第83話 命令した者
取引条件の欄にだけ、窓格子の影が落ちていた。
午前の光が高窓から差す王国監察所の公開聴取室で、トリスタンは長卓の片側に座っていた。左に監察官と書記、正面にアルヴェーン公、その後ろに故国の被害者代表が二人いる。扉際の護衛は、彼が椅子を引くより先に一歩動いた。
旧水務院の徽章を外した襟が、顎の下へ細い糸を当ててくる。
昨夕、三国は山上の第三冠座から百年分の水を逃がす覚書へ署名した。ただし、二台の水時計には数分のずれがある。基準となる一台を見つけられなければ、先に門を開けた流域が圧力をかぶり、成立したばかりの協力も人命も失われる。
その一台がどこにあるか、ここでは自分だけが知っていた。
監察官が机の中央へ図面を置いた。透明な筒、三本脚、底に刻まれた古い冠形。青錆の位置まで、移管書で見たものと同じだ。
「基準水時計の所在を知っていますか」
「知っています」
声は思ったより響かなかった。傍聴席は満ちているのに、誰も彼の顔を見ようとしない。見ているのは図面と、書記の前にある無条件証言書だった。
減刑。財産返還。名誉回復。
三つの取引条件欄が並んでいる。かつての自分なら、最初の言葉を選ぶ前に、どこまで取り戻せるかを数えたはずだ。
「証言に条件はありますか」
監察官の問いに、喉まで上がった言葉があった。刑の確定前に、せめて――。
故国側の代表が椅子を鳴らした。洪水で堤防倉庫を失った男だ。袖口の色が左右で違う。片方だけ、支給された新しい布で継いである。
トリスタンは証言書を自分の方へ引いた。
「ありません」
書記が顔を上げた。
「減刑、返還、名誉回復を含めて、条件なしでよろしいですか」
「はい」
「記録します」
格子の影が、空欄の上で少し傾いた。
「基準水時計は、ヴァルクール侯爵家の継承庫にあります」
傍聴席の奥で衣擦れが止まる。
「継承庫は、当主権に結びつく原器や条約、負債記録を保管する書庫です。現侯爵の印章と、本人の在席署名がなければ開きません」
「庫内の場所を」
「冬期水利記録の棚。その最奥です。棚札は上下を逆に打ってあります」
「なぜ、そのような保管を?」
答えは短くできた。隠すためだ。
短くすれば、自分がどこにいたかまで消える気がした。
「私が移管書へ署名しました。雨帳の差し替えに使った連絡網で搬入し、通常の棚番号から外すよう手配しました」
アルヴェーン公は礼も怒りも返さず、図面の次の頁を開いた。
◇
書記は保管台帳の写しを開いた。
「冬期水利記録の棚には、欠番がありません」
やはり来た、とトリスタンは思った。ここで食い違えば、供述は時間稼ぎとみなされる。観衆の前で負ける時、以前なら声を大きくした。肩書を重ね、同じ命令を言い直し、相手が折れるのを正しさと呼んだ。
「表の番号にはありません」
「説明してください」
「冬期記録だけ、棚札の上下で内棚と外棚を分けます。第六棚の札を外し、裏返してください。裏に内棚の『六の二』があります。移管簿には六の二を記さず、冬印を一つ足した」
書記が別の帳面を寄せた。第六棚の冬印だけが、他の年より一つ多い。欠番を作らず、印だけを足した跡だった。
監察官が確認者二名へ回す。すぐには誰も頷かなかった。虫眼鏡が渡り、印の輪郭とインクの年代が見比べられる。
予定より長い沈黙だった。
その間に、被害者代表が口を開いた。
「水時計のことだけ聞けば、足りるのですか」
監察官が彼へ向き直る。
「本日の救命上は、所在と開庫条件が優先です。ただし、証言者は関連する命令責任も記録すると申し出ています」
「関連する、ですか」
男はトリスタンを見た。初めて向けられた視線に、勝った気はしなかった。
「私たちは危険水位を送った。消したのは誰です」
「当直書記が――」
古い答えが、口から半分だけ出た。
書記は実行した。ヴェルクは差し替えを望んだ。ミレーユは署名を拒んだ。事実はいくつもある。その順に並べれば、自分の名を薄くできた。
「違います」
言い直すと、室内の空気が一度だけ動いた。
「削除を命じたのは私です。危険水位を器具不良とし、安全宣言を正本へ差し替えるよう命令しました。当直書記は、私の命令を実行した」
「なぜです」
「警告が正しかったと認めれば、エリナの記録を私の成果として出したことも、雨読みを継ぐ資格がないことも明らかになると思ったからです」
格好のよい理由は残っていなかった。
「その後、天冠欠巻を持ち出したのも?」
「私です。失効した予備著者印を使いました」
「ヴェルクの命令だったから?」
男の声は静かだった。許す者の声ではない。逃げ道がまだあるかを確かめる声だ。
「持ちかけたのはヴェルク閣下の使者です。選び、命令したのは私です」
監察官が書記へ目をやる。
削除命令の日付。安全宣言の発行番号。欠巻の封印を切った予備著者印。既に保全された三つの記録が読み上げられ、いまの証言と一つずつ重ねられた。
謝罪を口にしても、男の袖の継ぎ布は元に戻らない。書記が裏を取り、刑を決める者が使える形まで残す。そこまでしなければ、また誰かへ後始末を渡すだけだ。
無条件証言書の三欄へ、トリスタンは順に斜線を引いた。
減刑。
財産返還。
名誉回復。
その下へ、雨帳削除と安全宣言差し替え、天冠欠巻窃取と基準水時計移管について、自分の命令と関与を書き足す。
「訂正はありますか」
「ありません」
「署名を」
以前の署名は、他人の仕事を自分の名へ移すために使った。
今度の名は、どこへも上がらず、命令した者の欄に残った。
◇
午後の護送準備室では、故国宮廷までの行程表が壁へ留められていた。
カイル、監察官、護衛責任者が三つの経路を囲んでいる。トリスタンは護衛二人の間に立ち、窓のない部屋で自分の旧肩書を見つけた。
「水務院後継トリスタン・ローヴェル殿を、東側奉仕門より秘密移送せよ」
届いたばかりの護送変更命令に、そう記されている。
もう存在しない肩書だった。
一瞬だけ、よく知る服を差し出されたように見えた。着れば以前の場所へ戻れる。戻った先で、証言書も本人も人目から消える。
「照会番号がない」
護衛責任者が封筒を裏返した。
「宮廷護衛隊の受領印もありません。封蝋は正規型に似せていますが、縁が一つ足りない」
「押収し、到着経路を記録へ入れろ」
カイルは偽命令書を証拠袋へ移させた。
「護送は秘密経路を使わない。出発時刻、立会人、受渡先を公開する。証言原本は監察所へ残す」
「写しは?」
「三国へ別々に送る。どれか一通が奪われても、照合できるように」
書記たちは証言書を四部に分けた。沿岸国は灰色、故国は黄、アルヴェーンは青の封筒。原本だけは色のない監察封へ入る。
トリスタンの移送票も机へ置かれた。身分欄には証人とも元婚約者とも書かれていない。
拘禁者。
その二文字を見ても、訂正を求める言葉は出なかった。
「継承庫を開けられるのは、ローラン侯爵だけです」
念を押すと、監察官が公開護送の目的欄へ加えた。
「現当主の印章と在席署名による開庫。基準水時計と保管記録の同時確認」
「水時計だけを持ち出せば、隠した経緯がまた消えます。棚の台帳も立会いの前へ出してください」
カイルが初めてこちらを見た。
「その要望も証言へ添える。採用するかは立会人が決める」
「それで構いません」
礼を言えば、何かを返してもらう会話にしてしまいそうだった。
色の違う三通が、別々の伝令の鞄へ納まる。原本は監察所の封印庫へ戻り、偽命令書は証拠棚へ消えた。最後に残った護送名簿の拘禁者欄へ、トリスタンは指を押しつける。
三人の伝令が、彼を残して別々の門から故国へ出ていった。




