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第4話 雨を降らせない雨読み

「雨を降らせることは、できません」


 鉄砲水を止めた翌朝、アルヴェーン城の給水広間には、乾いた朝日が差し込んでいた。エリナは一滴も入っていない石の水盤の前に立ち、包帯の残る右手で鞄を抱えている。隣にはカイル、向かいには重臣と町の代表たち。昨夜結んだ短期雇用を続けるには、彼らが待っている奇跡を、最初に断らなければならなかった。


 広間に並ぶ素焼きの杯は、どれも伏せられていた。水を注げない器を飾り、雨を呼ぶ聖女を迎える。それほど、この領の喉は乾いている。


 昨日、カイルは三つの兆しを確かめて避難を命じ、外れた時の責任まで引き受けた。その後にエリナが選んだ短期雇用には、期限と給金、途中で断る権利がある。故国で無給の雨読みだった頃には、一つも与えられなかった条件だ。


「では、鉄砲水を止めたのは……」


 前列で胸元に指を組んだ女は井戸番なのだろう、袖口には白い塩の筋が残っている。


「止めたのは避難です。雨ではありません。上流の泥と鳥と雷を見て、届く時刻を読みました」


「空を晴らす祝福があるなら、降らせる祝福もあるでしょう」


 重臣の一人が示した卓上の条件書には、太い字で「期待成果・降雨」と記され、その下には三日後の日付まで入っていた。


「魔力は、すでにある雨や風を強められます。無い雨を作ることはできません」


 ざわめきが水のない水盤を囲んだ。


 ここで曖昧に笑えば、寝台も食事も仕事も失わずに済むかもしれない。降るはずのない雨を待たせれば、浅くなった井戸へ向かう足が鈍り、空の杯を持つ人たちに、できない約束まで握らせることになる。


「私にできるのは、井戸の深さと土の湿り方、風が運ぶ水分を見て、水がどこへ移っているかを確かめることです。飲める水かどうかも、汲んだ後に調べます」


「それで、いつ雨が降る」


「分からないことを、分かるとは申し上げません」


 声が硬くなる。包帯の縁が鞄にこすれ、痛みが指の付け根を走る。


 カイルは重臣たちではなく、並んだ町の代表へ顔を向けた。


「彼女が言った仕事で、知りたいことはあるか」


 先ほどの井戸番が、伏せられた杯を一つ起こした。


「北井戸を深くすればよいのか、別を掘るのか。それが分かるなら聞きたいです。もう、二度も空振りしています」


「空振りした場所も書き残します。調べる目と耳は、一人分では足りません」


 歓迎のざわめきが低い相談の声へ変わり、町の者たちは井戸をどう調べるか、互いの袖を引きながら話し始めた。


 異論は残っている。条件書を持つ財務官は、約束の日付を指で押さえたままだった。


「執務室で詰めましょう。期限は動かせません」


「必要な条件が揃わなければ、期限だけあっても判断できません」


 広間の入口が朝より遠く見え、追い出されるなら、今度は自分が何を断ったかを残してからにしたかった。



 昼の執務室では、開いた窓から熱い風が入っていた。


 エリナはカイルと財務官の向かいに座り、条件書を最初の行から読み直している。窓辺の水差しには布が掛けられ、客が三人いても杯は二つしか置かれていなかった。自分の分を辞退しかけたが、カイルが先に水差しを中央へ動かした。


「半杯ずつだ。この部屋だけ規則を変えるつもりはない」


 乾いた冗談なのか本気なのか迷いながら差し出された杯を受け取り、一口で飲み終えないようにすると、水の温度ばかりよく分かった。


「必要なものを挙げてくれ」


「過去の井戸台帳、土を採る許可、朝夕の風向を測る場所。それから、水路技師と現地の井戸番を観測隊へ入れてください」


 財務官の筆が止まった。


「外部の者を増やせば情報が乱れます。あなたが雨読みなら、あなたが結論を出せばよい」


「技師には崩れる壁の音が聞き分けられ、井戸番は水が浅くなる時刻を毎日見ています。私一人では、どちらも取りこぼします」


「では三日で結果を。民には公爵家が雨読みを得たと、すでに触れを出しました」


「その日までに出せるのは、観測を始める場所と手順です。水が出るとは書けません」


「雨を降らせない。井戸も当てると約束しない。それで雇う理由がどこにあります」


 石切場の道具小屋より、椅子は柔らかい。逃げる足を鈍らせるには十分だった。


 条件書を手元へ引き寄せ、乾ききっていない「降雨」の文字へ横線を引くと、筆先が紙の繊維に引っかかった。


「ここを、『現地観測と、根拠を付した報告』へ変えてください」


 財務官の眉間が狭くなる。


「役に立たないと分かった時は、契約を終えてください。私も、続けられない時は断ります。できないことを隠した給金は受け取れません」


 新しい寝台。温かい食事。国境までの帰路。線を一本引く間に、昨日得たものが頭をよぎった。


 それでも、筆を戻さなかった。


「依頼したのは奇跡ではない。判断だ」


 カイルの声が、窓から入る風を止めた。


「期限内の成果は調査計画と最初の観測記録にする。水脈の発見日を先に決める文言は削れ。必要人員、水質確認、公表前に本人が記録を確かめる権利も入れる」


「閣下。結果を約束しない契約へ、予算評議が通るとお考えですか」


「約束する結果はある。外れを隠さない記録だ。反対理由も議事録へ残してくれ。評議には私が説明する」


 財務官は眉間を狭めたまま、日付の横へ小さく「計画提出」と書き足し、新しい紙を二枚求める。


 カイルは空欄の人員欄へ書き込まず、候補名簿を裏返してエリナの側へ置いた。


「技師候補はこの中にいる。現地の者とは君が直接話せ」


「公爵家のご指定は?」


 その頃には、カイルの視線は財務官へ戻っていた。


「使える人員の上限だけ伝える。誰と調べるかまで私が決めれば、君の記録にならない」


 礼を言うまでに間ができた。褒められた後の仕事なら構えられる。名簿を自分の側へ置かれた後に、何を返せばよいのかはまだ分からない。


 二部の条件書へ同じ文が写された。期限、業務、給金、途中で断る権利。観測隊の欄だけは、夕方まで空けておく。


 紙を折ると、一本の線だったものが、ようやく境界になった。



 夕方の水路工房は、油と鉄錆の匂いがする。


 壁には大きさの違う滑車が掛かり、作業台には井戸の断面図と採土匙が並ぶ中、エリナは革筒に収めた条件書を抱え、カイルの半歩後ろから入った。城で貸された靴は磨かれすぎていて、床の土埃へ白い跡を引いている。


「その靴で、井戸の底まで降りる気かい」


 作業台の向こうで、女が採土匙を砥石へ当てていた。


 サーラ・ミーク。水路と井戸の施工、安全判断を預かる水路技師長だ。短く切った髪には石粉が付き、袖を肘までまくった腕には古い傷が何本も走っている。


「替えの靴が必要なら、お借りします」


「借りた靴を汚す許可から取るのか。ずいぶん丁寧な仕事だね」


「サーラ」


 カイルが低く呼ぶ。


「公爵は黙ってな。あたしを選ぶ条件を出したのは、このお嬢さんだろう」


 皮肉は消えなかった。追い払う気も、まだないらしい。


「はい。古い水路を知る技師と、毎日井戸を使う方が必要です」


「古地図なら、あたしの頭にも入ってる。あんたの雨帳と、どっちが偉い?」


「今の泥と合う方です」


 砥石の音が止まった。


「地図と現場が違えば?」


「切り株、土の硬さ、湿り方を見ます。水は、昔の線を守って流れるとは限りません」


 サーラは採土匙の刃を布で拭き、エリナの靴先から顔まで見上げた。


「口だけなら、泥は付かない」


「明日、確かめてください」


「明日?」


「条件書の観測を始めます。最初の井戸を選んでください」


 カイルが工房の出口へ下がり、作業台とエリナの間が空いた。貸し靴の白い跡は、サーラの砥石の前までまっすぐ伸びている。


 サーラは壁の地図へ採土匙の柄を当てた。城下の西端、井戸の印が薄く擦れた場所だった。


「なら、いちばん枯れた井戸からだ。二度掘って、二度とも乾いた。外せば残りの掘り手を一日失う」


「承知しました」


「まだ仲間とは呼ばないよ」


「呼ばれなくても、測れます」


 サーラの片方の口角が、ほんの少し上がった。


「夜明け前に来な。古地図も持ってくる。紙が正しいか、泥が正しいか、両方並べてやる」


 エリナは磨かれた靴の白い跡を見下ろした。


「汚してよい靴も持ってきます」


「それは持ってくるんじゃない。履いてきな」


 採土匙が作業台へ置かれた。


 明日の最初の一掘りは、城下で最も枯れた井戸に決まった。

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