第7話 子どもの水位棒
朝の共同井戸で、柵の外にいた少年が「黒、赤、白」と昨夜の配水表を数えていた。
夜間貯水が初めて両地区の朝分を満たした翌朝だ。エリナは水位棒を抱え、サーラと貧民区へ来ている。公開配水表を住民自身が書き継げなければ、貴族が水を奪うための新しい印だと疑われ、飲めない泡水まで暮らしへ混じってしまう。
水位棒は、水面の高さと測った時刻を同じ目盛りへ刻む、細い木の棒だ。一本を井戸壁へ立てると、桶を並べていた女がすぐ腕を伸ばした。
「また線かい。昨日は桶、今日は棒。量るたび、あたしたちの取り分が減る」
「減らす線にはしません。まず私の読み方を、間違っていると思うところまで見てください」
透明な桶へ井戸水を汲み、棒を底まで差す。濡れた高さへ炭で横線を引き、朝の鐘を示す丸を添えた。写しの棒はサーラへ渡さず、女の足元へ置く。
「次の鐘で水面が下がれば、二本とも同じだけ濡れなくなります。一方だけ線が違えば、書いた側へ聞けます」
「聞いて、それで貴族が直すのかい」
「直さなければ、違う記録がここに残ります」
女は棒を拾わなかった。
十年前にも役所が井戸へ白い印を打ち、三日後には城下行きの水路だけを太くしたという。印の意味を尋ねた者の家は、壊れた桶を弁償してもらえなかった。エリナの知らない記憶が、一本の棒より深く井戸の周りへ刺さっている。
「この棒を抜きたい時は、抜いて構いません。ただ、抜いた時刻にも印を残してください。測れなかったことまで、こちらの都合で埋めません」
柵の脇で、昨夜の少年が首を傾げた。痩せた裸足の爪先が、石の隙間から流れる細い水を避けている。
「丸ばっかりだと、夜の人は間違えるよ。黒と赤にした方が見える」
「配水表の色を知っているのですか」
「見てた。黒が城の中で、赤がこっち。白い傷は病気の桶」
少年はニルと名乗った。水汲みの順を待つ間、流入口の音まで数えていたらしい。
エリナは赤と黒に染めた紐を棒の上端へ結んだ。文字の読めない子にも時刻を残せるよう、鐘一つなら結び目を一つ、二つなら二つ作る。
「水面がここより上なら、どちらの紐を結びますか」
「赤。こっちの朝の分だから」
「泡が残っていたら?」
「白い布を結ぶ。病気の桶と同じ」
答えを聞いた大人たちが、少しだけ近づいた。だが名前を書く話になると、また距離が開く。以前の調査でも、名を出した家から先に配水を削られたという。
観測印は、測った人の印だ。場所と時刻の横に置けば、発見を誰かの手柄にすり替えられない。エリナは公爵家の紋を出さず、自分の欄へ雨粒を三つ描いた。
「印は絵でも構いません。同じ人だと分かればよいのです」
ニルは棒の端へ、尾の曲がった魚を描いた。
「魚に見えるかい、それ」
サーラが覗き込み、少年はむっとする。
「水路のネズミ」
「そっちの方が難しいね」
初めて笑いが起きた。桶を待つ女が炭を取り、欠けた櫛の形を隣へ刻む。
次の鐘まで待つと、二本の濡れ跡は指一本ぶん下がった。ニルが赤い紐の結び目を増やし、女が地区に残す棒へ同じ線を引く。エリナは自分の紙へ二人の印を写し、その下にだけ公爵家測定分の欄を作った。
その朝に増えた観測印は、二つだけだった。
◇
四日後の午後、エリナはニルと住民当番を連れ、分水路沿いの水位棒を巡っていた。
毎日同じ時刻に水面、色、泡を残す。汚染水が入る場所を絞るには、退屈な欄ほど欠かせない。けれど七本目ともなると、子どもたちは棒より水切り石を探し始めていた。
当番の老婆は、昼食代わりの干し無花果を四つに割った。一つを受け取ったニルは種だけ先に噛み、甘いところを最後まで残す。エリナも真似をしてみたが、指が青い紐へ触れ、果肉に炭が付いた。
「今日は泡なし。昨日もなし。ここ、もう要らないんじゃない?」
「何もない日も、同じように――」
言いかけて、ニルが先へ走った。サーラが昨夜打ったばかりの棒へ耳を寄せている。
「ここの音、昼の鐘のあとだけ汚い」
水音に汚いもきれいもあるのだろうか。そう思った自分が、昔の評定の人々と同じ顔をしている気がして、エリナは口を閉じた。
「どんなふうに聞こえますか」
「朝は、さらさら。今は、ぶつぶつ」
棒を抜かず、水面へ白い布を浮かべる。細かな泡が布の端へ集まり、指で潰してもまた現れた。藻に絡んでいたのは、空の色より濃い青い糸くずだ。
前の六地点にはない。時刻は、染料工房が午後の染め桶を洗う頃と重なる。
「この印は、誰が付けますか」
「ぼくが見つけた」
「では、ニルの魚を。時刻と泡と、青い糸も一緒に残してください」
公爵家の測定欄は、その下へ置いた。ニルが炭を握る間、当番の女が青い糸くずを布ごと瓶へ入れる。
上流へ行くにつれ、泡は厚くなった。泡の薄青い輪を追い、エリナは工房の石塀まで上がった。
◇
夕方の染料工房では、煮立った藍の匂いが喉の奥へ残った。
エリナたちは、泡が増える時刻と排水口を確かめるために来た。ここで流入元を特定できなければ、飲用停止の井戸も公開配水表も、原因の分からない不信に押し戻される。
中庭では六人の職人が染め布を竿へ渡し、滴を受ける溝だけを避けて素早く歩いている。手を止めれば布に色むらが出るらしい。調査の間にも、明日の給金になる布は冷えていく。
「うちの排水は桶二杯に川水十杯で薄めている」
工房主は生産帳を閉じたまま、排水溝の前へ立った。
「町じゅうの汚れを、働いている工房一軒へ押しつける気か」
「決めるためではありません。同じ時刻に同じ泡が出るか、確かめに来ました」
「貴族の帳面は、最初から答えが書いてある」
サーラが袖をまくった。
「なら、あんたの帳面を開きな。水は肩書きを読まないよ」
工房主は鼻を鳴らしたが、職人たちの前では洗い時刻まで隠せなかった。午後の鐘の半刻後。ニルの魚印が並ぶ刻みと重なる。
生産帳には、藍布十八枚を洗った日だけ排水の桶数が多い。魚印は、その日ごとに一つ濃くなっていた。休業日には泡が消えている。エリナは三日分だけを指で押さえ、工房主にも同じ順で見せた。
排水口の石を一枚外す。内側の目地に、瓶へ入れたものと同じ青い糸が挟まっていた。白布を水へ浸すと、縁に細かな泡が残る。
「薄めている。規則どおりだ」
「薄くても、毎日同じ刻に地下へ入れば、井戸に残ります」
「止めろと言うなら、明日からこいつらのパンも止まるぞ」
後ろで職人のひとりがニルの襟をつかんだ。
「仕事場へ来るなと言っただろう」
「母ちゃんの工房だって知らなかったんだよ。水の音を追っただけだ」
女の指は青く染まり、節に細かなひびが入っていた。ニルの手から水位棒を奪いかけ、魚の印を見て止まる。
エリナは生産帳の隣へ住民の記録を置いた。
「最初に異常を見つけた記録として、ニルの印を正式資料へ残します。工房の停止と、働く方の明日の暮らしは、同時に決める必要があります」
「きれいごとで給金は出ない」
工房主は帳面を閉じた。理解した顔など、少しもしていない。
それでも排水口にはサーラが封印縄を張り、当番の女が泡の瓶を抱えた。貴族の測定紙より上に、尾の曲がった魚が並んでいる。
ニルは水位棒を母親へ差し出した。
「これを抜いたら、明日の水が分からなくなる」
青い指は棒を受け取ったが、魚の印を親指で隠した。
「明日の水より先に、明日のパンを持っておいで」
工房の窯は、まだ熱かった。




