第14話 一度だけの返書
診断書の封を切る前に、エリナは余白へ国境までの日数を書いていた。
三日。馬を替えれば二日半。
返還命令を退けた翌朝、雨読み作業室にはエリナと書記、窓際にカイルがいる。机の中央には、昨夕に未開封のまま受け取った父の病状証明が置かれていた。医師の公印、診察日、症状と処方を揃え、急な移動が必要だと公に示す文書だ。
今日はその真偽を確かめ、帰るか、返すか、何も答えないかを自分で決める。
偽りに従って帰れば、ようやく記録した移動と職業選択が、家の都合で消える。けれど本当に父が死にかけているなら、確かめなかった日のことを、また自分の責任にするだろう。
薄い朝茶が舌に苦かった。ほとんど眠れなかったことは、言わないでおく。
「開封します」
書記が受領時刻を読み上げ、証拠袋の糸を解いた。封筒の端を小刀で切り、診断書だけを机へ滑らせる。窓際に残ったカイルは、朝日が彼女の手元へ届くよう、鎧戸をもう一枚開けただけだった。
父は昨夜、胸の発作で倒れた。意識が戻らず、娘の名を呼んでいる。
その二行を読んだだけで、余白の三日が行程へ変わりかけた。替え馬の置かれる町。夜でも門が開く宿。持って出る雨帳。
息を吐き、日付へ戻る。
封を切る前に書いた日数は、診断書より先に自分の方を言い当てていた。父の容体も、差出人も確かめないまま、身体の方はもう帰る支度を始めていたのだ。
その文字を今すぐ消せば、動揺までなかったことにできる。エリナは鉛筆を置き、余白をそのまま残した。
「過去の救護記録をお願いします。侯爵家付き医師のものを、三年分」
書記が棚から綴りを下ろした。
治水の現場では負傷者を隣領へ運ぶことがあり、病状証明に不備があれば門で止められるため、エリナは昔から医師印の形まで控えていた。侯爵家付き医師の公印は、偽造を防ぐため、外周へ年ごとに小枝を一本足す。
今年の見本には、四本目があった。
診断書には、二本しかない。
書記が二年前の綴りを右へ、今年の綴りを左へ置くと、丸い印の外周では、葉のない小枝だけが一本ずつ増えていた。診断書の印は右の頁と同じで、今年の文書へ紛れ込むには二年古い。
「古い印を使った可能性は?」
カイルの問いは、慰めにも断定にも寄らなかった。
「予備印の使用記録を照会しなければ、印だけでは決められません」
そう答えながら、処方欄を指で追う。同じ医師が作った過去の救護記録では、同じ発作に一回量が四倍、その後の投与間隔まで書かれている。今回の量では、記載された症状と合わない。
書記が二枚を横へ並べた。
「診察日は昨夜。ですが、押されているのは二年前の型です。薬量も、過去の同症状と一致しません」
診断書の文章は、父の容体より、娘がいつ出発するかを何度も求めていた。
帰れ。間に合わない。娘の務め。
病人を診た医師の文書というより、門を越えさせる命令書に見えた。
「この医師印は偽造です」
口にすると、窓の白い光がようやく目へ戻った。
「ただし、父が病気ではない証明にはなりません」
偽造を見抜けば、帰らなくてよい理由が手に入ると思っていた。実際に得たのは、紙が嘘だという答えだけだ。父の病状は、まだ空白のまま残っている。
「ああ」
カイルは短く応じた。
「故国水務院を通じて病状を照会する。返事をしない。受け取る文書の条件だけを一度通知する。選べるのは、その三つだ。組み合わせてもいい」
「公的な照会を出します」
余白へ書いた三日を、一本の線で消した。訂正時刻は書かなかった。これは観測記録ではない。
「それから、通知も。一度だけ返します」
カイルはうなずいたが、文面を問わなかった。
◇
夕方の書記室には、西日と削りたてのペンの匂いが残っていた。
エリナの前には、文字で埋まった紙が一枚ある。
父の容体を案じる文から始まり、長女として務めてきた年月、今すぐ帰れない事情、雨帳を渡せない理由と続く。最後は、診断書を疑ったことへの詫びだった。
一段落目で父を気遣い、二段落目で帰れない理由を並べ、三段落目では雨帳の権利まで説明している。文字は小さくなるのに余白はなくならず、相手が怒る場所を先回りするたび、新しい釈明がその隣へ生えた。
読み返すほど、次の説明が必要になった。これを送れば、相手が納得するまで二通目、三通目を書くことになる。
「破棄しますか」
書記が尋ねた。
「いいえ。最初に私が書いたものとして、残してください」
証拠箱へ入る紙を見届け、新しい一枚を引き寄せる。
今後の連絡は、故国水務院を通じた公印付き文書に限ります。
私的な呼び出しには応じません。
二行の下へ、エリナ・ヴァルクールと署名した。
紙の下半分が白い。書き忘れたようで落ち着かず、ペンを戻しかける。伝える条件は二行ですべてだった。
窓辺にいたカイルが、そこで初めて机へ近づく。宛先と公的照会の同封番号だけに目を走らせた。
「送るか」
「はい」
「加える言葉は?」
ペン先の乾いた音が、隣の机からかすかに聞こえた。
「ありません」
書記が紙を折り、公用の封筒へ収める。赤い蝋が丸く落ちた。侯爵家の紋は使わない。封の継ぎ目を横切るように、もう一度、自分の名を書いた。
長い返書より、短い二行の方が、腕の置き場に困った。
「明朝一番の公便へ載せます」
書記が封筒を送付箱へ収めた時、廊下から控えめな足音が近づいた。
門番が持ってきたのは、もう一通の薄い封筒だった。公使の印も、侯爵家の紋もない。差出人欄には、丸みの残る字でミレーユ・ヴァルクールとある。
封蝋は右へ薄く流れていた。固まりきる前に印を押すから、妹の手紙は昔から少しだけ右が汚れる。
差出人の字は、晴量札へ大きく名を書く時より小さい。それでも、最後の「ユ」だけが少し上を向く癖は変わらなかった。家の書記に代筆させた宛名ではない。
「こちらも証拠箱へ?」
書記が父の診断書と同じ箱を開いた。
「待ってください」
家の紋で届いた命令と、妹が自分の名で出した手紙。同じ場所へ入れれば、どちらも開かない理由にはできる。
けれど、開く義務がないことと、読みたくないことは、まだ同じではなかった。
エリナは別の受領皿を引き寄せ、未開封の封筒をそこへ置いた。
「これは明日の朝、私が読みます」




