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第11話 乾いた町の初雨

 一滴も降っていない市場で、香辛料袋だけが二階へ運ばれていた。


 朝の低地市場では、エリナとニルを住民たちが取り囲んでいた。南から来た雲は屋根より低く見え、青い祝祭旗の下では乾いた土が白く粉を吹いている。昨夕、エリナは正式職務契約へ署名した。雨読みとして迎える最初の雨を、町の飲み水へ変える日だ。


 失敗すれば、低い市場へ屋根水が集まり、昨日つながった新井戸まで泥で汚れる。


「胡椒は濡れると値が半分です。上へお願いします」


 店主は袋の底を抱えたまま、空を見上げた。


「雨を待って三年だぞ。最初にするのが店じまいか」


「お店は開けたままで構いません。品物だけ、膝より高い場所へ」


「降ってからじゃ遅いのかい」


 エリナは石畳の端へ置いた浅い皿を指した。


 浸透皿。一定量の水を地面へ注ぎ、吸い込むまでの時間を比べる器だ。朝鐘の前に入れた水が、まだ丸く盛り上がっている。


「この土は、最初の雨を飲みません。屋根から落ちた分が全部、ここへ走ります」


「こんなに乾いてるのに?」


 ニルが皿の脇へしゃがんだ。魚印を彫った水位棒を肩から外し、皿の水を覗く。


「乾きすぎると、表だけが固くなります。焼きたての硬いパンへ、一度に汁をかけるようなものです」


「もったいない」


「ええ。雨も、胡椒も」


 店主は口の端を下げたまま、二袋目へ腕を回した。


 賛成した顔ではない。それでも袋は一段、高くなった。


 市場の奥で笛の稽古が始まる。雨を迎える曲らしい。三音目で間違え、子どもの笑い声が上がった。祝う手を止めさせる必要はない。水の行き先だけを変えればいい。


 軒下では、桶に青い布を結んだ少女が、空を見上げて口を開けていた。祖母らしい女が顎を押し戻す。


「最初の雨は埃の味だよ。二杯目まで待ちな」


「二杯目なら甘い?」


「水は水さ。でも、待った分だけうまい」


 少女は少し考え、桶を口から離して香辛料袋の横へ運んだ。小さな手で持てる品だけを、一段高い棚へ上げ始める。


 エリナは市場の高低を書いた板を広げた。共同貯水槽は北、浄化池は西。家々の雨樋は、どれも真っすぐ低地へ向いている。


「初雨当番をお願いします。屋根、側溝、貯水槽を同時に見る役です」


「当番って、雨が降るだけだろ」


「だから、降ってからでは遅いのです」


 もう一つ根拠を足しかけた時、カイルが市場口から入ってきた。外套は着ていない。代わりに、荷上げ用の板を二人の兵と運んでいる。


「低地市場の荷上げと雨樋の切替を実施する。命令は私の名で出した」


 店主が胡椒袋の陰から顔を出す。


「外れたら、公爵様が祭りの邪魔をしたことになるな」


「その時は、私が濡れずに謝ろう」


「ずるい話だ」


「だから今、板を持っている」


 カイルは店先へ板を渡し、エリナには指示を促すだけの距離で止まった。


 昨夜の夕食では、仕事の話をしないはずが、スープの湯気がどの雲に似ているかで半刻が過ぎていた。雨の話をしても契約違反にはしない、と彼は言った。今朝も荷上げの板へ手を添えたまま、雨読みの指示には口を挟まない。


 胡椒店主が板の端を受け取り、二人を見比べた。


「夕食の次は、二人で祭りを台無しにしに来たのか」


「祭りは続けてください」


「私は板を運びに来ただけだ」


「公爵様は祭りでも働かされるらしい」


「正式契約の外だから、給金は出ない」


 乾いた笑いが店先へ広がった。


 ニルが浸透皿を持ち上げる。


「これ、屋根ごとに置く?」


「三か所で十分です。市場口、中央、貯水槽前。水が残ったら白い紐を引いてください」


「残らなかったら?」


「旗を振って、そのまま祝ってください」


 それなら分かる、とニルは走った。



 昼鐘より早く、瓦が一つ鳴った。


 次は二つ。間を置かず、屋根列の全部が硬い音を返した。


 初雨は細く始まらなかった。大粒が白い土へ丸い跡を作り、跡どうしがつながる。市場の青い旗が重く垂れ、焼いた肉と香辛料の匂いに、濡れた埃の匂いが混じった。


「皿、残った!」


 市場口からニルの声が飛ぶ。


 軒先の水が茶色い紐になり、石畳を下り始めた。三地点に散った初雨当番の白い紐が、市場口で上がり、中央でも続いた。


「北側から、二軒ずつです! 一度に全部を貯水槽へ向けないでください!」


 サーラが一枚目の導水板を軒下へ差し込んだ。職人が縄を引く。屋根水の向きが変わり、石の水路へ落ちた。


 二枚目はうまくはまらない。


「樋が四角いじゃないか!」


「この家だけ古い型だよ!」


 流れは待たず、市場の入口へ広がってくる。店主が胡椒袋を見上げ、それから青い祝祭旗の竿を抜いた。


「これを下へ噛ませろ。旗は濡れても値が落ちん」


 竿が導水板の端を持ち上げた。サーラが縄を巻く。


「気前のいい祭りだね。次から寸法も出しな!」


「次も降るならな!」


 言い返しながら、店主は竿を押さえ続けた。


 共同貯水槽の鐘が一度鳴る。残り三目盛り。


 エリナは雨帳を濡らさないよう脇へ挟み、屋根札を追った。北の二軒を閉じ、西の三軒を浄化池へ回す。瓦と石畳を打つ雨音が重なり、遠い声を消した。


 市場入口へ茶色い水が届く。


「魚印、今です!」


 ニルが水位棒を高く上げた。


 白い紐が一斉に引かれた。家々の雨樋が向きを変え、軒から落ちていた濁流が石の貯水路へ折れる。踊りの太鼓は止まらない。その拍の合間へ、縄を引く声、板を押す声、満水線を読む声が入った。


 茶色い筋は胡椒店の一歩手前で薄くなり、側溝へ落ちた。


 歓声が上がる。


「まだです! 槽の残りを!」


 共同貯水槽の鐘が二度鳴った。残り二目盛り。


 祝う声が、そのまま作業の返事へ変わる。北側の樋は元の向きへ戻り、残りの水は浄化池へ流れていく。誰かが笛の続きを吹き始める。また三音目で外す。


 ニルが笑いながら、泥の輪を残した浸透皿を胸へ抱えた。


 満水線の一つ下で、鐘が止まった。



 雨上がりの共同貯水槽では、屋根から落ちる雫だけが遅れて音を立てていた。


 槽の水は濁っている。飲めるのは沈殿区画で泥を落とし、浄化を終えた後だ。エリナは木札へ貯水量と切替時刻を書き、サーラ、初雨当番、職人の名を並べた。


 ニルが洗った浸透皿を、その下へ置く。


「次も、これを見る?」


「朝鐘の前に三か所。皿に水が残ったら、今日と同じ順番です」


「魚印から?」


「次の当番が決めてください」


 ニルは少し考え、魚印の隣へ空欄を二つ作った。桶を抱えた女が櫛印を書き、胡椒店主が小さな袋の印を足す。


 カイルは掲示板を見上げた。


「奇跡として記録する欄はないな」


「担当者の欄で埋まりました」


「なら、次の雨にも使える」


 濡れた封筒を抱えた伝令が、貯水槽の柵を回ってきた。胸元には王都水務院の徽章がある。


「アルヴェーン公爵閣下。初雨観測について、照会をお届けします」


 エリナは封を受け取る前に差出人と頁数を読んだ。四頁。添付写しが一部。


 カイルが尋ねる。


「ここで開くか、乾いた部屋へ移るか」


「差出しだけ、ここで確かめます」


 封を切る。照会文には、アルヴェーン領の雨読みが用いる観測法について、王都保管の類似記録と照らしたいとあった。


 添付頁の端から、水で滲んだ数字が見えた。


 第一雨帳、第三十二頁。受領番号、東水務第百七号。


 故国で報告を出す時だけ使っていた番号だった。


 雨上がりの明るさの中で、濡れた紙だけが冷たかった。


「これは、私の雨帳の番号です」


 著者名の欄は、次の頁の下に隠れていた。

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