第1話 雨帳を閉じる日
雨も降っていないのに、土の匂いがした。
朝の光が差し込む侯爵邸東棟の窓辺で、エリナは固くなった指を開いた。閉ざした窓の向こう、庭石の割れ目から黒い蟻が北へ列を作っている。評定が始まるまで、あと半刻。下流の橋を閉じ、川沿いの倉庫を空にする許可を取らなければ、三日後には人も冬越しの穀物も水に呑まれる。
昨夜から、私物の雨帳の角を揃えたのは三度目だった。
机には二冊の帳面が開いている。一冊は侯爵家の紋章入り。もう一冊は、革の剥げた私物だ。雲、風、虫、井戸の変化を積み重ね、災いが来る前に知らせる。それが雨読みの仕事であり、エリナが三年、給金も役職もないまま背負ってきた役目だった。
窓辺に置いた水差しの底で、細かな泡が生まれては消える。東から吹くはずのない湿った風が、窓枠の隙間をひやりとなぞった。
蟻。井戸の泡。東風。
三つ揃えば、川は増える。
公用の雨帳に警告の時刻と避難案を書き入れた。私物の方には、今朝見たものだけを書く。判断まで書けば、また誰かが自分の名で読み上げるからだ。
鐘が鳴った。
今度こそ、聞いてもらわなければ。備えが無駄になったと笑われるなら、その方がいい。エリナは二冊の帳面を抱え、評定の間へ向かった。
◇
午前の評定の間には、晴れた日のような金色が満ちていた。
壇上でミレーユが両手を掲げると、天井近くに残っていた薄雲の影がほどけた。晴れの祝福――局地的な雲を散らす妹の力に、父も家臣たちも惜しみない拍手を送る。窓は閉じたままなのに、誰も息苦しそうには見えなかった。
席に戻ったミレーユが、頬を輝かせて姉を見た。
「これで三日後の収穫祭も晴れますわ。お姉様も、少しは安心なさった?」
「収穫祭の日について、警告があります」
拍手の名残が消える前に立った。雨帳は胸に抱えず、机へ開いたまま置く。守るように見せれば、また感情の話にされる。
「北庭の蟻が移動しています。領内七つの井戸のうち、今朝までに五つで泡が増えました。加えて東風です。上流で強い雨が続き、三日以内にこちらへ流れ込む可能性があります」
父の眉間に、祝宴へ煤を落とされたような皺が寄った。
「可能性で祭を潰すつもりか」
「祭の中止は求めていません。下流橋の通行止めと、川沿いの倉庫を空にする準備を。今日始めれば間に合います」
「また姉上の心配性か」
誰かが笑い、別の誰かが続いた。薄い笑い声でも、人数が増えると立派な壁になる。
トリスタンが公用雨帳を手元へ引き寄せた。婚約者であり、水務院で家の報告を取りまとめる彼に、これまでも何度同じ動きをされたか分からない。
「エリナ、君は数字を集めることに熱心すぎる。判断は私たちがするものだ」
「判断していただくために、三年前の記録も持参しました」
別紙を一枚、机の中央へ滑らせる。
「同じ三兆候が揃った年は二度あります。いずれも上流の雨から四日以内に増水しました。昨年、橋脚の補修は予算不足で見送られています。今回は――」
「もうよい」
父の声が紙の行き先を塞いだ。
「ミレーユが空を晴らしている。民が望むのは、陰気な予言ではない」
ミレーユは困ったように睫毛を伏せた。
「お姉様、私、もっと頑張ります。上流の雲まで晴らせるようになれば、きっと心配はいりませんわ」
「今のあなたの力が届くのは、この屋敷の周囲だけです。上流の雲を散らした記録はありません」
「そんな言い方をしなくても」
妹の声が揺れた途端、冷たい視線が一斉にエリナへ向いた。警告の中身が、姉妹の争いへすり替わっていく。
トリスタンは慰めるようにミレーユの椅子へ手を置いた。
「実は、今日の評定にはもう一つ議題がある。侯爵家の顔として人前に立つなら、民を明るくできる者がふさわしい。雨読みの役目も、私との婚約も、ミレーユへ譲ってほしい」
一瞬、言葉の意味より先に、窓枠を鳴らす東風が聞こえた。
父は当然の決定を告げる顔でうなずいた。
「お前は補佐として家に置いてやる。今までどおり記録を取り、ミレーユとトリスタンへ渡せばよい。表へ出る必要がなくなるだけだ」
今までどおり。
給金のない仕事も。妹の名で称えられる判断も。警告が外れた時だけ向けられる責めも。
雨帳の端に揃えていた指から、力が抜けた。
「一度だけ、確認させてください」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
「役目と婚約をミレーユへ移した後も、私は観測を続け、記録をお二人へ渡す。その理解で間違いありませんか」
「家族なのだから当然だろう」
トリスタンは笑った。
「君の記録は、私が正しく使ってやる。面倒な説明も人前に立つ苦労も、もうしなくていいんだ」
家臣の一人が「妹君に嫉妬せず支えればよい」と囁いた。今度の笑いは、さきほどより近かった。
説明は、もうここまでだ。
公用雨帳を閉じ、トリスタンの前へ押し戻す。鈍い音がして、金色の拍手の余韻まで途切れた。
「承知しました。雨読みの役目も、婚約も、お返しします」
ミレーユが顔を上げる。
「お姉様?」
革の剥げた私物の雨帳だけを抱いた。
「もう、あなたたちのために空は読みません」
父が立ち上がり、椅子が床を擦った。
「待て。誰が出て行けと言った」
「補佐として残るというお話は、お断りします」
「感情的になるな。少し部屋で頭を冷やせば――」
「橋を閉じる準備は、今日から始めてください。警告は公用帳に残しました」
言うべきことは、それだけだった。
扉までの距離が、ひどく長い。背中でトリスタンが名を呼び、父が命じ、ミレーユが「私が晴らすから」と繰り返す。振り返れば、また説明してしまう。空が待たないから、人の分まで背負ってしまう。
扉の取っ手は、窓から来る風より冷たかった。
開ける。廊下の暗さへ、一歩出る。
今度は誰も、拍手をしなかった。
◇
正午の私室は、朝より広く見えた。
持ち出す物が少ないからだ。
寝台の上には替えの服が二組、硬いパン、古い外套。年かさの使用人が黙って小さな鞄へ詰めてくれている。いつもなら礼のあとに「すみません」と続けるところを、エリナは唇の内側で止めた。
「馬車は国境町まで行く便がございます。門を出るのは鐘二つ後です」
「ありがとうございます。間に合います」
「本当に、これだけで?」
机の上には、公用雨帳が五冊と書庫の鍵が並んでいた。三年間の水位、工事の要望、避難路の修正。どれも自分の字で埋まっているが、紙も革も侯爵家の金で買われたものだ。
「それは家の記録です。置いていきます」
「でも、お嬢様がお書きになったのでしょう」
「ええ。だから、どこに何があるかは覚えています」
革の剥げた一冊を鞄へ入れる。幼い頃から、自分の目で見た空だけを書いてきた私物の雨帳。これまで公用帳の誤りを埋めるために何度も開いたが、もう机の横に置いておく理由はない。
使用人は鍵の束を見て、それから小さく息を吐いた。
「下流の倉庫に、姪が勤めております」
胸の内に、いつもの焦りが戻ってくる。自分が残れば。倉庫へ直接走れば。命令されなくても、いつものように。
「公用帳の赤い紐の頁に、避難順を書きました。橋の見張りへ渡す写しもあります」
「分かりました。私が届けます」
引き受けるのではなく、手渡す。こんなに軽い動作だったのかと、空になった指を見た。
机へ書庫の鍵を置く。金属音が一つ鳴った。
私物の雨帳を鞄のいちばん上に収め、口金を閉じた。
◇
正門の外には、国境行きの乗合馬車が待っていた。
昼の白い光の下、御者が荷を屋根へ縛り、二頭の馬が乾いた地面を蹄で掻いている。エリナは外套の襟を押さえた。門内に父の姿はない。トリスタンも、ミレーユも来なかった。代わりに先ほどの使用人が、赤い紐の写しを胸元へ抱えて立っている。
「必ず倉庫へ届けます」
「お願いします」
門番へ、書庫の鍵がもう手元にないことを告げた。そして一度だけ、侯爵家の紋章を振り返る。
「今日から、私の記録を使わないでください」
馬車の段へ足を掛けた時、遠くで雷が鳴った。
晴れ渡った屋敷の空ではない。国境へ続く道の、その向こう側からだ。
鞄の上で雨帳が膝に重い。怖くないはずがなかった。家名も婚約も役目も置いて、行き先は国境町までしか決めていない。
それでも、戻りたいとは思わなかった。
御者が手綱を鳴らす。門が遠ざかり、車輪のあとへ湿った土の色がにじんだ。
雷は、もう一度鳴った。




