第2話 権限のない警告
「追手なら、次の宿場で降りてもらうよ」
灰色の朝、国境へ向かう乗合馬車の御者台から声が落ちてきた。エリナは箱内のいちばん奥、進行方向を見られる席に座っている。向かいには幼い男の子と母親、その隣に籠を抱いた老夫婦。夜通し揺られた腰は重く、外で馬蹄が鳴るたび、肩が先に強張った。
「申し訳ありません。追手ではありません」
窓の外を駆け抜けたのは、牛乳缶を下げた荷馬で、銀色の缶が朝の光を跳ね返しながら街道の先へ小さくなっていった。
息を吐いてから、膝の上の硬いパンを割った。誰にも起こされず、今日の予定を命じられない朝は初めてだった。昨日、父とトリスタンは洪水の警告を退けた。婚約も雨読みの役目も返し、私物の雨帳一冊だけを持って屋敷を出た。
戻らない。その判断は変わらない。
パンは端が欠け、塩味が強かった。侯爵邸なら朝食の皿には乗らない出来だろう。それでも、空腹だから食べるという理由だけで口にできる。給仕の鐘も、食卓での席順もなかった。
けれど、身体はまだ屋敷の中にいるつもりらしい。次に何をするべきか探して、窓の外を見回してしまう。
馬車が大きく跳ねた。
「車輪を見てくる。ここで待ってな」
御者が手綱を引き、ぬかるみもない道端で車を止めた。鉄輪に挟まった塊を小刀の背でこそげる。落ちた泥が踏み板で割れ、赤い砂粒を覗かせた。
この街道の土は乾けば黄白色になり、赤砂が出るのは北の上流を回る道だけだ。
「昨日は北道を通りましたか」
「いや。あっちから来た荷車と宿場で車輪を替えた。軸ごとな」
御者は泥を靴で払った。表面は乾いているのに、割れ目の内側はまだ黒く湿っている。
エリナは鞄の口金へ手を置いた。中には雨帳がある。開けば時刻を書き、粒の大きさを比べ、次の観測を探すことになる。
今日は、何も読まなくていい。
窓の外では、朝市へ向かう荷車に青菜が積まれ、荷台の隅で白い鶏が眠っていた。天気と関係のないものを見ようとすると、今度は鶏の羽が風に逆立つ向きまで目に入ってしまう。
そう決めたはずなのに、赤い粒は踏み板に残ったままだった。
◇
昼前の休憩所は、低い川を見下ろす丘にあった。
馬車は柵のそばに止まり、乗客たちは硬くなった足を伸ばしている。雲は薄く、日の光は白い。エリナは井戸端から少し離れ、川と北の山並みを同時に見られる場所へ立った。赤泥の出所を確かめたら、国境へ戻る。そのつもりだった。
「お姉ちゃん、これ甘いよ」
向かいに座っていた男の子が、干し杏を一つ差し出した。母親が困った顔をしたので、半分だけ受け取る。
「ありがとうございます。橋を渡るまで取っておかなくてよいのですか」
「橋の向こうで叔父さんがまたくれるんだ。青い旗がいっぱいある橋」
次に通る橋だ。
杏の甘酸っぱさが舌に残る。その上を、低い雷が転がった。
空を見上げても、頭上に厚い雲はない。音は北の山陰から来ている。しばらくして、もう一度。先ほどより近い。
川面にいた白い水鳥が、まとまって飛び立った。岸を替えるだけなら低く移る鳥たちが、川筋を離れ、丘の麦畑より上まで高度を取っていく。
赤泥。水鳥。遠雷。
上流の豪雨が遅れて狭い川筋へ押し寄せる鉄砲水なら、ここが晴れていても橋を呑む。北道から来た泥がまだ湿っていた時刻を重ねると、猶予は長くない。
「御者さん。次の橋へは行かず、丘沿いの道へ迂回してください」
水桶を馬へ運んでいた御者が、片方の眉を上げた。
「半日余計にかかる。国境門が閉まるぞ」
「上流で強い雨が降っています。車輪の赤砂がまだ湿っていました。水鳥も川を離れています。雷の間隔も短くなっています」
「ここは晴れてる」
「ここで降っている雨の話ではありません」
「赤砂は北道の河原から来ています。車軸の奥で乾いていなかった。昨夜より後に、上流の道へ水が出たということです」
自分の声が硬くなる。評定の机と笑い声が、ほんの一瞬だけ丘へ重なった。
御者は周囲を見回した。青い空、乾いた柵、昼食を広げる乗客。危険より、余所者の女が旅程を乱しているように見えるのだろう。
「橋は毎日渡ってる。あんた、この国の川を見たこともないだろ」
「ありません」
認めると、彼は話が終わった顔をした。
雨帳を開いて命じる役目は、もうない。侯爵家の名も、水務院へ提出する公用帳もない。黙って馬車へ戻れば、国境には今日中に着ける。
男の子が干し杏の種を掌で転がしていた。もう一つの杏を母親へ差し出し、受け取ってもらえるまで手を引っ込めない。橋の向こうで待つ人へ、この子を届ける。それも御者が守っている予定なのだ。
「橋、なくなるの?」
「まだ分かりません」
膝を折り、同じ高さで答える。
「だから、なくなる前に橋の手前で止まりたいのです」
母親が子どもの肩を抱き寄せた。その目には感謝より警戒があった。それでよい。安心させるために危険を小さく言えば、また同じことになる。
街道の向こうから、規則正しい鈴の音が近づいてきた。
先頭に旗を付けた騎馬、その後ろに荷車が続いている。銀糸で縫われた紋章は、隣国の公爵家のものだった。公爵隊商なら、馬車一台より人数が多い。先頭はすでに橋への分岐へ向かっている。
「出るぞ。乗らないなら置いていく」
御者が呼んだ。
国境までの席。追手から離れる距離。今日だけは、誰の判断も背負わなくてよい時間。
エリナは鞄を持ち、馬車へ歩いた。
踏み板に足を掛ける。そこには朝の赤い砂が、靴で払われたあとも細く残っていた。
「すみません。ここで降ります」
「運賃は返せないぞ」
「結構です」
鞄を肩へ掛け直し、橋への分岐へ走った。
◇
昼の分岐では、公爵家の先触れが後続へ進行の合図を送っていた。
エリナは道の中央へ飛び出さず、右手を高く上げた。馬がこちらを見て耳を伏せる。黒い外套の騎手は速度を落としたが、止まらない。
「橋へ向かわないでください。上流から増水が来ます」
「誰の命令だ」
馬上から返った声は短かった。
「命令ではありません。私にその権限はありません」
「なら、道を空けろ」
「信じなくてかまいません。確かめてください」
騎手が初めて手綱を引くと、後ろの馬が鼻を鳴らし、蹄で土を削った。
「何をだ」
根拠を笑う前に、確かめる方法を聞かれた。それだけで、次の言葉が一拍遅れた。
「車輪の泥です。北道から来た車の軸に、湿った赤砂が残っています。川の水鳥は岸を替えず、麦畑より高く逃げました。雷は北から、間隔を縮めています」
息を整え、分岐の左を指した。
「上流の雨が川へ届く前触れです。橋の手前で車列を止め、こちらの石切場跡へ上げてください。橋の上より標高があります」
「到達は」
丘の下に橋そのものは見えない。川沿いへ下る道と、遠くで揺れる青い旗だけが見える。旗のあたりへ、先行車の鈴が一定の速さで近づいていた。
雨帳を出しかけて、やめた。見た時刻は覚えている。赤泥が乾く速さも、鳥が上がった時の風向きも。
「遅くとも次の鐘まで。早ければ、もっと前です」
騎手は従者へ顎を向けた。従者は馬を降りて荷車の車輪へ駆け寄り、鉄輪の内側を手袋で拭って、指先に赤い泥を付けて戻ってきた。
「お前は何者だ」
答えが喉に引っかかった。
侯爵令嬢。トリスタンの婚約者。ヴァルクール家の雨読み。昨日までなら、どれも自分を説明する言葉だった。
「旅人です」
それだけでは、伝えるべきことが足りない。
「雨を読みます。けれど、今はどこにも雇われていません」
先触れは赤泥を見てから、エリナの空の手を見た。
「公爵閣下を呼べ。橋へ向かった車列も止めろ」
従者が馬へ飛び乗る。
追い払われなかったことに驚いている暇はない。橋へ続く道の先で、先行車の鈴が一つ、また一つと遠ざかっていた。




