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第3話 鉄砲水

 先行車の鈴が、橋の青い旗の下へ消えた。


 昼の白い光の中、エリナは橋手前の街道で鞄を抱えていた。職も家も失い、私物の雨帳一冊だけを持つ旅人になったばかりだ。国境行きの馬車を降り、赤泥、水鳥、遠雷が知らせる上流豪雨を公爵家の先触れへ伝えた。次の鐘までに隊商と乗合馬車を石切場跡へ上げなければ、橋の上の馬車ごと鉄砲水に呑まれる。走ってきた喉が、まだひりついていた。


 黒馬が土を蹴り上げて止まった。


 先触れの騎手が道を譲る。馬上の男は濃紺の外套を払い、泥を確かめた従者へ手を差し出した。返された手袋の指先には、北道から運ばれた赤砂が付いている。


「カイル閣下。こちらが警告した者です」


 カイル・アルヴェーン。慢性的な干ばつに苦しむ隣国領を治める公爵本人が、エリナではなく、まず赤泥を見た。


「兆しは三つと聞いた。私が確かめられる順に話してくれ」


 笑われなかったことに驚くより、先行車の鈴の方が近い。


「北道を通った車軸の奥に、湿った赤砂が残っています。水鳥は川筋を離れ、麦畑より高く逃げました。雷は北から近づき、間隔が短くなっています」


「泥が運ばれた時刻は」


「昨夜より後です。表面だけ乾き、中はまだ冷たい。上流の水は、遅くとも次の鐘までにここへ届きます」


 カイルは橋へ続く坂と、左手の石切場跡を見比べた。出口、人数、最も遅い車。視線がその順で動く。


「高台はあそこか」


「はい。切り出し道なら荷車も上がれます。ただ、橋へ入った先頭をすぐ戻してください」


 隊商の荷主らしい男が、馬車の陰から進み出た。


「閣下、橋を止めれば国境市に間に合いません。水はいつもどおりです。余所者の言葉一つで、荷を腐らせるおつもりですか」


「言葉一つではありません。三つの兆候です」


 声が硬くなり、鞄の中で雨帳の留め具が爪に触れた。出せば過去の記録を示せる。けれど、今から頁を繰っている時間はない。


 カイルが馬を降りた。手袋を外し、乾いた街道へ片膝をつく。従者の指先から赤泥を取り、割れ目の中を親指で押した。


「冷たいな」


 立ち上がると、橋へ向かう伝令へ腕を上げた。


「全車停止。先頭を戻し、石切場跡へ退避。橋の両端に綱を張れ」


「閣下」


 荷主がなおも食い下がる。


「避難命令は私が出す。外れた時に責められるのも私だ。失う運賃は公爵家が補償する。人を水へ置いて稼ぐ予定までは守らない」


 低い声が街道を渡った。


 伝令の馬が一斉に向きを変える。護衛が荷車から長い綱を下ろし、道の両側へ走った。信じるかどうかを争う時間が、動くための時間に変わっていく。


 エリナは橋の青旗を見た。鈴が止まった。



 石切場跡へ続く坂は、見た目より急だった。


 乾いた石灰の粉が靴を白くし、車輪が一度滑るたび、後ろの馬車まで詰まる。護衛たちは街道を塞いだ綱の片端を外し、斜面へ渡して手摺り代わりにしていた。人の手を経るうち、川辺を引きずった先端だけが重く濡れていく。


「歩ける方は右へ。荷車に乗るのは子どもと、足を痛めた方だけにしてください」


 声を掛けながら、低地に残る頭を数えた。


 乗合馬車の男の子が母親の手を引き、青い旗を振り返っている。朝に半分もらった干し杏の味が、ふいに舌へ戻った。


「橋、なくなるの?」


「なくならないように止まりました。今は、お母様と綱を持って上へ」


 言い切れなかった。橋はなくなるかもしれない。ただ、少年まで水へ消える予定は、もう変えられる。


 母親が唇を結び、綱を握った。


「あなたも来るのよね」


「全員上がったら、すぐに」


 約束をしてから、残りを数え直す。護衛が二人、御者が一人、荷主と、その荷車を引く栗毛の牝馬。


 牝馬は濡れた綱の匂いを嫌い、白目を見せて後ずさっていた。荷主が手綱を引くほど、荷台の樽が揺れる。


「酒樽だ。ここで捨てたら冬の稼ぎが消える!」


「樽は補償する」


 斜面を下りてきたカイルが言った。


「補償で同じ仕込みが戻るものか」


 荷主は手を離さない。水より、積み重ねた季節を守ろうとしている。それを臆病とは呼べなかった。


 エリナは荷台の下へ目をやった。右の車輪が轍へ沈み、軸が坂と逆へ傾いている。このまま馬だけ引けば、樽が谷側へ崩れる。


「綱を荷台の後ろへ回してください。上から引けば車輪が浮きます。樽も捨てずに済みます」


 カイルは護衛へ合図した。


「四人、上へ。荷主は馬の目を隠せ。私は車輪を見る」


「閣下が残る必要は」


「命じた者が最後を見ないで、どこで責任を負う」


 言いながら袖をまくった。乾いた冗談を言う余裕まではないらしい。


 綱が張る。濡れた麻が掌へ食い込み、石灰粉の上に褐色の筋を引いた。荷車が軋み、右の車輪が轍から外れる。牝馬が一歩、二歩と坂を上がった。


 その時、川の音が低くなった。


 川筋そのものが一度黙った。遠くで大きな扉が閉まるような間のあと、地面の下から重い響きが返ってくる。


「来ます。綱を放して、上へ!」


 荷主が樽へ振り返った。


「走ってください!」


 エリナの声より先に、カイルが男の肩を押した。護衛が牝馬の手綱を取り、最後の荷車を石切場の平場へ引き上げる。


 足元の小石が震えた。


 皆が高台へ入ったことを確かめる。男の子。母親。老夫婦。御者。護衛。荷主。カイル。


「全員、上がっています」


 言葉にした途端、坂の下で青い旗が倒れた。


 泥水は波の形をしていなかった。枝と石と上流の土を抱えた厚い壁が、橋脚へ横からぶつかった。乾いた木が裂ける音が一つ。続いて、石同士が噛み潰される音。


 橋の中央が沈み、先ほどまで馬車が通っていた道が濁流の下へ折れた。


 誰も、その上にはいなかった。


 歓声は上がらない。荷主が座り込み、牝馬の首へ額を押しつけた。母親は男の子の顔を自分の外套で隠している。助かったと理解するには、流れていくものが大きすぎた。


 エリナの掌から、綱がゆっくり滑り落ちた。


 爪の付け根に麻の繊維が残り、皮膚が赤く擦れている。寒くないのに、靴の中の指先だけが冷たかった。


「雨読み様が、奇跡を」


 誰かの声がした。


「奇跡ではありません」


 振り向くと、思ったより近くにカイルがいた。濡れた外套の裾から、石灰まじりの水が落ちている。


「彼女が三つの兆しを見つけ、私たちが間に合ううちに動いた。その結果だ」


 それから初めて、エリナへ視線を向けた。


「右手を見せてくれ」


「記録でしたら、時刻をすぐに」


「雨帳ではない。手だ」


 開きかけた鞄から、指を離した。



 夕方、石切場の道具小屋が仮の休憩所になった。


 壁際の炉には小さな火が入り、濡れた外套が梁から下がっている。エリナは木箱へ腰掛け、薬草を浸した布を掌へ巻かれていた。苦い匂いの茶は、侯爵邸で出たどの茶より薄い。それでも両手で持つと、揺れが少しずつ器へ移っていった。


 向かいの箱へ座ったカイルは、先ほどまで救助人数と迂回路を確認していた。公爵と知ってから見れば、粗末な小屋には不釣り合いな服だ。泥の付いた長靴だけは、他の誰より入口に近い。


「まず、雨帳の記録を見せてもらえるだろうか」


 来た。


 指先が布の下で固くなる。


「どの範囲をお求めですか」


「今日の時刻と兆しだけだ。写しを作る間、君の目の前で扱う。断っても構わない」


 カイルは手を差し出さなかった。


「雨帳は君の所有物だと、先触れから聞いている」


 鞄を膝へ載せ、留め具を外した。今日の頁を開き、机代わりの木箱へ置く。カイルは勝手にめくらず、赤泥を見た時刻、水鳥が上がった方角、雷の間隔を一つずつ指で追った。


「この領では、井戸が年ごとに浅くなる。雨を降らせる者を探せという声は多い。だが今日、私たちを救ったのは降雨ではなく、君の見方だった」


「私は雨を作れません」


「作ってほしいとは言わない。井戸と土と風を見て、何が起きているか教えてほしい」


 褒め言葉の次に仕事が来る。やはり、と思った自分を責める前に、カイルが続けた。


「期限を区切る。業務と給金を記し、途中で断る権利を君に置く。終われば国境までの馬車も用意する。今日失った席の代わりにはならないが、帰路は私が保証する」


「口頭だけでは、お受けできません」


 敬語が硬くなった。追い出されるなら、今の方がよい。


 カイルは眉を上げ、それから小さくうなずいた。


「もっともだ。書記を呼ぶ。ほかに必要な条件は?」


 問い返され、答えが遅れた。


 期限。業務。給金。断る権利。帰路。これまで欲しいと言えば、わがままと呼ばれたものが、最初から条件の席に並んでいる。


「観測の記録は、私にも同じものを残してください。成果を公表する時は、外れた記録も消さないでください」


「記録は双方に一部ずつ。公表前に君が内容を確かめる。外れも残す」


「それから、継続するかは、短期の調査が終わってから改めて選びます」


「私も同じ時に選ぶ。双方が、だ」


 乾いた言い方に、ほんの少しだけ息が抜けた。


 書記が運んできた紙には、まだ空欄が多かった。カイルは埋める順をエリナへ渡し、急かさなかった。最後の行まで読み、帰路保証の文言へ自分で一語を足してから、署名した。


 短期雇用。期限と仕事を区切り、終わった時に互いが継続を選び直す契約だ。


 紙を閉じても、雨帳は膝の上に残っている。


 小屋の外では、橋を失った車列が二つに組み替えられていた。国境へ戻る者と、南東のアルヴェーン領へ向かう者。エリナは後者の馬車へ自分の鞄を載せた。



 日が傾く頃、車列は乾いた領道へ向きを変えた。


 丘を越えた先の水場には「一人一杯」と書かれた札が立ち、木の水槽は底まで空だった。柄杓だけが風に押され、縁へ軽い音を立てている。


 待っていた人々の一人が、公爵家の旗を見つけた。次に、馬車の窓辺にいるエリナへ目を留める。


「雨読みの方だ」


「鉄砲水を止めた方ですって」


「これで、雨が来るの?」


 期待を含んだ声が、乾いた道を追ってきた。


 エリナは鞄の中の雨帳へ触れなかった。


 最初に伝えるべき言葉は、もう決まっている。


 雨は、作れません。

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