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第12話 盗まれた署名

 署名欄の「トリスタン・ローヴェル」は、エリナが引いた赤い訂正線のすぐ上にあった。


 初雨の翌朝、公爵執務室にはエリナとカイル、王都水務院の伝令がいる。開いた窓の外では、雨樋から落ちる雫が石を叩いていた。昨夕届いた照会の出所を確かめ、王都へ返答するために集まったのだ。


 手元の雨帳を失えば、名義を証明するものがなくなる。黙って返す道は、他人の署名を公式記録へ残す道だった。


 添付論文の頁を、もう一度見る。


 観測列は見覚えのある順番だった。朝鐘前の風向、井戸水位、虫の高さ、上流の土の匂い。誤記を消さず、赤い一本線を引いて、欄外へ訂正時刻を書く。侯爵家では、汚いから書き直せと何度も言われた癖まで、そのまま残っている。


 署名だけが違った。


「原本と照らす必要があります」


 伝令は膝の上の書類箱を開いた。


「王都水務院でも同じ判断です。雨帳をお預かりし、照会文とともにお送りください」


 エリナは雨帳の角を机へ揃えた。


「原本は送りません」


 声が、自分の耳にも固く聞こえた。


「しかし、規定では原資料を――」


「唯一の原本です。移送中に失われれば、照会へ答える手段も失います。こちらで立会照合を行い、写しと記録を送ります」


「御本人の保管では、客観性が疑われます」


 もっともな言葉だった。以前なら、疑わせたことを先に詫びていたかもしれない。


 机の隅で、朝の茶が冷めている。昨日の夕食では温かいうちに飲めたのに、仕事机へ戻ると、ひと口目さえ忘れるらしい。


「だから、立会人を置きます。水務院の指定者にも同席いただけます」


 伝令はカイルへ向き直った。


「公爵閣下から、送付をお命じいただけませんか」


 カイルは書類へ目を落としたまま答えた。


「原本の所有者は彼女だ。私は提出を命じられない」


 それから、エリナを見る。


「照合には何日必要だ」


「今日中に、通し番号と受領控えまでは。紙と訂正記録は、書記とサーラさんの立会いをお願いします」


「期限延長は私の名で求める。中立保管庫の書記も呼ぼう」


「ありがとうございます」


「告発文も要るか」


 赤い線の上にある名が、また目へ入る。


 怒りのまま書けば、誰が写しを渡したかまで決めつけてしまう。分かっているのは、この頁が自分の提出報告を写したものだということだけだ。


「まだ要りません。先に、私が証明できる範囲を確定します」


 伝令は納得した顔ではなかった。それでも、雨帳へ伸ばしかけた手を自分の書類箱へ戻した。



 昼の雨読み作業室には、紙を押さえる重石が四つ並んだ。


 窓辺に雨帳原本、中央に故国水務院の受領控え、その向かいに照会写し。受領控えは、提出した文書の題名と頁数、番号を提出者の手元へ残す半券だ。書記が一枚ずつ頁をめくり、サーラは定規を当てて紙端を見ている。


「第三十二頁。東水務第百七号」


 書記が読み上げた。


「控えも同じです」


「論文の脚注にも、第百七号」


 三つの番号が並んだ。


 けれど、書記はペンを置かなかった。


「同じ提出記録を共同で使った、と主張される余地があります。番号だけでは、著者までは決まりません」


 正しい。


 分かっていたはずなのに、椅子の背が急に固く感じられた。トリスタンは何度も言っていた。婚約者どうしなら、記録を分ける必要はない。自分が評定で読み上げる方が皆の役に立つ、と。


 雨帳を開く。


「次の頁をお願いします」


 第三十三頁の外側には、半月形の欠けがある。冬の観測で留め金を外した時、凍った革と一緒に紙が裂けたものだ。


 照会写しにも、本文の端が半月分だけ欠けていた。


 サーラが定規の向きを変える。


「欠けた頁を写したね。製本した後の傷だ」


 書記が照合票へ一行を足した。


 さらに、赤い訂正線を追う。雨量の六を八へ直し、欄外に夕鐘一刻と記した箇所。写しでは黒く複写されているが、線の長さも、文字へ触れないよう途中でわずかに浮く癖も同じだった。


「訂正時刻、一致」


 書記の声が静かになる。


 次の頁には、観測筒の修理費が記されていた。侯爵家会計へ出した欄は空白で、私費購入の控えが糸で綴じてある。


 サーラが小さな工房印を指の腹でなぞった。


「この印はレンズ職人のものだ。筒の留め輪と目盛り板を替えてる。支払人はエリナ。論文には、この修理後にしか読めない細かさの数字まで載ってるよ」


「その事実を、技師として証言できますか」


「現物と票があるならね。昔を見たふりはしない。今ここで分かることへ署名する」


 サーラらしい返事だった。


 原本、控え、写しの三枚へ定規を渡す。


 番号。紙の欠け。訂正線。欄外時刻。修理後の目盛り。


 一つなら偶然と言えた。二つなら、共有したと押し切れたかもしれない。五つが同じ順番で並び、その上にだけ別人の名がある。


 雨樋の雫が七つ落ちる間、誰も話さない。


 記憶違いではない。


 自分が書いた。測ったのも、修理代を払い、提出したのも自分だ。世へ出る時、そこだけが婚約者の名に替わっていた。


 紙を破りたいほどの怒りは、来なかった。代わりに、定規がひどく重い。


「照合票の著者欄へ、私の名を入れてください」


 書記が顔を上げる。


「断定でよろしいですか」


「原本第三十二頁から三十五頁の著者として。複写した人物と提出者の経緯は、未確定と分けてください」


 赤い一本線は、間違いを隠さなかった痕だ。


 今は、誰がこの数字を書いたかを隠させない。



 夕方、公文書庫の長机には同じ写しが二部置かれた。


 エリナの右にカイル、向かいに書記が立ち、乾いた糊の匂いの中で最後の照合票を一行ずつ見直している。


 昼から紙ばかり見て、もう数字より先に匂いで部屋が分かりそうだった。


 一部は王都水務院へ。もう一部は国境沿いの中立保管庫へ送る。証拠封印は、原本を動かさず、立会人つきの写しと照合記録を公的に保管する手続だ。


 原本だけは、いつもの布へ包んでエリナの手元へ戻された。


 書記が封蝋を温める。


「提出者トリスタン・ローヴェル。暫定著者は、いかが記しますか」


「エリナ・ヴァルクール」


 カイルが答え、すぐに彼女を見た。


「この記載でよいか」


「はい。ただし、暫定停止を求めます。訂正が終わるまで、トリスタン卿の名で引用や再配布をしないように」


「処罰要求は?」


「提出経緯の回答を見てからです」


 青い蝋が一部目へ落ちる。中立保管庫の白い蝋が、二部目へ落ちた。


 カイルは封印記録の末尾へ、自分で一行を書き加えた。


「功績は奇跡ではない。彼女が記録した数字だ。これも記録へ入れる」


「少し、演説のようです」


「削るか」


 考えてから、首を横へ振った。


「数字のところは残してください」


 彼の口元が、ほんの少し緩んだ。


 書庫の扉が三度、急いだ間で鳴った。


 入ってきた門衛は、泥の付いた靴のまま立ち止まり、一礼する。


「故国より公使が到着しました。侯爵家財産の返還について、明朝の面会を求めています」

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