
水を受け取る杯の音が、近くで続いていた。
報告紙を開く。亀裂の長さはある。発見日もある。誰が測り、いつ補修を命じたかだけがない。第六話で届いた祝祭報告と同じ空欄だった。
「戻る必要はあるか」
問いは短かった。
エリナは報告紙を配水表の脇へ置いた。空欄を自分の手で埋めに行けば、また名前のない仕事へ戻る。
「公的な照会をお願いします。観測時刻、担当者、補修予定を、公印つきで」
「帰還要請が添えられても?」
「照会への回答だけを受け取ります」
カイルは書記へ頷いた。説得も、安堵の言葉も足さない。
配水表では、エリナの名の上にサーラ、その上に職人と坑夫、魚印が並んでいた。空欄を埋める仕事も、この名の列から始めればいい。
◇
夕方の公爵執務室には、二つの署名欄が並んでいた。
エリナは窓を背にして座り、カイルは机の向かいにいる。試験を終えた服のままなのは二人とも同じで、彼の袖にも水車の油が一筋付いていた。
机の中央には、新しい正式職務契約が置かれていた。
アルヴェーン領の雨読みとして、継続して雇うための書面だった。職名と月ごとの給金、住居、勤務上限。夜半から朝鐘までは休息時間とする。危険や疲労があれば、本人が作業を止めてよい。代行順位もあり、観測記録はエリナ本人のものだ。公表前には自分で内容を確かめる。
一行ずつ読む。
成功報酬の欄はない。予報が外れた時に給金を戻す文もない。
「第七条」
エリナは紙から顔を上げた。
「停止権は、今日のように結果が出た後だけではありませんか」
「結果の前にも使える。昨日、君が使ったのと同じだ」
「再試験が失敗していても、この契約を出しましたか」
「出した」
返事は早かった。
「外れたことを記録し、水を止め、原因を見つけた。その仕事を見て契約を決めた。今日の成功だけで決めたのではない」
褒め言葉の次に、追加の仕事を探す癖がある。
けれど、書面にあるのは、すでに果たした仕事への対価と、これから断れる範囲だった。
「修正したい箇所は?」
「記録の写しは、住民観測者にも一部保管をお願いします。私が持つ原本と、地区側の写しを照合できる形で」
「加えよう」
カイルが自分の筆を置き、書記用の筆を彼女の側へ向けた。文面を直す間、急かさない。
修正後の一行を読み返す。給金。休息。拒否権。本人帰属。住民側の写し。
署名欄へ、エリナ・ヴァルクールと書いた。
雨読みのエリナとして、自分で選んだ仕事を受け取る名だった。
カイルも隣へ署名し、青い封蝋を落とした。蝋が乾くまで、どちらも紙に触れない。
「これで、本日の仕事は終わりだ」
「明日の観測表を整えます」
「その返事を予想して、もう一つは職務の外へ出すことにした」
声が少しだけ柔らかくなった。
「職務の外、ですか」
「私個人から尋ねたい。今夜、夕食へ誘ってもいいだろうか」
次の報告先を考えていた頭が、そこで止まった。
「水務会議でしょうか」
「仕事の話をしない夕食だ」
「何を話すのですか」
「そこから考える必要がある。私も慣れていない」
カイルは伏せた筆を、指先で軽く転がした。
「断っても、契約には何も影響しない。給金も、明日の席も、この紙のままだ」
夕食へ行けば、何かを返さなければならない。そう身構えた自分に気づく。紙のどこを探しても、そんな条項はない。断る権利を確かめた今なら、行く方を選べる。
「では、お受けします」
「ありがとう」
「ただし、雨の話をしない保証はできません」
「契約違反にはしない」
窓の外から、乾いた土の匂いが入った。
朝までなかった湿り気が、ごく薄く混じっている。エリナは雨帳へ手を伸ばしかける。視線は、机の上の正式契約と仕事ではない夕食の時刻を行き来した。
まず、窓を開く。
正式な雨読みとして迎える最初の雨は、契約書の墨が乾くより早く来るかもしれなかった。




