第8話 休息条項
染料工房の裏庭で、工房主が浄化池の図面を卓から払い落とした。
朝の鐘が鳴ったばかりだ。封印縄の向こうでは排水口が止まり、藍を煮る窯だけが余熱を吐いている。カイルの前には、エリナ、サーラ、工房主、職人代表、それに財務官がいた。六人のうち、立っているのがいちばん危ういのは、夜通し図面を引いたエリナだった。
昨日、住民の水位棒と青い糸くずから、この工房が井戸を汚していると分かった。今日中に浄化と補償を決められなければ、排水を戻すか、ニルの母を含む職人の給金を止めることになる。どちらかを急げば、水か暮らしが傷つく。
「うちだけ悪者にして、仕事まで奪う気か」
工房主の靴が、落ちた図面の端を踏んだ。
エリナはかがんで紙を拾った。染料の泥が付いた角を布でぬぐい、砂礫、炭、葦の順に並ぶ断面を卓へ戻す。
「排水口は、浄化池の試験が終わるまで開けられません」
「試験がいつ終わるかを聞いている」
「明後日です」
答えは静かだった。だが横の小卓には、芯まで黒くなった灯皿が三つ積まれている。カイルは人の顔より先に出口と人数を見る癖がある。今日は、使い切られた灯芯ばかりが目についた。
財務官が補償表を持ち上げた。
「休業中の給金に、浄化池の施工費まで重なります。汚染を出した工房へ二重に支払うのは、他の工房へ説明がつきません」
「払う相手を分けます」
エリナは見本箱の炭を持ち上げた。
「工房の職人には、池の施工と保守を有給で担っていただきます。染料を扱う方は、沈殿の色と炭の替え時を見分けられます。操業できない日を、待つだけの日にしません」
青く染まった指の職人代表が、炭をつまんだ。
「池ができた後も、うちの仕事になるのか」
「保守の記録を公開する条件で、継続してお願いしたいです」
「勝手に決めるな」
工房主はまだ図面を睨んでいた。責任を認めた顔ではない。それでも職人代表は窯を離れ、見本箱の方へ半歩寄った。
サーラが袖をまくり、池の寸法へ爪を置く。
「掘るのに八人、層を組むのに四人。工房の連中なら道具は足りる。けど明後日は無理だね」
「私が夜のうちに流量表と施工順を――」
「それであんたは何人分だい」
返事が途切れた。
カイルは手袋を外した。
「試験日は延ばす。工房の休業補償と有給施工は、今季の水恵祭の予算から出す」
財務官の眉が上がる。
「水恵祭は領民へ水路再開を示す儀礼です」
「汚した水を止め、職人の給金を守る方が、よほど分かりやすい」
「しかし、延期すれば追加の警備費が」
「その責任も私が負う。工房主には、浄化池完成後も排水記録を公開してもらう。拒むなら操業停止は続ける」
工房主は同意しなかった。職人たちへ聞こえる声で、補償が遅れれば公爵家のせいだと言い残しただけだ。
世界は一度の正論で丸くならない。その方が扱いやすい。記録へ残す反対が、まだ一つあるだけだ。
エリナは新しい日付を補償表へ書いた。ところが、残作業の欄から自分の名を消していない。
「午後、執務室へ来てほしい。契約を直す」
「先に流量表を仕上げます」
「その流量表を含めて直す」
紙角を押さえる指が、離れなかった。
◇
午後の執務室には、西日が細く差していた。
カイルは扉までの歩数を確かめ、窓際の机へ戻った。エリナは向かいに座り、サーラと財務官が左右にいる。朝に出した茶は冷え、彼女の杯だけほとんど減っていない。
机の中央には、書き直した条件書と未完成の浄化池図が並んでいた。
「試験日は三日延ばしました。今夜は流量表だけ整えれば、明朝から施工順を――」
「今夜の作業はない」
声を低くすると、財務官が筆を止めた。
条件書の追加欄を示す。連続勤務の上限。夜半から朝鐘までの休息。サーラを第一代行者とし、本人が危険または疲労を理由に作業を止められること。停止によって給金も契約期間も減らさないこと。
「休息条項です」
エリナは最初の一行へ目を落とした。
「私は大丈夫です。工房の方は、明日から給金が必要です」
「だから補償を決めた。今夜の給金は、君が起きているかどうかで変わらない」
「井戸の水は待ってくれません」
「待たせる判断をしたのは私だ」
返事が硬くなるほど、言葉の切れ目が短くなった。
「沈殿槽の深さがまだ確定していません。雨が入った場合の余裕も、炭の交換量も」
「サーラ」
「深さはあたしが見る。炭は工房の連中と試す。雨が降るなら、朝のあんたが読めばいい」
「もし夜のうちに条件が変われば」
「そのための当番だよ。あんた一人の目を町じゅうに貼る気かい」
サーラは引継ぎ表を引き寄せた。最初の欄へ、自分の名と夜番の職人二人の名を書く。
財務官はなお条件書を見ていた。
「本人の停止権まで認めれば、急場で指揮が空きます」
「代行順位を書く。彼女だけが背負う席をなくす」
「そのために雇った専門家では」
「一人倒れれば止まる計画を、計画とは呼ばない」
エリナが顔を上げた。驚いたというより、聞き慣れない言葉の置き場所を探しているように見えた。
カイルは署名欄を上下から横並びへ直した。雇用者の責任と、専門家が停止を選べる権利。どちらか一方だけでは、また善意が空欄を埋める。
「完成期限を延ばしたのは、あなたの失敗ではない。私の決定です」
「ですが、私が休んでいる間に誰かが――」
そこで言葉が止まった。
誰かが困る。誰かが死ぬ。その先を口にしない癖を、カイルはもう知っている。知ったからといって、代わりに恐怖の名を決めるつもりはなかった。
「眠れるかどうかは、君が決めていい。ただし今夜、この仕事へ戻る許可は出さない。食事を取るのも、湯を使うのも、庭を歩くのも自由だ」
サーラが鼻を鳴らす。
「公爵、休み方の候補が地味だね」
「酒盛りを足すべきか」
「この人は飲みながら雲を数えるよ」
ほんの少し、エリナの口元が緩んだ。
図面へ視線が戻る。池の縁は途中で切れ、計算欄も二つ空いていた。
「未完成のままで、よいのですか」
「未完成だと分かる形で残してほしい。終わったふりをされる方が困る」
しばらくして、指が紙の端から離れた。
エリナは空欄へ「サーラさんへ引継ぎ」と書き、ペンを置いた。サーラが同じ席へ腰を下ろし、図面を自分の向きへ半分だけ回す。奪うのでも、預かるふりをするのでもない。続きから始める人の置き方だった。
「朝鐘の後に戻ります」
「それより早く呼ぶ条件は、避難が必要な時だけだ」
「承知しました」
扉へ向かう足は遅かった。途中で一度振り返ったが、図面を取りには戻らない。
廊下の先で客室の扉が閉じた。
夜半、執務室の灯りを落とした後も、カイルは見回りの報告を待っていた。浄化池、封印した排水口、共同貯水槽。異常なし。報告先はサーラに変えてある。エリナの部屋を叩く理由はない。
窓辺へ置かれた乾いた砂が、かすかな音を立てた。
外の旗は垂れたままだ。それなのに砂だけが、窓枠の東端へ細く流れていく。朝の図面にはない向きだった。
時刻と動きを紙へ残し、警備兵へ告げる。
「避難鐘が鳴らない限り、エリナは起こすな。サーラへこの記録を」
灯りは戻さなかった。
暗い窓辺で、砂の細い筋だけが伸びていた。




