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第5話 地図より泥

 夜明け前の薄青い光の下、城下で最も枯れた井戸の縁に、濡れた砂が一筋だけ貼りついていた。


 サーラは古地図を脇へ挟み、二度空振りした穴の前に立っている。掘り手は六人。磨かれた借り物の靴を泥へ沈めているエリナは、その輪の向こうだ。今日も外せば、残り少ない人手を丸一日失う。次の井戸を試す余裕まで、乾いた町には残っていない。


 水路技師長の仕事は、紙に勝つことでも、貴族の顔を立てることでもない。井戸壁を崩さず、掘り手を生きて地上へ戻すことだ。だから、昨夜決めた通り、いちばん性悪な穴を選んだ。


 エリナの靴紐は、城で結ばれた形のまま長すぎた。一歩ごとに金具へ触れ、泥を跳ね上げている。サーラは道具袋から切れ端の革紐を放った。


「井戸へ降りる前に縛りな。学者が転ぶと、紙より扱いが面倒だ」


「ありがとうございます。お借りします」


「返さなくていい。泥の付いた紐は、城じゃ嫌われる」


 結び直す手つきに迷いはない。少なくとも、靴を汚す許可から聞くのはやめたらしい。


「古地図じゃ、水脈は北だ。あんたはどこを掘らせる?」


 図面の角を井戸枠へ押しつける。薄い線は、城壁側へまっすぐ伸びていた。


 エリナは答えず、掘り手たちの靴を見た。ひとりずつ、踵から爪先まで。西の斜面から来た男の靴底に、細かな砂が黒く固まっている。


「その砂は、どこで付きましたか」


「荷車を回した切り株のそばです。水なんて見えませんでしたよ」


「朝露にしては、靴の内側まで残っています」


 しゃがみ込み、指で触れずに砂の粒を見比べる。それから西へ歩き、地面から半分突き出た切り株の周りを一周した。根の間には枯れ草が詰まり、一本だけ、色の濃い筋が井戸の方へ下っている。


「地図が作られた頃、この辺りには森があったのですね」


「十年前に切った。城壁の補修材になったよ」


「木があった時は、北の窪地へ水が集まったのでしょう。今は日差しで表面が固まり、雨が根の跡を通って西へ逃げています」


 役所から付いてきた男が鼻を鳴らした。


「昔の森の話で、割り当て済みの掘削点を変えるのか」


「昔の線を今も使うなら、二度の空振りを説明できません」


「なら西なら当たると?」


 エリナの視線が、切り株から井戸壁へ戻った。


「当たるとは申し上げません。北と西の土を同じ深さで採り、湿り方を比べます。西が乾いていれば、元の位置へ戻してください」


 断言で人を動かそうとはしない。逃げ道を残したのか、確かめる道を作ったのか。サーラは袖をまくった。


「細い試し穴を二本。壁を広げるのは、あたしが決める。変更を言い出した名前も残すよ」


「私の提案と記してください。施工の判断は、サーラさんのものです」


 責任を押しつけてこない。奪いもしない。


「聞いたね。北に一本、西に一本。朝飯前に終わらせな!」


 掘り手が笑い、綱と細い採土筒を運んだ。笑えるうちは、まだ手が動く。


 北の筒は、三尋を過ぎても白い粉土を吐いた。西は二尋半で茶色が濃くなり、次の一突きで筒の先へ砂がまとわりつく。


 サーラは掌へ少量を受けた。冷たい。握れば固まり、開けばゆっくり崩れる。


「地図より先に、靴が当てたか」


「靴を毎日見ている人がいたからです」


「褒めても掘り手は増えないよ」


「では、あと二人必要です。交代なしで広げると、壁を支える方が足りません」


 可愛げの代わりに、必要人数が返ってきた。


 西側へ掘り直す。滑車が鳴り、土籠が上がるたびに、乾いた色が少しずつ暗くなった。


 日が高くなると、井戸枠の影は猫一匹ぶんまで縮んだ。掘り手のひとりが腰のパンを半分に割り、残りを布へ包み直す。昼に食べ切れば、帰りの子どもへ渡す分がないのだろう。サーラは見なかったふりをして、交代を早めた。


 エリナは籠ごとの土の色を記しながら、誰が何刻井戸底にいたかも横へ書いている。土より先に人が乾けば、試し穴ごと止めるつもりらしい。


 正午近く、穴の底から短い声が飛ぶ。


「砂が崩れる! 水だ!」


 サーラは井戸枠へ腹を当て、下を覗いた。薄い筋が掘削面を伝い、砂の窪みに溜まっていく。湧き方は弱い。それでも、空だった底が光を返した。


 役人が報告紙を開く。


「出水成功。すぐ城へ――」


「待ってください」


 桶が上がり切る前に、エリナが綱を止めた。


 最初の水は薄く濁り、縁に細かな泡を残している。顔を寄せると、古い釘を濡らしたような匂いがした。


「地中に長くあった水なら、最初は濁る」


 役人が急かす。エリナはひしゃくへ一杯だけ取り、白い布へ垂らした。乾きかけた端に、灰色の輪が浮く。指で泡を潰しても、また小さく盛り上がった。


「飲用は止めます。原因が分かるまで、家畜にも回さないでください」


「水は出たんだぞ。成功報告まで止める理由がどこにある」


 エリナは返事より先に、井戸枠へ掛けてあった木札を外した。表の『出水』を伏せ、裏の『使用停止』を人の見える側へ向ける。借り物の靴が泥へ沈み、白かった革に茶色い水が染みた。


「出たことと、使えることは別です。報告には両方を書きます」


 水を当てた本人が、いちばん早く祝いを止めた。


 サーラは桶の匂いを嗅ぎ、舌打ちした。古い釘の匂いに、別の何かが混じっている。流れ込んだものが、水の腹に残っている。


「聞こえたね。井戸番を置いて、桶を下げるな。役所には『少量出水、飲用停止』。一文字も落とすんじゃないよ」


「しかし――」


「安全判断は水路技師長の仕事だ。紙が腹を壊したら、あんたが看病してやりな」


 掘り手のひとりが吹き出し、すぐ口を押さえた。


 エリナは笑わなかった。ただ木札の紐を結び直し、井戸番が勝手に表へ返せない長さか確かめている。手柄を取る貴族なら見てきた。失敗を下へ押しつける学者も、数え切れない。


 この女は、見つけた水の前に自分の名を置き、使えない理由まで残そうとしていた。



 夕方、サーラは作業の終わった井戸からエリナだけを連れ出した。


 城壁沿いの旧水路は、表向き何年も前に閉じたことになっている。崩れた石段を下りると、冷えた空気が袖の中へ入った。エリナは灯りを低く持ち、足元の継ぎ目を一つずつ避ける。


「汚染の心当たりがあるのですか」


「ない。けど、使える水なら別にある」


 突き当たりの石蓋には、工具の跡が新しく残っていた。サーラが鉄梃を差し込むと、下から細い水音が近づく。


 許可を得ず貧民区へ水を送る、違法分水路。見つかれば処罰の理由になり、塞げば明日の朝から人が乾く。だから何年も、名前を付けずに守ってきた。


 蓋を半分ずらす。黒い流れが、城下の井戸とは反対へ走っている。


「これを閉じれば、上の井戸は少し戻る。役所が知れば、今夜にでも石で埋めるだろうね」


「この先には、何人いますか」


「まず罪を聞かないのかい」


「流量と、必要な生活水を先に知りたいです。閉じるかどうかは、その後でなければ決められません」


「決めるのは公爵だ」


「では、カイル閣下が決められる記録を作ります。夜と朝で、どれだけ変わるか測らせてください」


 告発もしない。見逃すとも言わない。サーラには、その答えがいちばん面倒で、いちばんましに聞こえた。


 古地図を石蓋の上へ広げる。公認の水路線は城下で途切れ、その先は何もない白地だった。サーラは灯りの煤を親指へ取り、実際の流れに沿って細い線を引いた。最後に貧民区の共同井戸へ小さな丸を置く。


「これを描いたのは、あたしだ。消すなら、あたしの前で消しな」


 エリナは地図を取り上げず、煤が乾くまで両端を押さえた。


「写しを二部作ります。一部はサーラさんに。測定値も同じものを残します」


「隠し水路に、ずいぶん真面目な帳面だね」


「隠したままでは、守る量も分かりません」


 鉄梃を抜き、代わりに水音を測る細い棒を渡す。


「夜明けまで付き合いな、エリナ。水は書類を待っちゃくれない」


 受け取った手は、泥で汚れたままだった。


 石蓋の下で、見つかった水より太い流れが、貧民区の方へ走っていた。

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