第6話 違法な一滴
水時計の砂が落ち切っても、桶は縁まで満たなかった。
夜明け前、エリナは旧水路の点検口で、黒い流れを見下ろしていた。隣ではサーラが桶を引き上げている。昨夜見つけたのは、貧民区へ水を送る許可外の分水路だ。新しく掘った井戸は飲めず、ここを塞げば貧民区が朝から乾く。隠したままなら城下の配水を正しく測れず、サーラも処罰を免れない。
夜が明けるまでに、どちらも切らない案を作らなければならなかった。
「思ったより細いね」
桶の水を量り枡へ移したサーラが、空いた底を爪で弾く。乾いた音が石壁に返った。
エリナは細く裂いた葦紙へ、いまの量を黒い線で記した。城下側は黒、分水路の先は赤。桶一杯ごとに線を足してきたのに、両方の朝の最低量を並べると、まだ足りない。
「昼間は、ほとんど同じ太さです。夜半だけ増えています」
「皆が寝て、汲まなくなるからさ」
灯りを上げると、点検口の石壁に薄い濡れ跡が見えた。いまの水面より、手の幅ほど高い。水は夜だけ余り、受ける場所がないまま流れ去っている。
「この高さまで、夜に貯められますか」
「昔の洗い槽なら使える。けど朝まで溜めりゃ、役所にも貧民区にも隠せないよ」
「隠さずに使います。夜に共同槽へ貯め、朝の最低量を先に分けます」
サーラは濡れた綱を杭へ巻いた。袖をまくった腕に、水滴が黒い筋を作る。
「公爵へ見せる表から、あたしの名前を消すんじゃないよ。善意でやった可哀想な技師にされちゃ、次に同じことをした奴が困る」
「消しません。許可を取らずに分けたことも、その理由も、測った量も書きます」
「なら、あんたの名前もだ」
「はい」
赤と黒の線の下へ、二人分の名を書いた。
秘密を守るための紙だったはずが、これで人前へ出すほかなくなった。流れは細い。紙一枚の上でさえ、城下と貧民区を十分に潤すほどには増えない。
「朝の分を両方へ渡せるのは、うまく溜まった時だけです」
「うまくいかなきゃ?」
「今夜のうちに、全員の前で失敗します」
「景気のいい初仕事だね」
サーラは鼻で笑い、点検口の蓋を閉めた。
◇
正午の公開協議所には、窓から白い熱が差し込んでいた。
中央の卓を挟み、城下の代表と貧民区の代表が向き合っている。エリナは二つの空桶の間へ葦紙を置いた。カイルとサーラはその両脇に立ち、役所の書記が壁際で筆を構えている。
「違法な水路なら、先に塞ぐべきです」
城下の役人が、赤い線を指した。
「北井戸は昨日も底を見せた。何年も盗まれていた水を戻すだけでしょう」
「戻した朝に、こっちは子どもの飲み水がなくなる」
貧民区の代表は椅子へ座らなかった。作業着の肩に石粉が残り、卓へ置いた手も開かない。
「城壁の内側は二つの井戸を使える。こっちは、この一本だけだ」
「その一本は許可されていない」
「許可を待って乾けっていうのか」
言葉が重なるたび、卓の桶が軽く見えた。エリナは止めずに聞いた。どちらにも、譲れば最初に困る家がある。正しさを一つ選んでも、水量は増えない。
「城下で、朝までに必要な最低量を教えてください」
「封鎖の話をしているのです」
「封鎖した後も、飲む量は要ります」
役人は口を結んだ。やがて、共同炊事場と施療所、井戸まで歩けない家の分を一つずつ挙げた。エリナは黒い線の横へ小さな印を置く。
貧民区の代表にも顔を向ける。
「そちらは」
「数を言えば、それだけ残すと信じろと?」
「信じなくて構いません。同じ桶で、双方が測ります」
しばらくして、共同竈、夜勤明けの職人、乳児のいる家の分が返った。赤い線の横にも印が並ぶ。
双方の最低量を足すと、昼の流れだけでは桶二つぶん足りない。夜半の濡れ跡まで共同槽へ受ければ、その不足を埋め、緊急用の一桶も残せる。
「夜間貯水です。使う人が減る夜に共同槽へ貯め、朝に最低量を先に分けます。三日間だけ、試させてください」
「誰が鍵を持つ」
「片方だけには渡しません。両地区の当番とサーラさん。開けた時刻と桶数は、その場で同じ葦紙へ書きます」
「書き換えられたら?」
「翌朝、ここへ掲示します。流量、配水した時刻、扱った人を誰でも確かめられる公開配水表にします」
役人はなおも赤線を睨んでいた。
「違法行為を表にして、公爵家が認めるのですか」
カイルが手袋を外した。
「サーラが全経路と過去の記録を申告するなら、これまでの分水は処罰しない。今後は試行中の配水として私が責任者になる」
「恩赦なら要らないよ」
サーラが遮った。
「やったことを無かったことにするな。許可を取らずに流した。城下が乾いた分まで、きれいな話にするんじゃない」
「記録には残す。処罰だけを目的にせず、なぜ必要になったかも公開する」
「公爵の施しと書くのもなしだ」
「同意する」
カイルは紺色のインクで署名した。ただし役人も、貧民区の代表も、まだ筆を取らない。
「三夜だけだ」
先に言ったのは城下側だった。
「北井戸がさらに下がれば中止を求めます」
「見張りを城下だけに置かないなら、こっちも出す」
貧民区の代表が椅子を引き、ようやく腰を下ろした。
「病人が出た時の一桶まで盗み扱いにはさせない」
「緊急使用として、別の印を作ります。使った理由と量は隠しません」
二人は互いを見なかった。それでも、それぞれが削れない最低量を同じ葦紙へ書き込んだ。
不信が合意より先に、公開配水表へ載る。空欄よりは、ずっと扱いやすい。
◇
夕刻、古い洗い槽へ最初の水が入り始めた。
共同貯水槽として使うため、槽の内側には色の違う目盛り縄が二本下がっている。黒は城下、赤は貧民区。双方の当番が向かい合い、桶が満ちるたび葦紙へ線を足していく。
エリナは水音を聞きながら、点検口と槽の間を往復した。朝から口にしたのは硬いパン半分だけだと、サーラに干し果物を押しつけられてから気づいた。甘みは薄かったが、種の周りだけ妙においしい。
一つ目の鐘の後、赤い目盛りが予定より下がった。
「誰か汲んだね」
サーラの声から皮肉が消える。
貧民区の当番が、葦紙を握ったまま黙った。背後で若い母親が桶を抱えている。
「子どもが熱を出した。朝まで待てなかったんだ」
城下の当番が眉を上げる。
「初日から隠すのか」
「隠してない。ここにいる」
また声が重なりかけた。エリナは母親の桶を取り上げず、葦紙の端へ白い刻みを一つ入れた。
「緊急使用、一桶。理由は発熱。残りをもう一度測ります」
「使えば、その分は減る」
「減ったことを表に残せます。黙って消えるより、次の当番が備えられます」
サーラが流入口へ耳を寄せた。
「夜半の増え方が続けば、両方の朝分には届く。余りはなくなるけどね」
城下の当番は納得した顔をしなかった。白い刻みを数え、黒い縄の位置を自分で確かめた。
「次にうちの施療所で足りなければ、同じ印を使う」
「同じ理由と量を書くなら」
貧民区の代表が答えた。仲直りにはほど遠い。それでも、母親は桶を隠さず持ち帰った。
夜が深くなるにつれ、槽の水面はゆっくり二本の目盛りへ近づいた。最後の桶を入れた時、黒も赤も朝の線を越えていた。余裕は、柄杓の底ほどしかない。
当番たちは葦紙を回し、桶数と時刻を自分の目で照らし合わせた。サーラの手を待たず、次の鐘の欄まで引いている。
そこへ城の通商書記が、故国から届いた祝祭報告を持ってきた。交易路の水と橋の状態を各地から集める役目の書記で、配水試行が始まったと聞き、関連する紙を選んだらしい。
「ヴァルクール領は三日続けて晴天。祝祭は予定どおり、とあります」
紙を受け取る。見慣れた様式だった。日付、雲量、上流水位、下流への警告。以前なら、夜明け前にエリナが埋めていた欄だ。
祝祭の日から、上流水位だけが空いている。
紙をめくる音が、貯水槽の水音より近く響いた。ミレーユが空を晴らしている。その上流で何が起きているか、書いた者はいない。
「故国へ戻るのですか」
カイルは答えを決めずに尋ねた。
「いいえ。今は、ここで空欄を作らない方法を残します」
明日の欄を見る。今夜の葦紙を書けるのは、まだエリナとサーラ、それに協議へ出た数人だけだ。
「配水の観測者を募ります。水位と泡と時刻を、毎日見られる方を」
当番たちは目を合わせた。貴族の調査へ名を出す怖さは、一晩の成功では消えない。誰も手を挙げなかった。
柵の外で、背の低い影が動いた。
水をもらいに来たらしい少年が、槽ではなく、手から手へ渡る葦紙を見ている。唇だけが、黒と赤の線を数えていた。




