第13話 返却命令
「エリナ・ヴァルクール本人を、第一雨帳および侯爵家で得た知識とともに返還せよ」
朝の公爵執務室で、カイルは故国公使の要求文を二度読んだ。
窓から差す白い光は机の半分まで届き、扉の近くにはエリナと書記がいる。昨夕、トリスタン名義の論文が彼女の雨帳を写したものだと封印記録へ残したばかりだ。その翌朝には、書いた本人まで帳面と同じ返却品へ入れられていた。
昼の面会までに、返還を拒み、盗用照会への回答期限も確定する必要がある。
だが、カイルが本人より先に答えれば、故国から自分へ所有者が替わるだけだ。
「拒否状を」
書記が新しい紙を置く。
言い切ってから、ペン先を止めた。机の右に出口、廊下に衛兵が二人、室内には三人。最も疲れているのは、雨帳の角を揃え続けているエリナだった。
「いや。先に意思確認記録を用意してくれ」
書記が紙を替えた。
意思確認記録は、相手のいない別室で本人の選択と公表範囲を確かめ、その言葉と署名を残す文書だ。カイルは出口に近い椅子を彼女へ示した。
「選択肢を順に尋ねる。答えたくない項目は飛ばせる。私がいると答えにくければ退室する」
「承知しました」
「帰還を拒むか」
「拒みます」
短い返事だった。
「公使と会うか。会わずに文書だけを送ることもできる」
「会います。私の言葉が、両国の記録に残る場で」
「公開してよいのは?」
「給金、拒否権、記録の本人帰属です。現在の観測地点と住民の名は出さないでください」
「途中で退席する条件は」
エリナはそこで初めて、揃えていた手を止めた。
「私が帰らないと答えた後も、家族への義務だけを繰り返すなら」
「分かった」
「それから、公使が論文の提出経緯を知っているなら、質問します」
守るための面会が、彼女自身の照会にも変わった。
カイルは立ち上がる。
「署名の間、私は外にいる。書記と二人でよいか」
「はい」
廊下へ出ると、扉が静かに閉じた。衛兵の立つ位置を一歩ずつずらし、通路の端を空ける。中の声は聞こえない。壁の時計だけが、やけに正確に朝を削った。
廊下の端には、冷えた朝食の盆が置かれていた。焼いた小麦の匂いばかりで、扉の内側から椅子を引く音はない。食べろと言えば、彼女は従うだろう。それでは休息条項へ署名させた時と同じく、正しい命令を増やすだけになる。
まず、公使との面会が先だ。昼食の席を用意するかは、その後で本人へ尋ねる。カイルは書記へ短い伝言を渡し、温め直せるスープだけを厨房へ戻した。
呼ばれて室内へ戻ると、空白だった用紙には四つの選択とエリナの名が並んでいる。
カイルは書面へ手を伸ばさず、書記が封筒へ収めるのを待った。
「面会へ持参します」
◇
昼の謁見室では、雨上がりの光が床石へ四角く落ちていた。
カイルは上座の中央を空け、右に自国書記、左に故国書記を置いた。エリナの椅子は、彼と同じ列の扉側にある。立ちたくなれば立てる。退室したくなれば、誰の前も横切らずに済む。
故国公使は濃緑の礼服を崩さず、赤い公印の要求書を卓上へ広げた。
「ヴァルクール侯爵家は、令嬢を二十二年扶養しました。雨帳の紙も、観測器具も、教育も家の費用です。旧婚約者との共同研究を盗用と呼ぶのは、家内の事情を誤解したものです」
「私は婚約と役目を返上し、自分の意思で故国を去りました」
エリナの声は静かだった。
「現在は給金を受け、拒否権と記録の本人帰属を定めた契約で働いています。帰りません。第一雨帳も渡しません」
公使は彼女を見ず、カイルへ向いた。
「では、令嬢はアルヴェーン公の保護下にあると?」
欲しかった言葉は分かる。侯爵家の娘が、公爵家の被保護者へ移った。そう書ければ、本人の選択はまた家どうしの線へ消える。
「私のものではない。本人の選択が記録されている」
書記が封を開き、意思確認記録を机の中央へ置いた。
「国境就業条項を適用する。他国で給金を受けて独立契約を結んだ成人の移動と職業選択は、出生家の家産規則では取り消せない。雨帳の帰属は契約と封印記録の通り、エリナ本人にある」
「法を持ち出さずとも、病の父に娘を返すのが人情でしょう」
公使は別紙を一枚、要求書へ重ねた。幼年期の家庭教師代、雨帳用紙、観測器具。金額だけが整然と並び、誰がその道具で夜明け前の井戸を測ったかは一行もない。
「侯爵家が費用を負担した以上、成果を家へ戻すのが筋です。アルヴェーン公も、雇った者の仕事を領外へ無償で持ち出されればお困りでしょう」
「現在の契約なら、職務記録の写しは住民側にも残ります」
エリナが別紙へ視線を落とす。
「第一雨帳の修理費は私費です。故国へ提出した報告には受領控えがあります。費用の請求があるなら明細ごと確認しますが、私の移動と著者名を代価にはしません」
公使は条文を離れ、家族の話へ移った。
エリナの視線が、費用表の金額を上から下までたどる。
カイルは答えを待った。沈黙を埋めるのは、公使の役目だ。
「父の病については、初めて聞きました」
「侯爵閣下は昨夜、倒れられました。ご息女を呼んでおられます」
「その件は、返還命令と分けてください」
敬語が一段、硬くなった。
「私は帰還を拒みます。病状を示す公文書があるなら、受け取るかは別に決めます」
公使はわずかに眉を上げた。家族を理由にすれば、彼女が先に譲ると思っていたらしい。
カイルは自国書記へ目を向ける。
「返還要求は本日付で撤回。故国水務院は、論文の複写者、提出者、受領経路を五日以内に回答する。引用と再配布の停止は継続。以上を両国議事録へ」
「要求は保留中と記していただきたい」
「本人が拒否し、法的根拠もない要求を保留する理由は?」
「家族の同意が――」
エリナが椅子から立った。
「同意するのは、私です」
その一言を、両国のペンが別々のインクで追った。
公使は口を閉じた。
書記が意思確認記録を議事録の末尾へ重ねる。カイルは青い紐を通し、結び目へ自国印を押した。故国書記にも封印位置を示す。
「所有者欄はありません」
自国書記が言った。
「必要ない。本人の署名欄がある」
公使側の印が、青い紐の反対側へ落ちた。
◇
夕方、謁見室前の廊下には、退室する一行の靴音が長く残った。
扉は開けたままだ。カイルはエリナと書記の半歩後ろに立ち、公使が外套を受け取るのを待っていた。公的な書類箱は、すでに従者の手へ戻っている。
「最後に、私信として」
公使が懐から薄い封筒を出した。
「侯爵閣下の診断書です。余命は長くない。法の返答を待てる病ではありません」
差し出された封筒へ、手が動きかけた。
カイルは外した手袋を握り直し、公使から半歩退いた。書記が開封用の小刀と、未開封のまま収める証拠袋を並べる。
「エリナ。受領を断るなら、そう記録する。どうする」
公使が不快そうに息を吐いた。
「父君の命まで、本人へ委ねるおつもりか」
「本人の判断だ」
エリナは封筒を見た。返事まで、夕鐘の半拍ぶん間があった。
「証拠として受け取ります。今は開きません」
書記が証拠袋を差し出した。
「病状の真偽を確認します。公印のある照会を出し、その結果を見てから、一度だけ私が返します」
「間に合わなくても?」
「それも含めて、私が決めます」
公使は診断書を証拠袋へ落とし、礼だけを残して歩き去った。
書記が袋の受領時刻を記す。エリナは中身を見ようとせず、表の差出人だけを読んだ。
書記室の方から、温め直したスープの匂いが流れてきた。
エリナは封筒から目を上げる。
「照会文の前に、食べてきます」
「ああ」
証拠袋を書記へ預けると、彼女は自分から書記室へ向かった。
夕鐘が鳴る。
一度目の音で故国の馬車が門を出た。二度目が消えても、診断書の封は切られなかった。




