第15話 晴れすぎた空
三度目の祝福が終わった時、城下の空には雲が一つもなかった。
朝のヴァルクール祝祭広場では、ミレーユが噴水前の壇上に立ち、トリスタンが半歩後ろから領民へ手を振っている。井戸のそばには水務室の観測担当者が二人。雲を払うたび瞼の裏へ残る金色の熱も、笑顔で隠した。
姉が領を去った今、祝祭の晴天と水務報告はどちらもミレーユの役目だ。夕刻までに祝祭を成功させ、安全の署名まで出せば、皆が望む後継者でいられる。失敗すれば拍手も居場所も失う。続けすぎれば、井戸と風下の土地が傷むかもしれない。
けれど、その「かもしれない」を説明できる姉はもういなかった。
「ご覧ください。お姉様が心配した雲なんて、私がすっかり晴らしてみせました!」
両腕を広げると、金の紙吹雪が石畳へ舞った。子どもたちが踏むたび、靴の裏まできらきらする。拍手は近い。胸を張れば、誰も井戸の底を見ない。
「ミレーユ様」
井戸脇の担当者は、祝祭に似合わない測り縄を持っていた。
「水面の跡が、昨日より下です」
縄の先についた重りは濡れている。だが、井戸の内壁には、その濡れ跡より指二本ぶん上に白い輪が残っていた。
「朝が早いからよ。皆、祝祭の支度でたくさん水を使ったのでしょう?」
明るく言えば、周囲の何人かがうなずいた。いつものように。
「城下の井戸だけではありません。西門も、東の共同井戸も同じ下がり方です。晴量札の時刻と合わせて見たいのですが」
晴量札は、祝福を使った時刻と範囲、どれだけ続けたかを術者が書く札だ。以前は侍女が用意し、ミレーユは最後に大きく名を入れるだけだった。
「あとで見せるわ。今はお祭りよ」
「民が待っている」
トリスタンが壇上から手を差し出した。
「西の雲が戻りつつある。もう一度、頼む。希望を途切れさせる必要はない」
見上げると、青空の端に灰色が残っていた。広場からは遠い。拍手はすぐそこにある。
差し出された手へ指を重ねた。祝詞を唱えると、肩に掛けた金糸が光を含み、広場を横切る風が強くなる。雲は薄くほどけ、旗の向こうへ流れていった。
歓声が上がる。
西の空だけが、さっきより暗かった。
◇
午後の水務室は、晴れすぎた光で紙の白さまで痛かった。
ミレーユの前には、第一雨帳と井戸巡回表が開かれている。井戸巡回表は、各井戸の水面までの距離を同じ時刻に測り、下がる速さを比べる記録だ。朝の欄には、どの地点にも昨日より長い数字が並んでいた。
その横へ、金の紐で綴じた四枚の晴量札が置かれる。
「この三本線は、過去平均との差でよろしいですか」
担当者が雨帳の欄外を示した。
「ええ。小さな兆しを重ねて見るの。ひとつだけで決めてはいけないわ」
姉が評定で言っていた言葉だ。すらすら出てきたことに安堵しかける。
「では、どの時刻を基準に重ねますか。井戸巡回表は朝鐘の直後ですが、こちらには時刻がありません」
「それは……風向きも見るのよ」
「今日の風向きなら、どの欄を?」
雨帳には細い文字がびっしりと並んでいた。雲の高さ。虫の動き。井戸の匂い。姉が何度も読み返していた頁なのに、どこから今日へつなげればよいのか分からない。
首筋の熱が髪の内側へこもる。窓の外では、片づけの始まった広場からまだ音楽が届いていた。
「質問は後にしなさい」
トリスタンが安全報告を机へ置いた。
「祝祭は成功した。水位低下は使用量の増加と書けばよい。雨帳はヴァルクール家の記録だ。後継者である君が署名すれば、形式は満たされる」
「原因が違ったら?」
「不確かな話で民を騒がせる方が危険だ。君は今日、あれだけの人を笑顔にした」
担当者たちは口を挟まなかった。
拍手があれば正しい。皆が笑えば正しい。そう言い聞かせてきたはずなのに、机の上には四枚の札がある。井戸の数字も、四度ぶん下がっている。
姉なら、ここから何を読んだだろう。
そう考えた途端、いつもの答えが口まで上がった。姉なら心配しすぎる。私なら晴らせる。
もう、その言葉では井戸の縄を短くできない。
「この数字、私には読めない」
広場の音楽が曲の途中で止まった。紙をめくる音まで、部屋の全員に聞こえた。
「ずっと、読めるふりをしていたの」
「ミレーユ」
トリスタンの声から、祝祭で使った甘さが消える。
「今ここで言うことではない。君は皆に選ばれた晴れの聖女だ」
「晴れの祝福を四度使いました」
答えず、空欄だった報告書へ書く。
城下西井戸、前日より低下。東共同井戸、低下。西門井戸、低下。原因は未確定。雨帳の読み方を説明できず。
文字が途中で斜めになった。書き直さず、その下へ自分の名を入れる。晴量札と井戸巡回表も同じ金の紐へ通した。
「署名なら、ここにします。安全とは書けません」
「それで祝祭を台無しにするのか」
「もう終わった祝祭より、明日の井戸の方が先です」
その言葉にも、担当者はうなずかなかった。ただ一人が綴りを受け取り、保管番号を読み上げる。
拍手はなかった。
ミレーユは小さくなった椅子に座ったまま、読み上げられる保管番号を最後まで聞いた。
◇
夜の私室では、侍女がランプの芯を短くしていた。
窓の西側はもう夜の色なのに、東の空には昼の薄青さが残っている。机の上には、書き損じた便箋が三枚あった。
お姉様、許してください。
意地悪をしたつもりはなかったのです。
皆が私に晴らしてほしいと言ったから。
そこまで書くと、次は「私も苦しかった」と続けたくなった。姉が何をされたかより、自分がどれほど困っているかを分かってほしい手紙になっている。
「これを送ったら、お姉様は何と返すと思う?」
侍女はすぐに答えなかった。
「お返事を、考えてくださるかと」
返事を考えさせる。許すか、慰めるか、怒るかまで姉の仕事にする。
便箋を二つに破った。紙籠へは入れず、机の端へ置く。書いたことまで消せば、また同じ言葉をきれいに書き直してしまいそうだった。
新しい紙には、朝からの祝福回数を書いた。
四度。城下三地点で井戸低下。西の雲は祝福のたびに厚くなった。雨帳の三本線と基準時刻が分からない。
最後の一行だけで、ペンが止まる。
読み方を教えてください。
謝罪は書かなかった。姉の許しはまだ得ておらず、返事が来るとも限らない。
「侯爵家の便には載せないで」
自分の名を書いた封筒を侍女へ渡す。
「公使の荷とも別にして。明朝、国境へ向かう商隊の便へ預けてほしいの」
「トリスタン様がお知りになれば、お叱りになります」
「ええ」
喉の奥で、広場の歓声がまだ続きを求めていた。
「それでも出して」
侍女は賛成とも反対とも言わず、封筒を両手で受け取った。
赤い蝋を落とし、自分の小さな印章を押す。急ぎすぎて、固まりきらない封蝋が右へ薄く流れた。
窓の外が一瞬だけ白くなる。
西の稜線には、昼に散らしたはずの雲が幾重にも重なっていた。その下の斜面は、長い晴天で土の色をむき出しにしている。
消したつもりの雲は、ただ西へ場所を変えただけなのかもしれない。
遠雷が一度、手紙を追い越して鳴った。




